八木雄二『ソクラテスとイエス』

ソクラテスの弁明」であるが、まず、ソクラテスは、アテナイの若い、メレトスという青年に裁判に訴えられる。その内容は以下だ。

その宣誓口述書はつぎのようなものです。「ソクラテスは不正を冒している。若者をだめにするとともに、国家が認める神々を認めず、異なる新規のダイモーン神を認めている」。こういう訴えなのです。それぞれの訴えについて、わたしは吟味していきます。(24B-C)。

そして、「ソクラテスの弁明」にある前半の議論は、上記の引用にある

  • ソクラテスが若者をだめにする(という不正を冒している)。

というメレトスの主張に対してのソクラテスの反論となる。
まず、状況証拠を確認しておこう。
年配のソクラテスの回りには、多くの若者が集まって、彼に教えを乞う姿が見うけられていた。そして、その若者の中の何人かは、大人たちから「悪い奴」と受けとられていた。そして、その彼らは、往々にして、ソクラテスが得意としている弁論術を、まるで真似しているかのような「屁理屈」を使って、大人たちを「やりこめて」いるように見受けられた。ここまでは、おそらく、ミレトスもソクラテスも同意する(実際にその若者が「悪い」かどうかの判断は必要ない。少なくとも、回りはそう見ている、ということ)。そこから、ミレトスは、そういった若者が「そのようにある」

  • 責任

ソクラテスにある(つまり、ソクラテスが若者たちを「悪く」教育している「結果」だ)、と主張している。
では、ソクラテスはなんと言っているか?

物事に関していかにも真剣に取り組んでいると見せて、そして、これまでまるで気にしたことがないことを憂えているかのように見せて、いいかげんな思いで人を裁判沙汰に巻き込み、本気になって、ふざけているのです。(24C)

つまり、ミレトスは

  • この問題

に、なんの「興味もなく」、適当な言葉を並べているだけだ、と。
どういう意味なのか?
まず最初にソクラテスはメレトスに、ある質問を投げかける。

さあ、では、君はわたしが若者を駄目にして、より悪しきものにしているということで、わたしをここへ引っ張り出しているが、それは故意にと見てか、それとも故意ではなしにと見てか。
「わたしは、故意にだと見ている」
(25C-26A)

さて。もしも、それが「故意」だとすると、一つの「矛盾」になる、とソクラテスは言うわけである。

そしてそのためにわたしは、もしも自分の仲間のだれかを悪い者にするなら、彼から何か悪いものを受け取る危険があることも知らず、それだからわたしは、それほどに悪いことを故意にやっていると、君は言うのか?
(25C-26A)

ミレトスは、ソクラテスが、若者の「教育者」だと認めている。しかし、もしもソクラテスが「悪い人」を育てているとすると、その若者は「悪い人」になるのだが、「悪い人」とは、

  • 自分の回りの人に「悪」を行う

ことを意味するのだから、ソクラテスは、わざわざ後で「困った」ことを、その若者から受けるために教育していた、ということになる。
まあ、教育の「パラドックス」というわけだ。
では、もしもミレトスが自分から言ったことに反して、ソクラテスは「故意じゃない」と思っていた、としよう。ミレトスに、なにか理由があって、思っている逆を言ったんだ、と。しかし、そうだとしても困ったことになるわけである。もしもソクラテスは故意でやっていないとすると、ミレトスがやるべきことは、裁判じゃなかった、ということになる。なぜなら、ミレトスがソクラテスに直接「教えて」やれば、故意じゃなかったんだから、気付けば直すに決まっている、からだ。
ということは、どういうことか? ミレトスは

  • 自分が何を言っているのか、さっぱり分かってなかった

ということになってしまう。
そして、後半の神の話もそうなのである。もしも、ソクラテスが間違った神を信仰していると証明しようと思っていたなら、今まで何度も機会があったのだから、ソクラテスのそういった間違った礼拝などの場面の決定的な瞬間を掴まえようと、ソクラテスの行動を調査してきたはずなのだ。なぜなら、これは若者たちにとって「重要」な問題のはずだ。そんな、ソクラテスに間違った行動をとられたら、若者たちは悪い影響を受けてしまう。だったら、なおさら、その証拠を掴まえて、若者たちを説得しようと動いたはずではないか。それが、そういった

  • 若者たちのことを考えて

彼らが「かわいそう」だと思う人間が行う行動のはずなわけであろう。ところが、ミレトスには、そういうことを行った形跡が「一切ない」。つまり、ミレトスは、そういった若者のことなんて、今までも今も、一度たりとも考えたことなんてない、という証明だ、というわけである。
うーん。
おそらく、ミレトスは狐につままれたような顔で、このソクラテスの反論を聞いていたのではないか。
ミレトスは、ソクラテス

と言いたいだけないわけである。つまり、「村の掟」に反している、と。
アテナイ国家も、その他の国家も同じわけだが、子供たちを村の大人が育てるのは、立派な国を守る国民にすることだ、と考えられている。つまりは、国を守る

  • 戦士

になることが、大人の子供への義務だ、というわけである。
国家が生き残るのには、もしも回りの国家から、戦争をしかけられたら、負けてはならないわけだ。なぜなら、負けたら「奴隷」にされるからだ。事実、何十年か前に、アテネ国家は、スパルタに戦争で負けていた。その時は、たまたま、スパルタの占いで、アテネ国民を奴隷にしない、という結果がでたために、スパルタがそうしなかったというだけで、奴隷にされていて、なんの不思議もなかったわけだ。
奴隷にされたくなかったら、戦争に勝つしかない。しかし、アテネ国家は

  • 小国

である。言うまでもなく、エジプトは巨大国家であるし、歴史の上では、アテネはその後、アレクサンドロス大王に征服されて無くなるわけだ。
だとするなら、どういうことになるのだろう? 一切の国家は「無意味」ということだろうか? どうせ滅びるなら、なにをやっても無駄だ、と。
ミレトスに言わせれば、子供は大人に育てられて、国家を守る存在にならなければならない。そして、それイコールが、世の中の「ルール」に(無批判に)従う子どもになる、ということだと考えている。なぜなら、そうならなかったら

  • (国力が落ちて)国家が滅びる

からだ。
ミレトスにとっては、世界は「二択」なわけである。国家が滅びるか、子どもが道徳に従順か。
ところが、である。
どうも、ソクラテスは、まったく「違う」ことを考えているようなのである。

有徳な人物であると信じられていた人が、ひとたび裁判に掛けられると、あなた方が彼らを殺さなければまるで不死であるかのように、自分が死刑にされかねないとなろうものなら、驚くべき行動をとるのです。わたしは、そういう姿を見せる連中は、市に恥辱を結びつけるものだと思います。というのは、徳においてアテナイ人のなかで抜きん出ているからと、市の政治に、またほかの栄誉のある職に選ばれた人たちが、そういう姿を見せるなら、女たちと比べても、まったく抜きん出ていないと、だれか外国から来た人が、考えるだろうからです。(34D-35B)

とくにアテナイは当時、戦争に負けたとしても文化レベルにおいてギリシアで名高い国家であった。その国で「すぐれている」と認められた人が、裁判で「そういう醜い姿をさらす」のは、外国からの客人が見たら驚くに違いないと言う。

なぜ、ある小さな国家が滅びることなく続きうるのか? それは、

  • 暴力

によってではない。なぜなら、小さいということが示しているように、暴力では負けることは必定だとされているのだから。
だとすれば何か? それは、なぜ「大国」の人たちは、自分の国が滅びることなく続くように活動をしているのか、に関係する。それは、自分の国が続くことには「価値」がある、と思っているから。そして、それは

  • その国に生きている人たちが「立派」な生き方をしている

と思えるからであり、そのことと離れては考えられないわけである。
だとするなら、それは小国においても同じなのだ。なぜ大国が小国を滅ぼさないのか? それは、大国の人たちが、その小国の人たちが「立派」に生きていることを尊敬しているからだ。そういった何から続くべきだと考えることは、その大国自体が、そうあることで、だから、長く続いてほしいと考えることと切っても切り離せないわけである。
さて。ここで、最初の議論を振り返ってみよう。ソクラテスがミレトスを批判している理由は分かった。しかし、一つ疑問がある。ソクラテスは、自分を慕って、つきまとってきた「若者」の何人かが、

  • ワルぶる

態度をしていたと指摘されたことをどう考えていたのか?

それに対して、ソクラテスが関わっていたのは、もっぱら前者の「自分が生きる意味」に関することがらである。ソクラテスによれば、こちらに関しては「教えることができない」。言い換えれば、それに関しては一般的な知識は成立しない。すでに説明した通り、「自分が生きる」ことの意味の問題は、第三者的に問題にすることができないからである。
とはいえ、それは道徳の課題となるから、第二者的な局面で問題にすることができる。しかしそれでも、「自分が生きる」こと自体は「自分一人」の絶対領域の問題であるから、直接には、自分一人で考えて解決を見つけるほかない問題である。すなわち「自分がどう生きるか」は、自分だけの問題であり、ほかの誰かではなく、「自分がわかる」ことを求めなければならない。自分の下にしかない「生」は、他者に聞いてわかることはできないからである。加えて、自分の下にしかない生は、自分によってしか替わらない。

ここでの論点は二つある。まず、もしもソクラテスの下に集まった若者の中に「悪」をなす人がいること自体が「問題」だというなら、ソクラテス

  • ソクラテスの下に来る前から「悪」だった若者と関わらなければよかった
  • なぜソクラテスは、その若者を「善」に変えられなかったのか?

の二つが分析される。もしも前半が問題だったというなら、そういう人は「若者」の教育に「興味がない」ということになる。つまり、ギリシアの若者に

  • 興味がない

ということだ。つまり、彼らを「愛していない」ということだ。その若者が良いか悪いかは、その若者に教育をするかしないかに関係ない。ダメなところがあれば、それを「示唆」しなければ、最初から若者に興味がない、ということになって、ミレトスの「無関心」と変わらないことになる。
では、後者についてはどうか。ソクラテスが以前に自分に近づいて、親身にしていた若者が、調子にのって、「悪」を行っていた、ということがあったとして、なにか「不思議」なことだろうか?
というのは、ソクラテスはそういった、若者の「悪態」を見かければ、それとなく、注意をし続けてきていたからである。彼はそういった若者が自分に近づいくる限り、それを止めなかった。しかし、だからといって、それによって

  • どうすべきなのか

に、その若者が「気づける」かどうかは、ひとえにその若者の自主性にかかっているわけである。どんなことも、その若者が自分で見つけて、納得して前に進むしかない。回りの大人ができることは、そういう方向に向かっていくように、いつも「気にかけ」て、見守っていることしかできないのだ。

いつもの、あのダイモーンの予言の技は、これまでずっと、あらゆることがらに当たって、つねに、たびたび、ありました。しかも、ささいなことに当たっても、わたしがしようとすることが正しいものでなければ、敢然とわたしに反対されました。(40A-B)

ここで、ソクラテスの「宗教心」についても考えてみたい。彼は何か行動しようとするたびに、こういった形で

  • 良心の呵責

に苦しめられた、と言っているわけである。
しかし、である。
これは、よく考えてみると、つまりは、「ずるはするな」「間違った計算はするな」「矛盾するな」といったような、

  • 数学の計算

とよく「似た」ことを言っていることに気付かないか? つまり、こういった形でソクラテスが「神の言葉」として語っていたことは、彼が「正しく計算しているか」を自問し続けてきた、と言っていることと、ほとんど同じなのだ! つまり、そのことは、さまざまな倫理的な自らの発言についても、

  • 矛盾したことを言うな(行うな)

と、常に自分を諫めていた、ということなのであって、あまりその神秘的な意味を云々する話と受けとる必要はない、と私は思うわけである...。

ソクラテスとイエス: 隣人愛と神の論理

ソクラテスとイエス: 隣人愛と神の論理