上枝美典『現代認識論入門』

言語分析哲学については、リチャード・ローティに関連して、さまざまに論じさせてもらったわけだが、そこにおける「言語論的転回」をもう一度振り返ってみるなら、

  • 経験論

の立場からは、「心は存在しない」。なぜなら、心とは結局、最後は

  • 言葉で記述されたもの

に「還元される」から、ということになる。どんな「思想」も、どんな「認識」も、結局は「言葉」で「記述」される。だったら、その「言葉」さえ「分析」すれば、

  • すべて

が分かる、というのが、経験論の延長から導き出される、言語分析哲学の立場である。
こういった立場においては、例えば、カントが行ったような認識論についての形而上学的な論文も、オートポイエーシス・システム論が議論をしているような、システム的な考察も、そもそも存在しないのと変わらない。なぜなら、彼らにとって、あるのは

  • 言葉(ことば)だけ

だからだ。彼らが行うのは、この言葉の「分析」であって、その言葉に

  • 何かがある

と考えているし、そこからしか何かを導いてはならないわけだから。
そして、この本のタイトルの「現代認識論」というのも、ようするに、言語分析哲学が「知っている」という<言葉>を分析したら、なんか変なパラドックスがでてきたから、それを巡って、何十年も喧喧諤諤の議論が続いている、という情けない状況の報告が行われているのがこの本だ。

「知っている(knowledge)」とはどういうことか。このつかみ所のない問いの手がかりとして、現代認識論が使うのは「知っているとは、正しく(justified)、本当のことを(true)、思っていることだ(belief)」という分析である(標準分析)。

こういった議論を見ると、私たちは「自然科学」を巡って議論をされた、さまざまな主張を思い出す。なにが科学的に正当化された命題なのか。それは、科学の正当化が、科学者集団によって、どのように行われているのか、といった話であった。そして、そこには、カール・ポパー反証可能性の議論や、トーマス・クーンの科学革命についての議論があった。
ところが、ここで言っているのは、そういったことではない、と掲題の著者は言う。そうではなくて、私たちが日常的に行っている「知っている」という言葉を、どのように使っているのか、を問うているのであって、それはなんなのかと聞いている、と言うわけである。

この点を別の方向から見ると、正当化要素を真理要素から分離させることは、懐疑論に対する耐性を得ることにつながる。つまり、私たちが知識を得るためには事実や真理に到達する必要があるという懐疑論者の要求を退け、そうではなく私たちに求められるのは認識的正当化、つまり(それが何であれ)認識的に正しいということであって真理に到達することではないという論陣を張ることができる。

それでは、この本で「ゲティア問題」と呼ばれている、上記の標準分析の「反例」を紹介する。

スミスはある職をめぐる就職競争のライバルであるジョーンズについて次の命題が真である十分な証拠をもっているとする。

  • (P)就職するのはジョーンズであり、かつ、ジョーンズはポケットに10枚のコインをもっている。

たとえばジョーンズが職を得ることを人事の責任者から直接聞いたとか、少し前にジョーンズのポケットのコインの数を数えたとか、その他あらゆる証拠をスミスがもっていると想定する。
ところで命題Pが正しいなら次の命題Qも正しい。

  • (Q)就職する人物はポケットに10枚のコインをもっている。

スミスは二つの命題のこの関係を理解し、Pが真であることを根拠にQを真と認めた。しかしスミスの知らないことだが、実は職を得るのはスミスであり、おまけにスミスのポケットには、彼が知らないうちに10枚のコインがあった。この場合Qは真だが、スミスがその根拠だと考えたPは偽である。したがってスミスがQを知っていると言うことはできない。それにもかかわらず、

  • 1. Qは真であり、
  • 2. スミスはQが真であることを信じていて、
  • 3. スミスはQが真であると信じることにおいて正当である。

という標準分析が要求する三つの条件を満たすので、標準分析によればスミスはQを知っていることになる。ゆえに標準分析は誤りである。

なんだこの「人工的」な命題は、と思うかもしれないw しかし、言語分析哲学者は、いっこうに真面目なのであるw ようするにどういうことか? 言語分析哲学とは、私たちが子どもの頃に、義務教育で受けてきた

  • 国語(こくご)

という教科に似ているのだ。ある言葉がある。そして、その言葉の意味が、辞書には載っている。だったら、この言葉の意味はそれだ、となるわけだけれど、どうも、さまざまな事例とぶつけると

  • 矛盾

したことになっちゃうようだ。だったら、この意味を変えなきゃいけない。でも、どう変えたらいいの?
まさにこれが

  • <現代>哲学

とか自称している連中がやっている、なんからの彼ら言わく「哲学」なるものの営みなんだそうだ。
つまり、完全に「語用論」に堕しているw 上記の分析から分かるように、驚くべきことに、この議論は、まったく

  • 自然科学と関係ない

わけだ。こんな「定義」ができなくたって、自然科学は成立している。つまり、なんか分かんないけど、この言葉を定義する、うまい言葉が見つからないっていう「だけ」で、何十年も、これにまつわる論文が書かれ続けている

  • 世界

だ、というわけである。
素朴な印象を言わせてもらうなら、スミスの心の中の「主観的」な動きにおいては、違和感がない、ということだ。スミスが(P)という命題の信念をもっていた最初の段階で、彼の心の中には、

  • 職を得るのはスミス
  • スミスのポケットには10枚のコインがあった

という事実は知らなかったわけだし、そう考えてもいなかったのだから、彼はこの二つの命題を「意図」して(P)という命題を主張していない。では、(Q)とは何かといえば、それは(P)の主張を「抽象化」してあるに過ぎない。具体的な事実の指摘だったものを、「存在命題」に変えたに過ぎない。だとするなら、それにすぎない(Q)という「信念」がスミスの中にあるという主張は、そもそも、(P)という「パラメータ」によって決定された「事実命題」程度の感覚でしかないのだから、(P)の方が変更されれば、(Q)の扱いが変わることは当然のように思われる。
つまり、ここにはスミスの

  • 意図

つまり、

  • 彼の心の中の「モデル」が<どうなっていたのか>?

があって、そのモデルと、ただの紙に書かれた「言葉」でしかないものを「一致」させなければならないのかが、なにか馬鹿馬鹿しいことをしている印象を受けるわけだ。
もしも最初から、ここでの議論が

  • スミスは「本当」はどう思っていたのか?

が問われていたら、むしろなにも矛盾がない。「矛盾がない」のにこれを矛盾だ、としているということは、そもそもここでの議論が、なにか変なことをやっている、と言わざるをえなくなるように思われるわけだが、じゃあ、なぜこんなことをやっているのかといえば、それは

の「立場」に関係している。つまり、「認識」を標準分析という形で定義したのだから、この定義を使えば、いくらでも「知識」を増やせなければならない、という立場だからだ。そもそも、言語分析哲学とは、

  • それはきっとできるはずだ

という「立場」なのだから、どうしてもここを乗り越えなければならないのだ。今さら、カントのように「心の理論」に戻るわけにいかない。なんとしても、「認識」を「定義」して、一切の人間が今まで「生産」してきた「文章」を

  • 矛盾なく

その定義で説明できなければならない。だから「負けるわけにはいかない」というわけだw
じゃあ、このゲティア問題がなぜそれを難しくさせているのかといえば、ようするに(Q)という命題が、なにか

  • 客観的

な主張であるかのように扱われている(つまり、ある種の「真実命題」)ことに問題があるのだろう。しかし、そういった客観性をいつまでたっても主張できなかったら、それはそもそも「知識」が、いつまでたっても蓄積されていかない、ということになるのだから、言語分析哲学者たちにとっては「困る」のだろう。
前回も書いたように、そもそもソクラテスは「無知の知」を主張した。だれも善美のことについては分かっていない。なぜなら、八木先生に言わせれば、それは一人称、二人称の範囲の問題だからだ。つまり、そういったものが「三人称」(つまり、客観的)な「知識」に

  • 変わらない

というのがソクラテスの主張だった。
つまり、そんなに簡単にこの「主観的」なものの「客観的」なものへの「変換」が、

  • 言語分析

によって、まるで「手品」のように実現できたら、むしろ私たちの方が困ってしまうわけであろうw

ウィリアムソンが言うには、「知る」は人間のもっとも一般的な、叙実的な心的状態(factive mentak state)を実現する言葉である。前に述べたとおり、叙実的な動詞とは、「知る」の他に「見る」「聞く」「覚えている」「後悔する」など、目的語が事実を指すような動詞である。これらの動詞は、直観的に言って、心が事実に触れていることを表す。見るのは目によって触れることであり、聞くとは音によって触れることである。覚えているのは昔のことに触れることであり、後悔することはやはり過去の事実に複雑な気持ちで触れることである。
人類にとって心が世界に触れることは重要なことであった。だからそれに言葉を与えた。それが「知る」という言葉であった。

まあ、こういった立場が、この本の最後で紹介されている知識第一主義(プリミティヴとしての知識)の側から考察する姿勢ということになるのだろうが、さて、このゲティア問題。あと何世紀たったら、言語分析哲学者はその「答(こたえ)」に辿り着くんだろうね...。