橳島次郎『これからの死に方』

ナチス・ドイツホロコースト、つまり、ユダヤ人の大量虐殺、民族抹殺が、どのように行われたのかの経緯を観察してみると、それ以前に、かなりさかんに

が行われていたことが分かる。そのことは、ナチスのこういった「安楽死政策」に大きな影響を与えたと言われている、第一次大戦以降にドイツで話題になった、以下の本が参考になる。

森下直貴/佐野誠 編著
新版「生きるに値しない命」とは誰のことか
新版-「生きるに値しない命」とは誰のことか-ナチス安楽死思想の原典からの考察 (中公選書)

この本は、前半がその、カール・ビンディングという法律家による論文で、後半がそれを受けてのアルフレート・ホッヘという医師による論文で、まあ、日本の戦前の国粋思想系が戦後、一切、検閲で読めなくなったのと同じように、評判の悪い本だ。
この論文を読むと、主に三つのことがテーマとされている。

  • 本人が「自殺する」と言っている場合、その意志を「尊重」する社会になるべきか(つまり、国家は自殺を幇助すべきか)?
  • 生まれたときから、意識がなく、言語能力も育たなかった人は、そもそも自分から「自殺する」とは言えない。また、ある日、突然、病気になり、意識がなくなった人も同じように「自殺する」とは言えない。こういった人を国家は殺しては駄目なのか?
  • そもそも国家は、景気によって、経済状態が左右される。つまり、景気のいいときはいいが、悪いときは、さまざまに節約もしなければならない。そうした場合に、「国家に役に立たない」(と、なんらかの規準で国家が計算した)人間から先に、国家が「殺す」ことは選択肢にならないのか?

こうやって並べてみると、この三つはまったく違うテーマが議論されていることが分かるわけだが、逆に言うと、なかなか客観的、かつ厳密に、この三つを分けられるのか、ということも議論となりそうである。
ナチス・ドイツで考えるなら、おそらく最初は、三番目の議論から始まり、その最初の対象として二番目で実行され、これに社会が「慣れて」きたところで、次第に

といった順番が見えてくる。
では一番目とはなにかということだが、本人が「自殺する」と言っている人の、その意志を「尊重」するのかどうか、ということなのだ。尊重する、ということは、普通に解釈すれば、

  • その人が、なんとか「自殺したい」と思っていることを「応援する」

という意味に解釈される。しかし、だからといって、応援する側が、直接に手を下すとそれは、「自殺幇助」という

  • 犯罪

になる。つまり、ここには「パラドックス」がある。相手は「困っている」と言ってるんだから、それを「助け」ると、相手は死んでしまう。つまり、これは本当に「助け」る行為なのかどうかが疑わしいわけである。
しかし、である。
そもそも、どういった場合に、人は「なにかをしたい」と言うだろうか? それは、多くの場合は、

  • だれかが「困っている」と言っているのを「助けたい」

場合であることが分かるだろう。つまり、一番目は、そもそも

  • 三番目

と深く結びついているわけである。ある人は「自殺したい」と言っている。なぜか? 言うまでもない。「国家が借金だらけで大変」だからだ。この国難に、自ら死を選ぶことによって、国家財政の負担を一円でも防ぎたい。そうすることで、なんとかして

  • 国家の危機

を免れる一助となりたい、というわけである。
これに対して、掲題の著者は、videonews.com でのインタビューで以下のように答えている。

宮台:迫田さんは、社会的な波及効果、悪乗りして、他の奴はこういう場合には死ぬんだよ、なんでお前は死なないんだ、っていうふうに言ってくる奴が、かならず今の日本の状況だったらでてくるよね。
迫田:言ってくるだけじゃなくて、自分でそう思ってしまう。
VIDEO NEWS 死は自分で選ぶことができるものなのか

橳島:だから、そういうごちゃごちゃ言うのは、そういう言っている相手をまったく尊重していない。だからそういう話し合いっていうのは、お互いを尊重する、相手がどう考え、相手が、こういったことにどう言ったか、なんでそういうことを言ったかみたいなことを、お互いを尊重しあえる関係性って、宮台さんは言ったけど、単なる関係性じゃなくて、お互いを尊重するところから始めないといけない。死にたいと言っているのを尊重しないで無視するのも駄目、だから、逆に、生きたいって言っているのを尊重しないのも駄目、っていうことだと思うんですよ。それしかないと思うし、それが社会の成熟だと思うんですね。
VIDEO NEWS 死は自分で選ぶことができるものなのか

ここで、注意がいる。ここで、掲題の著者が考えているのは、そもそも

わけである。つまり、掲題の本もそうだが、この本は、そもそも「死に方」と書いてありながら、その大半は、自分が死んだ後の、

  • 自分の葬式など

を、回りの人に「こうやってほしい」と

  • 言う(つまり、「選ぶ」)

ことが「前提」になっている。つまり、自分の人生の最後を

  • 回りの人に、いろいろと「いろどってほしい」

ということが書いてある本なのだ。そして、そのことは以下の発言からも分かる。

橳島:オランダでは、私が聞いた話では、ただ孤独に一人で薬を飲んで死んじゃうのは、自殺なんですって。それはよくない死に方。今、宮台さんが言ったように、みんなを集めて、あるいは、その前に、私はこういう理由で死ぬことにしたってみんなに話すんですって。で、オランダ人はその家族もその話を聞いて、この人ならそうかなって、納得できればそれで、分かりました、っていうんですって。
VIDEO NEWS 死は自分で選ぶことができるものなのか

(考えてみてほしい。そもそも「自殺」とはパラドックスだ。なぜなら、そもそも自殺は「必ず成功するわけではない」からだ。日本の、切腹文化でも、必ずそこには「介錯人」がついている。つまり、実際は自殺とは「他殺」なのだ。)
例えば、こんな社会を考えてみよう。生まれて、小学校に入った子どもたちが、次々と

  • 死にたい

と訴え始めたとしよう。しかも、彼らは、なぜ死にたいと考えるのかの理由を言わない。そして、実際に、次々と小学生が自殺によって死んでいって、国の人口を維持できずに滅びた、としよう。
これは、上記の「三番目」の逆のケースを言っている。国家は、あまりに人口が多いと、食糧難になり、「口減らし」を必要になる、と言うということは、逆に「減りすぎ」ても

  • 困る

と言っているわけである。しかし、自分が「死にたい」と言っている人を「尊重」することが、もしも「殺す」ことだとするなら、なぜこの運動に逆らえるだろうか?
もしかしたら、こうして人類は滅びるのかもしれない。つまり、

  • 人権

の「発達」によって、人類は滅びる、というわけである...。

これからの死に方 (平凡社新書)

これからの死に方 (平凡社新書)