なにかを「決断」する子ども

まあ、あまりもう一度見たいという気持ちもなかったのだが、たんに、入場者プレゼントの小冊子をもらおうと、映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を二回目ということで見てきた。
ただ、一回見ていたこともあって、前半でギルベルトが島の少年のために手紙を書くことになる経緯が、ほとんど誰か分からない形で描かれていることに気づいて、まあ、ああいうのは見直しでもしない限り、なんのことか分からないよなあ、なんて考えたりした。
私はそもそも、原作の小説を読んでいない。テレビアニメも、内容は、うろおぼえだ。だから、ここで正確なことが書きたいわけではない。つまり、ちょっと思ったことを書きとめておこいうか、と思っただけだ。
この映画版は、基本的に二つの時間軸で進む。一つは、デイジーという女性の、彼女の亡くなったばかりのお婆ちゃんが、昔に、ヴァイオレットに手紙を書いてもらった、という関係になっていて、つまり、この時間軸では、ヴァイオレットが働いていた時代からずっと時間が過ぎた、未来だ、ということが分かる。
もう一つがヴァイオレットがギルベルトに会う、いきさつが描かれるわけだが、ここで、挿入話として、ヴァイオレットが仕事で、ユリスという少年の手紙を代筆する話が平行して進む。しかし、こちらについては、ある意味で、テレビアニメ版が中心的に描いてきたテーマが、この映画版でも反復されている部分だ、と言えるだろう。
テレビアニメ版は、なにが中心的に描かれていたか? それは、ヴァイオレットという「少女兵」つまり、殺人機械として、非常に優秀な兵士だった彼女が、戦争も終わり、

  • 人間的な感情を取り戻していく

ストーリーだった、と言えるだろう。つまり、手紙代筆業という仕事を通して、彼女が機械のような冷たい感情から、人の愛が分かる女性に成長していく、というところを

  • 描きたい

と考えて作者は、この作品を作ったのだろうな、ということが分かる。
ところが、である。
この映画版では、ある意味で、今までの「矛盾」に決着をつけることを目指しているように思われて、どこか違和感を覚える。
まず、ギルベルトが住んでいた島である。この島の若い男たちは、ほとんど全員が前の戦争に参戦して、生きて帰らない。そのため、この島には、女性と子どもと老人しかいない。ん? と思うわけである。なら、なんでヴァイオレットは戦争に参加したのだろう、と。
次に、最初のナレーションで、ヴァイオレットが仕事を辞めたのは18歳だ、と語られる。しかし、私たちの今の常識では、18歳くらいで仕事を始める、という人が多いだろう。つまり、なぜヴァイオレットは、戦争が終わって、

  • 学校

に行かなかったのだろう、ということが不思議になる(ちなみに、テレビアニメ版では、14歳くらいで彼女は働いている)。
まあ、こういった子どもが兵士になることは、戦前の日本の徴兵も、かなり子どもがされていたわけで、分からなくはない。しかし、戦争が終わったのなら、学校に行けばいいのではないか。
そう考えると、もうしわけないけど、映画の最後のギルベルトによるヴァイオレットへのプロポーズは、なにか、しらけてくる。
ようするに、どういうことか? これは、ギルベルトが、幼なかった孤児の彼女を育てる物語なのだ。つまり、30歳近い「おっさん」が、幼女を愛でて愛でて、そうなのに、なぜか彼女を

  • 戦士にして、戦場に連れていく

というわけで、あー、この世界線では女性も区別なく徴兵されるのかな、と思っていると、しかし、女性はみんな、高いハイヒールをはいて、着飾った生活をしているわけで、どうもそういうわけでもない。実際、島の女は徴兵されていない。
なにも知らない孤児の彼女が、ギルベルトに育てられて、いつも身の回りの世話をしてもらえば、彼に「感謝」しているのは当たり前なんじゃないかと思うわけだけれど、映画の最後、彼女は、すでに18歳で、仕事を辞めて、彼が生活している島の田舎に移住して、彼と結婚して暮らす、というわけだ。
30歳近いおっさんが、幼女の彼女を育てて、そのまま、いい年頃になって、結婚するって、なんだろう、源氏物語とかにあるモチーフなんだろうか。ちょっと、気持ち悪い感じもしないでもないw
私が言いたかったのは、なんで18歳で、そんな人生の全てを決定しなければならないんだろう、ということだったわけだが、こういった感想は、この京アニの、やたらと全シーンに渡って、細かい所まで描きこまれた、きれいな「絵」と、全編に響き渡る「音楽」の

  • うるささ

で、あまり細かいストーリーを「考えさせない」作りになっていることと関係して、だれもわざわざ、こんな細かいことは考えないのだろう...。