入間人間『安達としまむら』

このライトノベルは、けっこうな巻数が出版されているが、ある意味で、第1巻で基本的な、この世界観は完成している。
今期の、これを原作としたアニメの第一話は、この第1巻の最初の重要なところが描かれている。
高校1年の一学期。安達はほとんど授業に出ていない。対して、しまむらは、かなりさぼりがち。二人は偶然、体育館の二階で、お互い、授業をさぼっていた関係で出会う。自然と、二人はそこにある、卓球台で卓球をやって、時間をつぶすようになる。
ただ、しまむらには、マジメ組の、二人の親友がいる。偶然それを知ることになった安達は、しまむらに、友達がいることに驚いた、としまむらに言う。友達がいないから、あんなところにいるのだろう、と思っていたからだ。

しまむらって友達いたんだね」

「いないからあんなところにいるのかなって思ってた」

「安達は? 友達いる?」
「んー......しまむらぐらいかなぁ」
「せめー」

まあ、ここは重要な場面である。つまり、安達は友達がいなかったのだ。そして、しまむらが唯一の友達だ、と言っている。つまり、ここに非対称性がある。しまむらには、クラスに二人の別の親友がいて、授業も、安達ほどはさぼっていない。対して、安達は完全な孤独だ。唯一、しまむらを除いて。
まず、この関係を理解する必要がある。
さて。作品は、驚きの急展開を行う。知我麻社(ちかまやしろ)の登場である。彼女は、幼女でありながら、宇宙人であり、未来人である。しかし、しまむらは、やしろと、彼女をある種の「電波系」として敬して遠ざけながら、他方で、彼女との距離を無碍に遠ざけられない。
しかし、掲題の著者の他作品を読んできた人たちにとっては、ちかまやしろの存在は、例えば、『電波女と青春男』であれば、星宮社(ほしみややしろ)を思い出させる。
そして、この二人の宇宙人であり、未来人の特徴とは、

  • 超越的

であることなのだが、他方において、

  • 徹底したデタッチント

にある、と思われる。この関係は、俺ガイルにおける、平塚先生のポジションと言ってもいいだろう。彼女は、その奇抜な「設定」にも関わらず、作品の重要な場面で何度も登場する。しかし、他方において、彼女は、ある種の、迂遠な形で、主人公に大きな影響を与える。大きな影響を与えながら、あくまでもその関係は

  • デタッチメント

なのだ。

「なかなか釣れないもんね」
「まずそう思うことが大事なのです」
「はぁ?」
「なかなか釣れない、うまくいかない。それはすなわち、なにかを始めていること」

「あとはただよい未来を願って、釣り糸を垂らすだけです」

この謎めいた宇宙人の言葉は、しかし、他方において彼女、しまむらにとっての

にとって、重要なターニングポイントになる。

「ねぇ安達」
「ん?」
寝転んだまま、喉を鳴らすような声をあげて反応してくる。髪を撫でながら、言ってみた。
「午後から一緒に授業受けない?」
安達が頭を上げる。腕を床に押して身体を起こした。髪を弄りつつ、わたしの目を覗く。
「どうしたの?」
「いや授業日数とか......んーつまり、一緒に二年生に進級した方が、楽しいじゃん」

安達は「あー、うん」と頬を掻く。ぐるりと、二階を見回す。
めいっぱいここの空気と景色を吸い込んだ後、こてんと、またわたしの足の上に倒れた。
気に入ったんだろうか。
「たまには、いいかな」

まあ、言うまでもないが、高校生にとって、出席日数は非常に重要だ。卒業だけでなく、進級にとっても、それが何日なのかで、まったく、運命が変わってしまう。
なぜ、安達が授業に出なかったのか? それは、彼女が孤独だったからだ。それを知った、しまむらは、ふと、安達を授業に誘ってみようと思う。安達は、しまむら以上に、ほぼ全て、授業に出ていなかった。そのことが、彼女の今の状況にとって、いかに重要であるのかを、しまむらが分からないはずがないのだ。
ところで、上記までが、第一話「制服ピンポン」、第二話「未来フィッシング」の内容だ。そして、第三話「安達クエスチョン」で、作品は大きく転回する。
というのは、それまで、この作品は、しまむら目線で描かれてきた。つまり、しまむらの視線からは、安達は、ただただ、謎だった。なにを考えているのか分からない。そうでありながら、しまむらは、安達を尊重して、一定の距離感を大切に、彼女のために冒さないようにしている。そういった、しまむらの優しさが描かれていた。
ところが、第三話は、いきなり、安達のモノローグから始まる。つまり、ここで安達が、ほんとは何を考えていたのかが分かるわけである。しかして、その内容は、驚くべくまでに、

だった、というわけであるw 上記の引用で、安達は、しまむらの授業への誘いを受け入れるわけだが、そもそも、それはなぜなのか、という疑問があったはずだが、その答えは、しごく当然といえば当然だし、納得といえば納得なのだが、つまりは、

  • 安達は、しまむらと、一緒にいられるなら、どこだって行く

というだけのことだった、というわけであるw
まあ、ここに、知我麻社(ちかまやしろ)の、超越的な関係が示唆されている、と言ってもいいだろう。あの段階で、しまむらは安達のことをそこまで分かってなかったのだ。ただ、その青春の一歩を、やしろは後押しした。
例えば、プラトンの『ソクラテスの弁明』で、老年のソクラテスは、若いミレトスに裁判で訴えられる。そのとき、ミレトスがソクラテスの罪状としたのが、ソクラテスが「若者を駄目にしている」ということであった。
これに対して、ソクラテスはミレトスに「間接的」に反論する。ソクラテスの下に集まってくる若者。ソクラテスは、彼らが、たとえどんなに素行が悪くても、彼らを

  • 遠ざけなかった

し、適宜、彼らに注意を与えた。
対して、ミレトスはそういった、ソクラテスの下に集まっていた若者の中に「不良」がいることを理由に、

と解釈して、ソクラテスを非難した。
しかし、である。
考えてみてほしい。どういった場合に、子どもは今までの素行の悪さを直して、真面目に生きようとするだろう? それは、ただただ、唯一の契機しかない。

  • 子ども自身が「気付く」

こと以外にないのだ! 子ども自身が、なにかのきっかけで、自分の中に納得ができて、「あること」に気付く。つまりは、そもそも、そういった契機を経ることなくして、子どもが目覚めることはないわけである。
だったら、まだ目覚めていない子どもに対して、彼らがまだ「不良」であるという理由で、自分の回りから遠ざけるべきなのか? 子どもをもし、大人が

  • あきらめた

ら、どうやってその子どもは立ち直ればいいのか? こうやって考えると、いかに、ソクラテスが、キリスト教における、イエス・キリストに似ているかが分かるのではないか。
もちろん、言うまでもなく、しまむらは、ソクラテスイエス・キリストほど偉いわけでも、大人なわけでもない。しかし、彼女が安達にやったことは、そういうことなのだ。そして、その超越的な青春の第一歩を後押ししたのが、宇宙人の知我麻社(ちかまやしろ)であり、この関係は、『電波女と青春男』における、星宮社(ほしみややしろ)を思い出させ、それと同じテーマが反復されていることに、あらためて、自覚的にさせられるのだ...。

安達としまむら (電撃文庫)

安達としまむら (電撃文庫)