新型コロナの集団免疫論

新型コロナを巡って、国論はまっぷたつに分かれている、と言っていいだろう。それは、集団免疫論、つまり、「ノーガード戦法」を巡って行われている。

  • ノーガード戦法派 ... 早い話が「日常を取り戻せ」と言っている連中。新型コロナに伴うPCR検査などによって、人々がそれ以前の「日常」を止めたことによって「不況」が深刻化して、自殺者が増えることを憂える人たち。
  • 反ノーガード戦法派 ... 保守本流。常識的な感染症学のスタンダードから、基本的に世界中での新型コロナ対策を肯定している人たち。

この対立が一番分かりやすい例が、「集団免疫論」に対して、米CDCスウェーデンのテグネルが、それを

  • 反倫理的

と述べたことが象徴する。
つまり、ほとんど全ての世界中の政府機関は、今、「反集団免疫論」を前提とした対策を行っている。
ここから、必然的に言えるのは、私が上記で「ノーガード戦法派」と呼んだ人たちは、この「集団免疫」を推進する立場だ、というところにある。
こう聞くと、剣呑な話に聞こえるかもしれないが、興味深いのは、彼ら「ノーガード戦法派」は、自分たちが

  • 正義

だと思っている、というところにある。つまり、お互いがお互いの「正義」を主張しているから、私はこれを「対立」と呼んでいるわけであるw
まずは、「集団免疫論」の問題を考えなければならない。なぜ、米CDCスウェーデンが現段階での「集団免疫論」を

  • 非倫理的

と呼んだのか、であるが、一番分かりやすい話が、確実に高齢者の新型コロナによる死者の増加が避けられない、からだ。
ある地域での新型コロナの感染者が増大すると、必然的に、相対的な、高齢者の感染者の「割合」が増える。よって、重症者がどうしても「一定の割合」で、でてしまう。
これに対して、ノーガード戦法派は(一番の典型例が、京大准教授の宮沢先生だが)、

  • ワクチンなんて、どうせできないんだから、そういう人は早く死ぬか、後で死ぬかの違いでしかない

という主張をする。つまり、彼らはそもそも、一切の治療に「懐疑的」なのだ。もしもワクチンができたと言われたとしても、その副反応によって、新型コロナの通常の死者数を超えたら、本当にそれを使うべきか、という話になるだろう。また、抗ウイルス薬といっても、まだ、新型コロナ専用のものはできていない。アビガンには、胎児への副作用があると言われているし、と。
そして、新型コロナの特徴として、高齢者が言われている。しかし、新型コロナの死者の年齢分布はほとんど「平均寿命」に対応して分布している。つまり、その高齢者の死は、ひとつの

  • 寿命

なんだ、と言うわけである。
ようするに、ノーガード戦法派は立場として、

  • 感染して重症となる場合の「被害」の大きさは<分からない>

という立場だ、ということになる。つまり、彼らはその被害の大きさに興味がないわけである。例えば、後遺症のことが言われているが、その「統計」データは、まだ、はっきりしたものとして出てきていない。しかし、いずれにしても、少なくとも今のところ、日本の死者の数はずっと少なく抑えられている(しかも、彼らはそれを「寿命」だと思っている)んだから、そこから類推して

  • ほとんど被害なんてないに等しい

と考えるわけである。
つまり、むしろ逆なのである。ノーガード戦法派が言いたいのは、こういった感染対策を行うことによって、経済が冷えこんだことによる影響、つまり

  • 不況

が問題だ、と言いたいわけである。
不況になれば、多くの労働者が解雇され、そうすれば、ほとんど必然的にそれらの

  • 一定の割合

が自殺する。しかも、こっちは「働きざかり」の若者である。こっちは、確実の若者から死者が出る。どっちが「深刻」なんだ、と言うわけである。
一見すると、ノーガード戦法派は一定の真理を語っているように聞こえる、かもしれない。しかし、ここで一つの問題がある。それは、米CDCなどが語っているように、そもそも、新型コロナに対しての「集団免疫論」を彼らが、現段階でそれを主張している人たちを

  • 反倫理的

と非難している、ことにある。つまり、彼ら「ノーガード戦法派」は、世界のエスタブリッシュメントの中では、

  • 私たちの社会の「敵」

として認定されている、ということなのだ。
そう考えてみると、新型コロナが中国で発生した当初から考えても、新型コロナに対する「集団免疫論」を主張している人というのは、ほとんど見かけなくなってきている、というのは分かる。
例えば、上記の議論を考えてみよう。流行の初期に感染して死んでも、後期に感染して死んでも結局死ぬんだから変わらない、という議論は、そもそも、抗ウイルス剤を代表とした

  • 治療薬

が誕生しない、ということを前提としている。なぜなら、科学の発展で、新型コロナが「治る」ものになれば、流行の初期さえ生きのびれば「死なない」ということになるからだ。ところが、感染の初期の流行の拡大を避ける方法は分かっていて、

  • みんなが家から一歩も出ない

でいい。これさえやれば、二週間で、だれも感染者はいなくなるわけで、流行は終わる。つまり、方法があるのだから、あとはそれを選択するかしないかの差でしかない。
さて。次の論点であるが、私が不思議なのは、不況による自殺者が問題なのであれば、なぜ彼らは

を主張しないのだろう? つまり、私は本当に彼らが「自殺者」を「かわいそう」と思っているのかを疑っているわけである。
例えば、リーマン・ショックというのがあった。これによって、大量の非正規雇用の労働者が解雇された。そして、言うまでもなく、このときも大量の自殺者がでた。
つまり、たんに自殺者の増大は、

  • 景気の循環

に比例した現象に過ぎない、ということになる。今の私たちの社会が、資本主義を選択している限り、一定の解雇者が発生する。そして、その中の一定割合が、うつ症状などを呈して、自殺と結果する。つまり、本気で世の中から自殺者をなくしたいなら、なぜ

  • 資本主義を止めるべき

と言わないのだろう?
さて。
ここで、今の東京の状況を考えてみよう。
五月くらいの専門家委員会が、八割削減を言っていたとき、私はそもそも、その意味が分からなかった。というのは、どう考えても、そんなことは実現できない、と思ったからだ。そこで、専門家委員会がそれをどう説明しているのかを、動画などで確認した。すると、専門家委員会が言っていたのは、

  • 大企業が、その社会的な役割を理解して、率先して模範を示すべきだ

みたいな議論をしていることに気付いた。つまり、中小企業がルールに従わないことは「自明の前提」として、その分も、大企業が余計に削減しなさい、と言っていたわけである。つまり、大企業は、九割以上の削減を「しなければならない」と言っていたわけである。
大企業とは、まずもって、政府や東京都の役所と深く関わって商売をしている人たちである。つまり、彼らは役所の行政指導に逆らえない。逆らったら、どんな仕返しをされるか分からないから。
だから、東京で起きたのは、大企業の、ほとんど全員の在宅ワークであった。
しかし、言うまでもなく、オフィス街や夜の街は、そういった大企業の人たちがオフィスに出勤した昼休みや、夜の接待で使っていた場所である。よって、そういったサービス業で働いている人たちは、どんなに店を営業しても、客足が伸びない、という事態に至った。
しかし、である。
ここで考えてもみてほしいのである。そもそも東京の何が問題であったのかといえば、それは

  • 満員電車

であった。つまり、あまりに満員電車が混みすぎていることが、そもそもの東京の問題だったのだ。新型コロナによって、ほとんどの企業が、オフィスワークを、半分は在宅にしたことによって、それなりには、電車の混雑の割合を減らすことになった。
おそらく、東京の電車利用者に聞いたら、この混雑の緩和を「いい傾向」と言う人がほとんどじゃないのか。つまり、話は逆なのだ。そんなに昼間に出勤がしたいなら、まず、本社を東京に置かなければいい。オフィス街の昼間の定食屋や、弁当屋も、そもそも、そういった満員電車による「人の動員」をあてこんで、ビジネスをやっているだけなんで、もしも今の傾向が続けば、むしろ、そういったお店は、住宅街の方に拠点を移して、持ち帰りの弁当を主商品としたビシネスを始めればいいのかもしれない。
今回の新型コロナによる経済の冷えこみは、リーマンショックと比肩できるくらいに深刻だろう。しかし、一つだけ分かっていることは、少なくとも、リーマンショックと違うのは、この新型コロナの

  • 流行

が終われば、経済は元に戻る、ということである。しかし、それはいつなのか、ということだろう。
日本経済ということでいえば、GoTo によって、国内の少人数での旅行は一定の割合には逹しても、インバウンドが壊滅的である限り、以前と同じには絶対にならない。では、どういった戦略が「合理的」なのだろう、ということになるが、このことは日本の周辺の国々が、どういった戦略をとっているのか、にも関わってくる。少なくとも、上記の「ノーガード戦法派」の人たちが、米CDCなどの主張する「新型コロナに対する、今の段階での、集団免疫論は<非倫理的>である」という批判をどのように受けとめるのか(反論できるのか、または、反論できないのか)、に一つの私たちが向かうべき方向がある、ということなのだろう...。