雑語り

もしも、査読のある雑誌に、学者が論文として投稿するなら、どうなるだろうか?
これが、もし、数学の論文だったら、と考えてみてほしい。その証明のどこかに「間違い」があったら、査読者は、その論文を読む過程で、その「間違い」に気付き、その論文が、査読雑誌に載って、世の中に公開されることがないだろう。
ところが、である。
巷で売っている、文系の本を考えてみてほしい。この場合、その内容に「間違い」があるかをチェックする「査読者」はいない。たんに、編集者と呼ばれる、その本を出版することを決定する役割の出版社の社員がいるだけである。
さらに、である。
もしも、その出版社の社長が、その雑誌に載せる論文の執筆者だったら、どうだろう? 当たり前だが、会社の社員は、社長のイエスマンなのだから、その内容にケチなんてつけられるわけがない。必然的に、誰もその内容の「間違い」を指摘できない。
ちなみに、こういった執筆活動を始めた、私が考える最初の人は、吉本隆明だったんじゃないだろうか(彼は同人雑誌のようなものを作り続けていた)。正直、私には吉本の本を、

  • まとも

に読んで、彼の執筆内容の評価をやろう、とは、一度たりとも思えなかった。
そして、ほとんど、これと同じようなことをやっているのが、おそらくは、東浩紀先生のゲンロンなる会社なのだろう。
しかし、である。
これの、さらに下がいるわけである。それは、

である。つまり、

  • 自分の言いたいことを言う
  • もしも自分に都合の悪いことで反論されたら、そいつをブロックする

これによって、その人による、世の中に対する「世論操作」は完成である。つまり、「ツイッター」は便利な「広告」媒体なのだw 言いたいことを言う。言いたくないことには答えない。
まあ、今の自民党政権のようなものだ。
都合の悪いことは答えない。言いたいことだけ言う。
おもしろいのは、今、新型コロナについても、日本政府や東京都の対策は「やりすぎ」だ、と怒っている学者が、一部いる。その最も目立っているのが、京大の准教授の宮沢先生だが、彼は、そんなに「おかしい」と思うなら、

  • どう「おかしい」と思うのか?

の、論文を書けばいいわけであるが、彼はそういった活動は行わない。つまり、理詰めで細かいところまで考察した、一連の「論文」に、その主張をまとめることに興味がない。そうではなく、テレビのバラエティ番組に出て、

  • 反射神経

で、その一瞬に思ったことを、細かく考察すれば、間違っているかもしれないことを、しかし、たとえ間違っていたとしても

  • 日本を不況に陥れさせる危機を「救う」

ためには、どんな無理も通るんだ、と、まさに「正義」を縦に突き進む。
つまり、学問は、ここではすでに

  • 活動家

の一つの「手段」でしかなくなっている。
もしも、なにかが「正義」であることが「自明」なら、学問はいらないだろう。その「正義」のために、結果として、この世界が破壊されたとしても、たとえそうなったとしても、それをやって良かったんだ、という「理屈」を後から考え出す。なぜなら、その人にとっては、最初から、なにが「正義」なのかは決まっているからだ。
学問とは「予測」の体系である。そして、その蓋然性が重要となる。よって、その予測には一定の信頼が期待できる、となる。AをすればBになる。もしもそう「科学的」に予測できるとするなら、私たちはAを行うべきだろうか? これを決定するのが、民主主義だ。つまり、民主主義には、私たちの「価値」が反映される。
対して、上記の「正義=自明」主義者は、自分は「専門家」だから、どうすべきかを「知っている」という立場を一貫する。つまり、そこでは私たちに、何かを「選択」する、という

  • 行為

を行わさせない。なぜなら、それは、その学者にとっては「自明」だからだw
例えば、宮台真司先生や、東浩紀先生は、国民の貧富の格差が「悪」である、という主張(つまり、左翼)に、一貫して

  • 反対

の主張を続けている。しかし、逆に言えば、「それ以外」のリベラルな主張(例えば、人権など)については、その「貧富の格差」を、貧乏人に受忍させるためには、譲ってもいい、といった程度には「リベラル」だ、と言うわけである。
ところが、である。
もしも、この考えに、多くの国民が「反対」だったら、どうだろう? 言うまでもないが、国民は、その考えを「民主主義」によって実現すればいい、ということになるだろう。
よって、宮台真司先生も、東浩紀先生も、民主主義に

  • 反対

という立場をとる。民主主義は、

  • <間違って>国民を平等にしてしまうかもしれない

から、彼らは民主主義は駄目だ(欠点がある)と言い続ける。
しかし、である。
そもそも、その主張は「学問」なのだろうか? たんに、自分の政治的な欲望(=野心)を語っているだけなのではないか?
ようするに、彼らは、自らの「学者」という肩書を使って、自らの政治的な「野望」を実現するために、世の中に対して、さまざまな執筆活動をしている、ということなのであって、そもそも、こういったものを

  • 学者という肩書

を使って行われることに、倫理的な問題がある、ということになるのだろう...。