二面性

今期放送されている、アニメ「無能なナナ」を見ていると、軽いショックを受ける。それは、主人公のヒロインのナナの「話し方」にある。普段の、クラスの友達に向かって話しているときは、高音の、いわゆる「ブリッコ」と言っていいような、かわいらしい声で話しているが、それが、モノローグになると急に、低いトーンの、単調な、いわゆる「計算女」的な話し方になる。
もちろん、昔から、そういった低いトーンで話す女性のキャラがいなかったわけではないし、そういったキャラが逆に魅力的だったりもするわけだが、問題はこの

  • 切り替え

を当たり前のように行っている態度が、「怖い」わけである。
ただ、これを怖いと言うと誤解をされるかもしれない。つまり、ストーリーに依存している側面が大きいからだ。ある島に集められた高校生は、共通して「特殊な超能力」をもっている、という特徴がある。対して、ある組織から派遣された主人公のナナは、なんの能力ももっていない。ただ、彼女はそういった高校生が「人類の敵」だと考えていて、次々と、その高校生を殺していく。なんの「能力」もない普通の女性であるナナは、唯一の武器である

  • 頭脳

によって、彼ら超能力者の高校生を「だまし」て、彼ら全員を殺害することを目指している。
作品のポイントは以下だ:

  • ナナはなんの「特殊能力」ももっていない。つまり「弱者」だ。そんな彼女が多くの「強者」に立ち向かうのだから、簡単に彼女がやられては、作品として「面白くない」。
  • 他方、ナナは彼ら超能力者が「人類の敵」と考えている。これが正しいのかどうかは、まだよく分からないが、普通に考えて、どんなにその能力が「危険」だとしても、その人の「人権」を尊重しないというのは、ありえないわけで、剣呑な話だ。ただ、本当に、なんらかの理由で彼らが「殺さなければならない、人類にとっての重大な理由がある」なら話は別なのかもしれないが。

つまり、このストーリー展開については、もう少し先を見てみないと、なんとも言えない側面があることは認めるが(まあ、原作の漫画があるわけですがw)、いずれにしろ、こういった

  • 女性の描き方

は、興味深いものがある。
つまり、これは「男性のインポテンツ問題」と関係している。男性は女性に、ある「幻想」をもっている。つきあい始めたときは、女性はその男性の「幻想」にあわせて、「演じ」ているわけで、その多くの場合は、そのまま死ぬまで、その「演技」を続ける。
しかし、一定の割合で、そういった演技を止めるケースがある。すると、男性の側は、そのイメージが破壊されることで、彼の幻想の危機が訪れる。
つまり、下ネタ的に言えば、「たたなくなる」わけだw
例えば、以前にアニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ」というのがあった。しかし、この作品はほとんど話題にならずに終わった。その理由の大きな部分は、登場する女子高生たちが

  • 自分のセックス(やその欲望)を、あられもなく語っていた

ことに関係している。おとしごろとして、いろいろと、男性とのセックスに興味をもつのは自然なのだとして、それをいざ、アニメとして見せられると「(下ネタ的に)たたなくなる」というわけだw
まあ、当たり前だけど、いわゆる「かわいい」女性とか、「美人」としてチヤホヤされている女性は、そもそも、

  • 肉食系

だ。なぜなら、放っておいても回りがチヤホヤしてくれるからw つまり、それなりに、セックスも「おさかん」なわけで、つまりそれが「上級国民」というわけだw つまり、「大量の経験をしている」というわけだw へんな幻想をもつ方が、どうかしている、というわけだ。
ハリウッド映画でも、あまりにも有名だが、「危険な情事」でシャロン・ストーンがセックス中に、騎乗位の状態から隠しもっていたアイスピックで、男をめった刺しにするわけだが、まあ、こういった可能性を考えていたら、「たつ」ものもたたない、というわけだ。
こう考えると、ある疑惑がでてくる。
つまり、上記のような「二面性」というのは、そもそも避けられるものなのだろうか?
例えば、漫画「女子高生のむだ使い」で、主人公の女子高生のバカは、「なぜ男子にもてるための努力をしないのか」という友人に向かって、「自分のありのままを好きになってほしいから」と答える。
つまり、こういった彼女の態度には、ある真実がある。つまり、私たちは

  • バカ(をやっていること)を愛せ

ということだ。ある人が、バカをやることは、少なくともその人が、「真面目だ」ということを意味する。つまり、間違いは「正直」の証明なのだ。間違いを行うことは、少なくとも、その人が「素直」でなければ

  • できない

わけで、そのことがその人を信頼できる可能性を示している。バカはバカを「生きる」がゆえに、上記の二面性から唯一逃れられることができる。むしろ、ここに私たちの「人を見る目」が問われている、と言えるのかもしれない...。