新型コロナワクチンの「現実性」

よく、哲学の文脈では「現実性」という言葉が使われる。この言葉自体は昔から使われていたわけだが、ヘーゲルが特殊な文脈で使ってから、主にハイデッガーのような、ある種の「現象学」や、ニーチェから続く「実存主義」といったものとの関係で使われることが多くなった。
その一つの例として、日本のゼロ年代サブカル批評において、それを「セカイ系」との関係で使われることが多かった。その含意は、つまりは、セカイ系という、まったく日常的な文脈にあるものが、どこかSF的な、非日常の描写の延長で、セカイと繋がる、という形において、それを反転させて、逆に

  • 現実

の方を「照射」する、といったような文学的な「スタイル」として、流行した、と言ったらいいだろうか。
そこにおいて、この「現実性」という言葉は、マジックワードとなっていく。つまり、専門家が、素人に説明しない。そういた不誠実な態度を、専門家側が一つの言い訳として、この

  • 現実性

という言葉をもちだすことによって、素人を「恫喝」した、といった効果が利用された、と言ってもいいだろう。もちろん、そこには、ヘーゲルハイデッガーの「難解」な饒舌さも、その権威として利用されている。
例えば、原発を考えてみよう。原発を今すぐ廃止すべきだ。そういった国民の声に、専門家は「現実」には、それは不可能なんだ、と答える。事実、今の自民党原発を推進しているじゃないか、と。つまり、専門家は、

  • それは、どうせ「素人には分からない」

と、素人をバカにするために使われている。もっと言えば、専門家自身が、自分の「御用学者」としての態度を、政府に気に入られたくてやっているだけのくせに、そうだと人々に思われたくないから、こういった

をついている、という側面がある。どうせ、素人がなにを言ったって、俺の大学教授の権威に勝てるわけがない。だったら、奴らを、徹底してバカにして、いじめてやれ、というわけだ。
上記からの文脈を見ても分かるように、この「現実性」という言葉は、

  • 「幻想性=夢物語性」の反対概念

として使われていることが分かる。つまり、「嘘じゃない本当のこと」といったような含意が、読みとれるわけである。
ところで、話は変わるが、ここのところ、新型コロナワクチンの議論がさかんになってきている。

イギリス政府はアメリカの製薬大手ファイザーが開発した新型コロナウイルスのワクチンについて、安全性や有効性が確認できたとして承認されたと発表しました。
イギリス政府 ファイザー開発の新型コロナワクチン承認と発表 | 新型コロナウイルス | NHKニュース

私たちは、新型コロナのワクチンなんていうのは「はるか未来」の話だと、どこかで思っている。しかし、すでにイギリスがファイザーのワクチンを承認したわけで、しかも、日本政府はファイザーと契約をしている。
また、今の国会ですでに日本は、改正法まで通しているわけである。

改正法により、国民には原則として接種の努力義務が生じるが、ワクチンの有効性や安全性が十分に確認できない際は適用しないとしている。
ワクチン接種を無料化 改正予防接種法が成立―新型コロナ:時事ドットコム

ここで「努力義務」と書かれていることは、相当に大きなインパクトがある。つまり、すでに目の前に迫ってきた問題だ、というわけである。
まず、ワクチンの基本的な性格から推測できることを整理してみると、まず、イギリスでの接種が進んでいったとして、イギリスは、あれだけの被害を出している国だから、接種を選択することを国民が忍従することは、十分に予想される。
対して、日本はどこまで、言えるのか? 多くのワクチン開発においては、長い年月をかけて試験が行われることが普通である。それが、この短期間で承認され、多くの国民に使われることになるというのは、極めて異例なことなのだ。
恐らく、短期的な影響については、イギリスが先行することを考えれば、イギリスの症例を見ていくことで、ある程度、推測できるだろう。問題は、その

  • 長期的な影響

なのだ。時間が経って、もしも、なんらかの障害が「大量」に現れる、なんてことになったら、それこそ、新型コロナ以上に「人間社会に損害を与える」なんていうことになりかねない。
そして、もう一つ、ここのところ言われていることがある。

ファイザーとビオンテックのワクチンは、mRNAを使ったもので、マイナス70度以下で保管する必要がある。
ファイザーの新型コロナワクチン「コールドチェーン」が供給の障壁に | AnswersNews

つまり、ファイザー社のワクチンは、低温管理が必須だ、ということだ。しかし、そんな低温管理をできる設備が、どこの病院にもあるわけではない。
そこで言われていることが、私たちが子どもの頃まではよく見られた

  • ワクチンの集団接種

である。大規模の施設に、日時を決めて、多くの人を並べて、順番に接種していく、というスタイル。しかし、こういった集団接種は、日本の場合、近年は一切行われなくなった。それは、国の方針が変わったからなのだが、だとすると、本当にこんな大規模の集団接種を、そのノウハウも失われた、この日本で行うことは可能なのか、が問われているわけである。
ここで最初の話に戻ってみたい。この文脈で、「新型コロナワクチンの現実性」と言ったとき、どういう意味なのか、ということなのだが、それは

  • 「可能性」の反対概念

として使われている、ということなのだ。可能性とは、起きるか起きないか、そのどちらかの現象の確率をイメージしている。対して、そのどちらかが起きることが、ある程度、大きな割合で、どうなるかが見えているとき、それを「現実性」と呼んでいるわけである。
つまり、今、もう目の前のこととして、あと数ヶ月で、どうなっているかが分かる。そして、その具体的なイメージは、もう見えてきている。そうした場合、それを「可能性」で議論するのではなく、「現実性」の側で、具体的なイメージをもちながら、考察する、そういった用語として使われているのだ。
さて。なぜ、上記までの哲学者たちの議論と、ここでの文脈での「現実性」の用語の使われ方が違ってきてしまったのだろう?
おそらくそこには、近年の、ポストモダン以降の、哲学者たちの「職業的な作法」に関係している、と思われる。つまり、哲学者とは、なんらかの

  • メタな議論

をする人、というような形で、世間では見られるようになった、ということなのだ。常に、抽象的なことばかりを言って、私たちの日常と関係のない人たち、と。だから、彼らは

  • 間違わない

わけである。なぜなら、つねに「抽象的」にしか語らないから、後から、どうとでも、その意味を変えることができるから、議論に

  • 絶対負けない

人になったわけだけれど、誰もその人の言っていることを聞いていないw そういう、社会に、まったく、なんの「影響」も与えられない、残念な(ただの、優等生なだけの、ずっとポエムを言い続けるだけの)人たちになり下がってしまったわけである。
しかし、彼ら「哲学者」たちにとっては、そういった態度は、まさに「学会」で負けない、という意味で、勝ち続けるためには、どうしても止められない作法だったわけだ。負けない限り、大学の職を追われることはない。そうして、誰にも影響を与えない、アカデミズムの象牙の塔に閉じこもって、一生を終わる...。