森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか』

掲題の本は、そのタイトルから分かるように、デイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった』の反論文である。つまり、掲題の著者はベネターは

  • 間違っている

という立場をとる。そして、それを掲題の著者自身の言葉で「生命の哲学」と呼ぶ。「生まれてこないほうが良かった」の反対ですから、「生まれてくるほうが良かった」となるだろう。
しかし、である。
これは、どういう意味なのだろうか? というのは、この主張が、さまざまな含意をもつことは自明だからである。つまり、「生まれてこないほうが良かった」に反発して、

  • 自分は「生まれてくるほうが良かった」の立場だ

と言ったときに、それは何を含意しているのか、が問われているわけである。

人類は、生物進化の果てに、みずから「義務」を担うことのできる存在となったとヨーナスは考える。その「義務」とは何かといえば、生きとし生けるものたちが傷ついて助けを求めをあげているときに、その声に応答して彼らを保護しなければならないという義務である。保護の対象になるのは人間だけではなく、動物や植物のその対象に含まれる。このような「義務」を担えるところまで進化を遂げたのが人類の特質であり、けっして失われてはならない美点である。地球上からこのような存在を消し去ってはならない。であるがゆえに、人類は存続し続けなくてはならないという「義務」を担っている。これは「命法(命令)Imperativ」として捉えられなければならない。ヨーナスは、人類はサバイバルしなければならないという命法を、カントを利用して、「汝の行為のもたらす因果的結果が、地球上で真に人間の名に値する生命が永続することと折り合うように、行為せよ」と表現する。これは命令であるから、異論は許されない。ヨーナスは将来世代の絶滅の可能性を念頭に置いたうえで、「現在の世代が存在するために将来の世代の非存在を選択する権利は、われわれにはない」と断言する。彼にとって、将来世代を存続させる義務は「公理 Axiom」なのだ。ただしこの義務は全体としての人類に課せられるものであり、個々の人間に出産の義務が課せられるわけではない。

しかし、これに対して、掲題の著者は二つの点が気に入らない、と言う。

ヨーナスのメッセージは誤解しようのないほど明瞭であるが、その論理構成には大きな問題がはらまれているように見える。「命法」「公理」と言われてしまうと、根拠を求める議論がそこで終わりになるからである。

ここは重要なポイントで、ようするに、掲題の著者にとって、

  • どっちが正しいのか?

に興味があるのではなくて、

  • どっちが正しいのかの「知識」を知りたい

と言っているわけである。つまり、反出生主義が実際に正しいのか、そうでないのか<自体>は「どうでもいい」。そうじゃなく、それがどっちなのかの「知識」を得たい。つまり、それを「知る」という人類の「進歩」に貢献したい、ということになるのだろうか。

ヨーナスの考え方の弱点のひとつは、遠い将来、人類の生物進化の終着点が迫ってきたときに、人類全体のもっとも望ましい絶滅の道筋を示せないところにあると私は考える。

ようするに、掲題の著者は、ハンス・ヨーナスとは違って、

  • 自分は「生まれてくるほうが良かった」の立場だ

と言いながら、将来、人類が滅びることを受け入れない、とは思っていない、と言っているわけである。たとえ、人類が滅びることになっても、その時の人たちが「生まれてくるほうが良かった」と思えさえすればいいんだ、と言うのだ。
うーん。こうやって見てくると、随分と、「反出生主義の反対」と自称しているもののイメージと違っていることが分かるだろう。
さらに、興味深い議論を行う。それが、ワインバーグによる、ジョン・ロールズの「配分的正義」を出産行為に適応させた、以下の命題に関係する。

(1)モチベーション制限(Motivation Restriction)
子どもが生まれたらその子どもを育て、伸ばしていきたい、という願望と意志によって、出産は動機づけられていかなければならない。
(2)出産バランス(Procreative Balance)
何かのリスクがある環境下で出産を許容してほしいのならば、あなたが親として子どもに課するそのリスクが、もしあなたが生まれてくる子ども自身だと仮定したときに自分の出生の条件として受け入れたとしても非合理的ではない程度のものであるときにのみ、その出産は許容される(ただし子どもとしてのあなたは生き続けるだろう、と前提する)。

つまり、この二つの命題だけでは不満だ、として、以下の命題を加えることを要求するわけである。

これはワインバーグの二つの原理のうち「モチベーション制限」に潜在的に含まれているとも考えられるが、私は明示的に第三の原理として独立させるほうがよいと判断する。これを暫定的に「応答責任原理」と呼んでおきたい。
(3)応答責任原理(Principle od Responsibility)
親になろうとする者は、生まれた子どもが誕生否定の考えを抱いて親に「なぜ自分を産んだのか」と問うたときにその問いに応答していく、という決意を持たなくてはならない。

ところが、他方で、このようにワインバーグの議論をたとえ拡張したとしても、これは反出生主義を論破したことにならないのではないか、と掲題の著者は言う。それは、どっちみち、生まれてくる子どもに「同意」をとることになっているわけではないから、と。
ここまで見てきたことで分かるように、掲題の著者は自分の「目標」は決まっている、つまり、

  • 自分は「生まれてくるほうが良かった」の立場だ

だというのに、なぜそうなのかについての「理由」を、今だに見つけられていない、と言っているわけである。つまり、これからもずっと、この本の続編を書き続けて、それを

  • ライフワーク

にしていくんだ、と言っているわけである。
しかし、そうなのだろうか?
というのは、ある点が気になるわけである。ここにある「対立」は、なにか、ねじれている印象がある。それは、ベネターの『生まれてこないほうが良かった』の中心である、第2章の議論を振り返っても、思うわけである。

(1)苦痛が存在しているのは悪い、
更に
(2)快楽が存在しているのは良い。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』)
生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

(3)苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを教授している人がいなくとも良いのだ。
その一方で、
(4)快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』)
生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

ベネターはここにおける(3)と(4)の非対称性に注目して、「存在してしまうことが常に害悪である」という主張を導いていくわけであるが、ここで、興味深い発言をしている。

まず(3)と(4)の間の非対称性は次の見解の最も良い説明となる。苦痛を被る人々を存在させることを避けるのは義務であるが、幸福な人々を存在させる義務はないという見解である。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』)
生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

うん。こうやって見ると分かりやすくて、ようするにベネターは、

  • カント主義

の延長で考えている、ということが分かる。つまり、ベネターは

  • 人類の苦痛がなくならないで、どうやって「生まれてこないほうが良かった」を否定できるのか?

と問いかけているわけであろう。つまり、ベネターは人類は人類の「苦痛」をなくさなければならない。いや、それだけじゃない。それは

  • 義務

だ、とまで言っている。それに対して、現代の私たちは、さまざまなレトリックを使って、「自分のことだけを考えていればいい」という功利主義を正当化しているんだから、だったら

  • 生まれてこないほうが良かった

という結論になるのは当たり前なんじゃないのか、と言っているだけ、に聞こえるわけですね。
こうやって比べてみると、むしろ、ベネターとハンス・ヨナスは、同じカント主義者だ、という意味で

  • 似て

いて、むしろ、本質的に違っているのは、掲題の著者の方だ、ということにならないだろうか。
まあ、この違いを、ソクラテスプラトンの違いに対応させることはできるだろう。ここで、プラトンに反する形で、「ソクラテス主義」を考えるとき、その系列に並ぶのが、

となる。この系列において見られる、本質的な特徴は、

  • 人間の倫理を徹底して、他者との「実践」においてだけ考える

というところにある。そもそも、カントは理論理性に対する実践理性の「優位」を述べた人であって、彼の本位がどこにあるのかを見失ってはならない。
ようするに、「困っている他者を助ける」という行為を行うかどうかが、人間が生きる価値があるのかどうかの全てだ、という主張なわけであろう。それに対して、どんな屁理屈を述べたとしても、それに反する限り、「そんな人間は滅びた方がいい」と言っている、という意味では、ベネターもヨナスも変わらない。
それに対して、掲題の著者はそれは

  • その「知識」が分からなければ、どっちなのか分からない

と言っているわで、そして、それがどっちなのかを「ライフワーク」として、これから探します、と言っているわけで、かなり反動的な印象を受ける。
ここで、少し考えてみよう。「生まれてくるほうが良かった」という主張は簡単に、

  • 死なないほうが良かった

に変わるだろう。つまり、「不死願望」である。つまり、これと厳密に区別できるのかがよく分からない。
次に、「生まれてくるほうが良かった」という主張は必ず、人口調節の議論を呼びおこす。つまり、

  • 誰を生き残らせるのか?

という「優生思想」と切り離せない。実際、ニーチェナチス・ドイツに大きな影響を与えたことは有名なわけで、この二つは切り離せないわけである。
ある種の「知識主義」は、必ず、人類の「選別」に繋がる。誰を殺して、誰を生き残らせるか? 実際、現在の新型コロナ問題においても、日本の「知識主義者」たちは、さかんに

  • 集団免疫論

を駆使して、スウェーデンの「高齢者虐殺」を正当化した。どうせ、余命があとわずかの人の寿命が少し短くなっただけで、いずれ死ぬことは分かっていたんだから、モルヒネ虐殺は正当化される、と。
対して、現在、日本で大流行している『鬼滅の刃』を考えてみよう。彼らは鬼と戦うわけだが、それを「義務」として、疑っていない。どんなに鬼たちに、「鬼になれ」と誘われても、人間であり続けることを、けしてあきらめない。まさに、彼らが「カント主義者」であることを意味しているわけであろう...。

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

  • 作者:正博, 森岡
  • 発売日: 2020/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)