リベラルと感染症

ここのところ、小松美彦先生の『「自己決定権」という罠』という本を読んでいるのだが(増補版がでて、最終章には、新型コロナについて書いてあるみたいだけど、まだそこまで読んでいない)、前半に書いてあるのは、

  • 臓器移植

に伴って、展開された

  • 自己決定権

なんですね。つまり、この文脈って、そもそもの最初から違っているわけです。日本で臓器移植医療を欧米に並んで、なんとか始めようと国が始めたとき、その主張には「自己決定権」という主張はなかった。では、なぜそれが主張されるようになったのかというと、なかなか、臓器移植が日本で進まなかったから、なんですね。つまり、

  • 苦肉の策

として、そういった「自己決定権」なるものをもちだしてまで、なんとかして、これを正当化しようとした。
ということはどういうことかというと、この「自己決定権」なるものは怪しい、ということなんです。
それは小松先生が言っているように、「脳死」は「人の死じゃない」ということであるのもそうですが、その判断を、それぞれの人が「自己決定権」をもっている、という主張は、あまりにも私たちの日常の考えからは違和感があるわけです。
考えてみてください。例えば、インフォームド・コンセントというものがあります。医者が患者に説明してくれる、というものです。しかし、そこで患者が

  • 納得しなかった

とき、どうなるでしょう? 実は、どうにもならないのです。というのは、医者のマニュアルにおいて、患者を「納得させろ」と書いてあるだけで、つまり、

  • 誠実な医者は、何時間も患者を説得するが、たとえそうやったとしても、患者に説得されるわけではない

ということです。圧倒的に医者は優位の立場にあって、患者はみんな、どんなに説明をしてもらったとしても

  • 「泣き寝入り」していることには変わらない

というわけです。それが嫌なら、裁判を起こすか、警察にかけこむしかありません。
ということは、当たり前ですが、私たちは「自己決定権をもっていない」ということになります。たんに、

  • 「自分で脳死状態で臓器移植を決めた」ということを選ばされている

だけなのです。なぜなら、これ以外の選択肢が用意されていないから、です。
しかし、このことは多くのことを説明します。
まず、リベラルという言葉があります。そして、多くの場合、この「自己決定権」は、この、欧米から輸入された、リベラルの思想として語られてきました。
例えば、宮台先生は「性の自己決定権」という本を書いて、マスコミに登場してきました。女子高生が売春をするのは「自己決定権」なんだ、という論陣をはりました。そのことは、彼にとって、まさに「リベラル」の思想の延長に、

  • 売春の自由

がある、ということを主張したわけですが、ここには、まさに「フェミニズム」が女が「自己決定権」を求めて、国家と戦う思想である、ということとの平行性において考察したわけです。
こういった形で、欧米の「リベラル」という思想は、日本に輸入されていったとき、日本の知識人たちは、まさに

と「戦う」というモチーフを腹に隠して、登場してきたわけです。宮台については分かりやすいでしょう。彼は、女性の「自由」ということを言いながら、言っていることは、ナインティナインの岡村と同じで、ようするに、不況になれば、かわいい女の子が風俗に流れてきて「ラッキー」と言っているのと変わらないわけです。彼なりの、

  • 道徳革命

の一貫として、この社会を壊してやる、という「野望」をひそませているわけです。
(そもそも、売春は長い歴史の中で、「奴隷的な扱いに準じる性格のもの」として考察されてきました。宮台はそのことを十分に分かっていたわけです。そうでありながら、「社会を混乱させる」という目的で、彼の野望は推進されました。あえて、「リベラル」「自己決定権」の延長で、一点突破で、「反道徳革命」を目指したわけで、彼の当時の主張とオウム真理教には根底に通じる、「高学歴テロ」の愉快犯としての反社会性が隠されています。)
対して、東浩紀先生はどうでしょう。彼は、ゲンロンカフェという、居酒屋兼トークイベントにおいて、ここを「アジール空間」にしたい、と何度も言及しています。
しかし、そのことを普通の人は、

  • 社会から非難されることを、「オフレコ」で語れる場を作って、みんなで盛り上がりたい

と言っているとしか聞こえないわけでしょうw つまり、

  • 好きなだけ、「不道徳」なことを、愉快犯的に話せる場所を作ろう

という、宮台先生とまったく同じ「野心」を隠して、マスコミに登場してきたわけです。彼ら二人に共通していることは、「高学歴」だ、ということです。つまり、徹底した大衆蔑視を隠さない二人の

  • 本性

がここに現れているわけです。パブリックな場で語ると、「良識派知識人」に怒られることを語りたい。語って、みんなで、「盛り上りたい」と。彼らにとって、大衆を馬鹿にすることこそが、日常の「娯楽」です。そして、自分たちは「偉い」から、それをやってもいい「権利」がある、と考えています。つまり、少しも悪いことだと考えていない。考えていないけど、パブリックに知られると、「良識派知識人」に怒られるから、隠れてやろう、と。
ところが、です。
ここのところ、アメリカのトランプ大統領のGAFAからの締め出しが本格化しました。これはなにかというと、トランプ大統領のポリコレ的に批判の多い発言を放置していることが、

  • プラットフォームが放置している

というように解釈されることから、プラットフォーム側が何度もトランプに警告をし続けたのにも関わらず、一向に止めないから、アカウントの停止などの措置をとった、ということです。
つまり、プラットフォームが世間からは「プラットフォーム」だと解釈されない、という問題なわけです。考えてみてください。自分たちをプラットフォームと呼んでるのは、彼らプラットフォーマーの人たちだけです。他の人にとってみれば、

  • 「トランプが言っている」と「プラットフォームがその主張を宣伝している」の区別はない

わけです。これについて、どっちが悪いなんていうことを言っても意味がないことは自明なわけでしょう。どっちにしろ、そこにその発言があることの、その発言を載せている側の

  • 良識

が問題にされているのですから。
ところが、です。
これに困ったのが、東浩紀先生です。というのは、アマゾンがパーラーというSNSを締め出したからです。このパーラーというSNSは、ほぼ一切の規制をしない、ということを売りにしたSNSでした。そのため、このSNSに、トランプ信者の「溜まり場」ができました。そして、非道徳的な言説のゴミ溜めのような様相を示したわけですが、それが放置され続け、パーラーはなんの対策もしませんでした。そこで、まず、グーグルとアップルが、アンドロイドとアイフォンからその「アプリ」の追放を決定しました。それと平行して、今度は、アマゾンが、パーラーに対する

の提供の停止を決めたわけです。
しかし、東浩紀先生が方々で言及しているように、ゲンロンが新しく提供しているサービス「シラス」は、アマゾンの「AWS」上で構築されています。
なぜ「シラス」ができたのといえば、ニコニコ動画上で展開している限り、プラットフォーム側の都合に左右されることが避けられなかったからです。それでは、

  • 好きにゲンロンを行えない

という「言論の自由」に対する抵抗が成立しない、という不満がありました。しかし、もしもそうであるなら、なぜシラスをアマゾンのクラウド上に作成したのでしょうか? まあ、矛盾ですよね。
つまり、世の中に自分をかっこ良く見せるために、適当なことを言っていたわけだけど、実体は嘘だった、というわけです。
(言うまでもなく、セキュリティを考えるなら、AWSにサービスを構築することが合理的であることを否定したいわけではありません。そうではなく、本人が「アジール空間」だと言いながら、自前でサーバを用意し管理することを「お金がもったいない」という理由で止めていることの、言っていることとやっていることのデタラメさをここでは嗤っているわけです。)
もともと、東先生には筒井康隆に通じる「芸術聖域論」を主張する流れがあります。芸術である限り、なにをやってもいい。どんな不道徳なことをやってもいい。つまり、その延長に彼の大衆蔑視があります。大衆蔑視は、「自分がやりたい」からやっている、「自分が言いたい」から言っている。それを禁止される社会があるなら、この社会と戦う、それが彼の本性なわけです。
その場合、彼は「リベラル」の主張を自らの正当化に使います。つまり「多様性」です。この世界には、いろいろな人がいて、そういう人の言う権利を私たちは認めていかなければならない。そうしなければ、多様な民族が混在しているアメリカ社会は成立しない。こういった考えが日本に輸入されてきたのが、「リベラル」であり「自己決定権」です。
ところが、もしもこの考えを認めると、この社会は

  • 不道徳な言説

で溢れてしまう、ということになります。つまり、「排除できない」ということを言っている限り、どんなパブリックな場でも、そういった汚物のような言説が、世間の人の目に触れる所に置かれる、という事態になります。
最初の宮台の話に戻りましょう。90年代にさかんに「性の自己決定権論」を展開した彼ですが、最近はめっきりこの話をしなくなりました。それは一つには、そもそも若い女性のセックスの回数が減少したことがあります。その一つの理由は

です。感染してガンになることを考えて、そもそも、不特定な知らない相手とセックスをするという行為が、一般的に少なくなっていった、ということがあります。
そして、これと同じことが、今回の新型コロナについても言えるでしょう。私の身体は私のもの、これが、リベラルであり、自己決定権論者の主張の基本でした。しかし、新型コロナは、別に自分が「承認」したから、自分の身体の中に入ってきたわけではありません。たんに、感染している人と、ある程度の接触をしたからに過ぎません。
しかも、逆に自分が感染したなら、自分の身体の中にある新型コロナによって、回りの人に感染させて、結果として、その人が新型コロナを原因として死んでしまうかもしれません。つまり、

  • あなたがその人を殺したんじゃないのか?

という「因果関係」が疑われる、というわけです。もしも、自分が感染していた場合に誰かを殺してしまうことを避けたいと思うなら、一番極端な方法は、外出をしなければいい、ということになるでしょう。
また、もっと間接的な「殺人」があります。それは、「新型コロナなんて、たいしたことはない」と言って、人々を安心させて、外に出させて、

  • 市中の感染を広げさせる

という「テロ」です。
こう考えてくると、そもそも私の身体は本当に私のものなんでしょうか? もしもそうなら、私は自分の身体に入ったウイルスの「責任」を引き受けなければならない、ということになります。つまり、「これ」が殺人をしたら、私が牢屋に入るのです。
しかし、どうしてもウイルスが自分の身体に入ることを確率論的に避けられないのであれば、これを私たちは、どうすればいいのでしょうか? 言うまでもありません。一つしかありません。この

  • 社会

  • ルール

を作って、それをみんなが守ることによって、より多くの人の身体にウイルスが入らないようにして、

  • 感染の規模を小さくする

ことしかありません。そうすれば、しょせん、小さな感染規模ですから、またたく間に、流行は収束する、というわけです。
このルール形成を急ぐしかないでしょう。
ところが、です。このルール形成に「抵抗」する人たちが現れるわけです。それは、さまざまな理由があります。東浩紀先生が抵抗しているのは、自分のゲンロンカフェのビジネスモデルが成立しなくて、実質、休業状態で「儲からなくなった」ということがあるわけでしょう。
そこから、社会は以下の二つに分断します。

つまり、後者は「このルールに反対」と言っている限り、このルールに彼らは従わない、ということになるわけです。ということは、どういうことかというと、

  • このルールに従っている人たちによって作られている「安全」に「ただ乗り」して、その旨味(うまみ)をしゃぶりつくす

ということです。そこで彼ら「ルール反対派」はどう言うかというと、

  • この程度の流行は「流行じゃない」

と言うわけです。つまり、こんな程度は「たいしたことはない」。だから、自分は自由に振る舞う。ようするに、彼らは絶対に、みんなで守ろうとしているルールに従いません。しかし

  • こういった連中

によって、この社会の流行の幹(みき)が作られていることをどんなに数値で実証しても、彼らは「法律に反していない限り、なにをやってもいい」と、知らぬぞんせぬを貫くわけです。
ところが、上記でも言及したように、本当に彼らが「社会から守られる」かは疑問です。
すでに、ユーチューブが、武田邦彦のチャンネルや、小林よしのりの一部の動画を削除したことは、そこでの彼らの主張が、ユーチューブという会社の社会に向けてのメッセージに反していたからでした。
同じことが、東浩紀先生のゲンロンのコンテンツにも言えるでしょう。その幾つかは、もしもユーチューブにアップをすれば、ユーチューブの規約に触れて、何度かの警告を繰り返した後で、削除されるものがでてくるでしょう。それは、ニコニコ動画だろうが、シラスとかいう、AWSベースのサービスにも言えるでしょう。
つまり、そもそもの彼らの「本性」が、ここでは問われているわけでしょう。
ここで最初の話に戻りましょう。私たちは「人の死」に違いがあると思っている人は、一人もいないと思います。「人の死」というのは、どういう状態の人を言うのかが、人それぞれで違っているなんて一般の人は思っていないでしょう。
これが、「脳死」という概念が出てくるまでは、社会の常識でした。つまり、そもそも「脳死」という言葉は、「臓器移植」を社会として推進していく間に

  • 発明

された概念なのです。もっと言えば、脳死は人の死じゃない。そうであるのに、勝手に誰かが、臓器移植をしたいからという理由で、それを「人の死」ということに勝手に決めたわけです。そうであるのに、そう決めた連中は「自分が決めた」と言いたくないから

  • 自己決定権

と言い始めました。「あなた」が決めたことにしてください。あなたが決めたから、「脳死」が人の死になったから、臓器移植ができる、と。
でも、当たり前ですけど、一般の人は「人の死」の定義を決めたりしません。そういうのは、「世の中で当たり前にあるもの」と思っています。そして、それが

  • 常識

なんです。そうやって、この社会がずっとできてきたわけです。
つまり、まったく同じわけでしょう。リベラルが「自己決定権」と言うのは、そもそも、

  • 祖先の部族の慣習などの、さまざまな歴史的な出自に連続して

自明とされた慣習が対立するような状況を想定しています。それと、

  • 芸術聖域論

が言っているような、「悪を行う自由が、<芸術>の領域には存在する」といったような主張とは、そもそも関係ないわけです。こういった連中の

  • 愉快犯

的な、まさに「高学歴テロ」と、どうやって社会は戦っていくのか、が問われているのでしょう...。