早稲田の入試が数学を必須にする理由

日本が先進国として「後退」したとは誰も思っていないかもしれないが、少なくとも世界の中のプレゼンスは下がっている。それは、一言で言えば、中国などの急伸発展国が目覚しいから、ということになる。
しかし、そうだとしても、この「日本」という国は、それなりに私たちが誇れる国なんじゃないのか、と考えてきた。
しかし、本当にそうなのだろうか?
その理由の一つに、数学がある。
つまり、「数学リテラシー」が一般大衆レベルで低く、それが、戦後の何十年が経っても、あまり変わっていない、ということが気になるわけである。
ここで数学と言うと、多くの人は、理学部数学科とか、数学者なるもののことを考えたりするわけであるが、逆に考えてみてほしい。もっと身近な、さまざまな課題がある。例えば、マーケティング。どういった経営判断をするのかについて、私たちはそれを

  • 実証

しなければならない。それは「文系」の人たちが死ぬまで、やらかしてくれている、「哲学」とかなんとかだったり、「ポエム」だったり、ではないわけである。ちゃんと

  • 数値

で決定をしなければ、正確な経営判断ができない。
じゃあ、それをどうやって行うのか、ということになるけれども、基本は数学的な「モデル」を使うわけであるが、なぜそれでいいのかを考えるのには、数学の裏付けが必要となる。
あなたは何かの主張をしたい。しかし、それを認めてくれるのは、そう言っているあなたの主張が「正しい」から、ということになる。だとするなら、あなたが行わなければならないのは、それが「正しい」ということを「証明」することだ、ということになる。
こういったことを考える上において、最近の話題で象徴的なのは、以下の話だろう。

5月30日、早稲田大学が看板学部である政治経済学部の一般入試における「数学」の必須化を発表。教育業界に大きな衝撃が走った。
これまで政治経済学部の一般入試では外国語、国語が必須科目。地理・歴史または数学から1科目を選ぶという、計3科目を課してきた。一般入試では、センター試験の成績が加味されることはなかった。それを、大幅に変える。
試験を200点満点にし、まず大学入試センター試験の後継である「大学入学共通テスト」から、①外国語、②国語、③数学Ⅰ・数学A、④選択科目(地理歴史、公民、理科、数学Ⅱ・数学Bの中から1つ)を各25点、計100点に換算する。
そして、残りの100点のうち3割程度は英検などの「英語外部検定試験」の結果を換算。さらに日本語、英語両方による長文を読み解いた上で解答する学部独自試験を課す。
これらの合計点により選抜する方式に変更するのだ。'21年2月の入試からスタートする。
これまで政経学部はマニアックなほど細かい知識を問う地理・歴史の問題など、独自の入学試験を課してきた。文系科目に特化した、ある種の一芸に秀でた学生を選抜してきたと言える。前出・須賀教授が話す。
「数学を必須化することについて、もちろん学部内でも議論がありました。早稲田の政経を受験するために、他の科目を犠牲にしている人がいますから。
そういう人たちを排斥することになるんじゃないか、門戸を閉ざすことになるんじゃないかという話になりました。
さらに必須化するのは『数Ⅰ・数A』ですが、実際に経済学を学ぶ上で必要なのは『数Ⅱ・数B』の能力。なので、学部内の経済学の先生たちからは『せっかくなら、数Ⅱ・数Bを必須にするべきでは』という声もあった。
一方で政治学の先生たちからは『そもそも数学を必須化する必要はない』と反発もあった。経済学系、政治学系両者の教授陣が歩み寄った結果、数Ⅰ・数Aを必須化する形になったわけです」
「政経学部」入試で数学が必須に...早稲田の狙いが分かった(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

上記を見ると、そもそも私立大学が

の特徴が強い、ということが分かる。ということはどういうことかというと、

  • 金持ちのおぼっちゃんを、たとえ、学力がなくても金の力で大学に合格させた

ということであろう。
そして、こういった文系における「一芸」というのは、ようするに、歴史の暗記のような、やたらと、なんでも暗記して、教科書に載ってないことまで暗記して、たんに憶えていたかどうかを、まさに「クイズ」的に「調べて」いるだけのことしか意味しないわけで、もちろんそれによって

  • 偏執的に

マニアックに、その科目に対する「愛」を試すのには有効かもしれないしw、そういった「執念」は学者という、日本で数えるほどしかいないエリートには、求められる特性なのかもしれないが、およそ、ほとんど大多数の大学を卒業していく人たちには

  • 関係ない

特性であることは明らか、なわけであろうw
大事なことは、この社会で生きていく上での、「正しさ」「証明」「実証」「数値化」といったことを実践できるトレーニングを積める、ということであって、そういったものさえ身につけさえすれば、あとは、これから進む分野に特化して、マニアックに極めていけばいいわけで、つまりは、

  • どの分野に進もうが、「使える」人になる

というわけであろう。
特に、近年はコンピュータの発達であり、パーソナル化が激しいわけで、なにかを「憶えている」というのは、ほとんど意味のない特性になりつつある。まさに「ググれカス」というわけで、知らないことは、光の速さで知るようになる時代なのだから、知識でマウントをとるような態度の異常さが際立つようになった。
結論を言ってしまえば、この日本を衰退させたのが、こういった「早稲田人脈」のような、数学の基礎をもっていない

  • 文系

が、社会に出て、企業に入ると、完全に文系が会社のトップを独占するため、そういった「数学ができない人たち」によって、どこの企業の経営陣も占められて、また、そういった人たちが、早稲田人脈を使って、どこの企業のトップとも繋がるから、自然と

  • 企業を支配している人たちの価値観が「数学を知らない人」たちのものになる

という、日本社会の現状を示してしまった。
彼らは勉強をしないわけではない。ただ、とにかく「数学が使われている本は読まない」わけであるw まさに、子どもがピーマンが入っている食事に、一切、口を付けないようにw
だって、そうだろう。大学入試で、大学がそれは「いらない」と言ったんだ。だったら、なんで、それを卒業した以降も学ばなきゃいけないんだ。いらないにきまっている。そんなことをやらなくても、この社会を「支配」できるから、大学は自分にそれを教えなかったのであって、むしろそれは

  • 奴隷(会社の部下たち)

の仕事だ、というくらいに思っているわけである。
これが、戦後の日本である。
おそらく、日本の「没落」と、日本の指導層の「数学の無知」は

  • 比例

して、今後の日本を象徴していくだろう。しかし、彼らのそういった態度は、彼らが書く論文の「レベル」を

  • 制限

し、それが回りまわって、日本の論文のレベルの劣化に帰結し、日本の堕落に結果していく。
まあ、逆に考えてみてもいい。大学以前に、こういった論理的思考のトレーニングが子どもたちに浸透する可能性はないだろうか? その一番の可能性は、コンピュータであろう。コンピュータと数学は相性がいいわけで、子どもは勝手に、そういった

を、まさに

  • 大学と関係なく

身につけていく時代になるかもしれない。まあ、そうなんだよね。大学に入る前から、誰もが、大学レベルの論文を自分で読めるようになるし、自分で書けるようになる。それは、だから

  • 知識を「知っている」かどうか

ではないんだ。そうではなく、

  • 正しい手法で、なにが「正しい」かを調べられるトレーニングを積めるか

なわけであって、なぜそれが大学に入らないとできないのか、と考える方が自然なのだろう...。