ためにする議論

世の中には、「ためにする議論」というものがある。例えば、近年さかんに入門書が出版されている「倫理学」を考えてみよう。そういったものを見ると、まず最初に、

  • 倫理学には大きく二つの学説がある。一つは「功利主義」で、もう一つが「義務論」である。

と説明される。そして、それぞれの学説には利点もあるが「欠点」もある、とくる。
功利主義で言えば、なんらかの「ルール」のようなものは必要だろう、という、私たちの直観に反しているし、義務論で言えば、カントが行った「嘘問題」が必ず、この文脈で使われる。
しかし、世の中なんてそんなもので、なんでも完全なものなんてない(だから、文句を言わないでね、と「脅す」)。
(ちなみに、多くの場合、上記の議論を行うのは、ほとんどが「功利主義者」たちだ。逆に言うと、(カントの)義務論の人たちは、こういった言い方をしない。彼らは、そもそも、倫理学に、功利主義と義務論の二つが必要だとは思ってなく、義務論があればいい、と思っている。むしろ、この「非対称性」が興味深いわけだがw)
ここで、私たちは「なに?」となるわけである。
私たちが聞きたいのは、「なぜこの二つに分かれるんですか?」であろう。つまり、説明者は、この二つに分かれることがなぜ「合理的」なのかを説明しなければならないはずなのだ。
ところが、彼らはそうしない。そうしなければいけないとも思わない。
それは、ここでこの人が言いたいのは、実は、

  • 近年、アカデミズムで論文が発表される多くは、「功利主義」と「義務論」に大別される。

ということだからだ。
彼らにとって、この二つの学説があることは、今の「流行」なわけで、これに何かを竿差したいわけではない。あわよくば、どちらであろうと、これに関連した「論文」を書いて、自分の業績を増やそう、それくらいの野心しかない。
しかし、そうなのだろうか?
私たちが行うべきは、そうではなく、

  • 自分が思った疑問を、整理して、命題として、まとめる。

ということなのではないか? アカデミズムが、象牙の塔が、私たちに「上から」押し付けてくる、なにかに私たちは戦わなければならない。そうでなければ、私たちはいつまでも

  • 強者

に支配される

  • 弱者

でい続けさせられる...。