ガンダムとホロライブ

いやまあ、こんなことを書いていても、いつものグダグダ文章だと思われるだけなんだろうけど。
この前、ガンダムについて書いたわけだが、ガンダムシリーズは考えてみると恐しいアニメで、各作品が、毎回、50回くらいテレビ放映されているわけで、なんでそんなに長く放映する内容があるんだ、と思うわけである。
そう考えてみると、ようするに、そこには、

  • 販促目的のスポンサーの意向

があるというわけで、ようするにこれは、「プレゼンテーション」なんだ、と。つまり、ガンプラの新製品を作って売るんだけど、それが売れるためには、いかにそのモビルスーツが「かっこいい」かを

  • アッピール

してくれなくちゃ困る、ってわけ。だから、あんなに「長い」作品が、あきもせず、何度も何度も繰り返し作られ続ける、と。
そう考えると、もう「話の内容なんて、頭に入ってこない」よねw まあ、そんな程度なんだと思わないと見ていられない。
ただ、そういった視点で比較したとしても、やはり、ファースト・ガンダムだけは、どこか他とは違った印象を受けるのは、なんなのかな、と思うわけである。
これについて、多くの人たちが語っているのは、

  • ファースト・ガンダムは、制作スタッフが良質の戦争アニメを作ろうとして、多くの関係者がアイデアを言い合って、合議制で作られた形になったため、一般的な戦争ドラマの品質のチェックが働いたが(集合知)、それ以降は、ガンダムという「ブランド」ができたために、すべてが「監督のワンマン」になったため、その監督の思想というか、「文学作品」としての「アイデア」を品評するタイプに変わっていまった。

ということなんだと。まあ、こういったことは、そもそも一人の人の考えつくことには限界があるから、一つの進化の袋小路ということなんだろう。
ファースト・ガンダムの富野監督は、その小説版を読んでいても、アイデアが豊富だし、どんどん奇抜な、芸術的な発想を、おしげもなく発表する人なんだよね。そして、それが、ある意味で、作品世界を壊してもいるけど、芸術作品って、もともと、作者の「精神安定」のためにあるような所があるわけで、それを回りがどうこう言っても、しょうがないところがあるわけだ。
上で、ファースト・ガンダムは、良質の戦争ドラマを目指した、と書いたけど、一つだけ、富野監督の「思想」を導入しているところがあって、それが

の問題だった。もちろん、アムロもシャアも最初から登場するわけだけれど、必ずしも、このニュータイプ問題は、前半では前景化されていない。ただ、徐々に、この問題が、くすぶってきて、だんだんと正面から取り上げなければならない、逃げられない、という雰囲気になったのが、

  • ララア・スン

の登場だった。ある意味で、これ以降、このガンダムシリーズは、この「ニュータイプ」の問題にけりをつけなければならない、というフラグとして働いっていった。ようするに、富野監督が、たんなる良質な戦争ドラマで我慢ができなかった。彼の、それまでのさまざまな

  • 思想

を、このガンダムシリーズでも「実験」をしたい、という欲求が避けられなかったんだろう、という意味で、この「ニュータイプ問題」は、ことファースト・ガンダムにおいては、明らかに、異質な感触のあるテイストのテーマであった。実際、安彦先生は、一貫して、このニュータイプ論に批判的な立場を貫いていて、彼がファースト以外を認めないのも、この問題と深く関わっていることは、重く受け止めなければならない。
では、ここで、「ニュータイプ問題」ってなに、って話を書いていかなければならないんだけど。
ようするに、これって「世代問題」だったんだよね。今でも、老人の発想は古い、これからは若者の感性だ、みたいなことを言うじゃない。まさに、あれなわけ。
一般にこれって、若者の「風紀の乱れ」として、はるか昔から扱われてきたものなんだけど、いや違うんじゃね。そこに、未来の人間の可能性があるんじゃね、とか言い始める奴らが、いつの世の中にもいる、という程度のことなんだよね。
それは、ファースト・ガンダムの、ララア・スンのときは、まだ萌芽として、なにかが示唆される程度だったわけだけど、ゼータの、フォウに至って、

  • 研究所での「能力開発」(非人道的なトレーニングという名の虐待)
  • 幼ない頃からのエリート教育(つまり、幼なくして既に、大人を上回る能力者)

という形で、より問題が洗練されていく。何が言いたいかというと、これって典型的な

  • 学歴社会のエリート英才教育

の姿そのものなわけでしょう。小さな子どもを、極端な勉強をさせると、

  • 話している言葉は、舌ったらずな、幼児言葉

なんだけど、

  • やたらと、勉強だけはできて、そのランキングが上位であることを理由に、回りの子どもや大人たちを低能扱いして馬鹿にしている

ほんと、ヘドがでるゴミ屑を量産し続けたのが、日本の教育システムなわけだw
(この構造は完全にエヴァンゲリオンも継承してますよね。)
しかし、逆に言うこともできる。そういう、どうしようもない、ゴミ子どもを量産したのが、大人であり、大人たちが作った、教育システムなんだ、と。つまり、こういった子どもたちは、

  • 大人たちの「被害者」なんじゃないか?

という視点が、ゼータのフォウでは、全面にでてくる。
対して、ダブルゼータではどうか、というと、ある意味で、このニュータイプ問題は、究極の「進化」の頂点に至った、と言うこともできるのかもしれない。
その代表が、プルであり、プルツーだった。なにがそうなのかというと、もはや、彼女たちは、現代のVtuberのホロライブの彼女たちと変わらないくらいの

  • 舌ったらずな話し方であり、見た目の幼なさ

となっているし、そういう存在が当たり前のように、こういった大人社会において、高いスータスをもっている。
例えば、女子アナにしても、声優にしても、基本的には「お仕事」としての社会人としての常識的な、

  • 話し方のマナー(技術)

を前提として、その範囲で、一線を外れた、おちゃらけをやったりして、そこが芸人に近い感じで親しみをもたれていたりするが、ホロライブのVtuberたちは、そもそもそういった

  • 社会のマナーからの洗礼

を外れたところから、たんに「話芸」として入ってきているから、どこまでも「自由」な、

  • そんな話し方をする企業の社員がいたら、上司から毎日説教されている

というような感じを、誰からも怒られることなく、毎日続けられている。そういう意味で、明らかに、女子アナや女性声優とすら、一線を画す、現在の「人気」となっている。
ここでガンダムの話に戻りたいんだけど、こういったガンダムニュータイプの傾向が、どこから来ているのか、ということでいえば、明らかに、彼ら制作サイドが

  • 子どもの視聴者からの視線を強く意識している

ということがうかがえる。彼らが深く考えたのは、大人からの「上からの説教」をやってればいい、といった態度ではなく、子どもの視聴者の内在的な衝動を動かすような、彼らの

  • リアリティ

に訴える何か、だったわけであろう。だから、単純にそれを否定できなかったのだろう。つまり、そういった緊張感が、こういった

  • 方向

に、作品を進めていった動機があったわけだ...。

追記:
なんでまた、急に、Vtuberというかホロライブについて言及したかというと、今、グルミクでコラボをやっているから、というだけの理由。
さっそく、兎田ペこらがドラクエ5でのブラウニー事件とか、マイクラで大空スバルが兎田ペこらの家を燃やして父親に相談した事件とか、嫌でもこういう無駄w知識を増やしてしまった。しかしこの、5ちゃん並みの「まとめ動画」の数はすごいな...。