80歳以上の高齢者

新型コロナ問題を見ていると、一つだけ強烈な違和感を覚えることがある。それは、明らかに、今までのところ、80歳以上の高齢者に重症者や死者が多いように思われるのに、誰も「彼ら、彼女ら」について語らない、ということである。
この違和感を、先週の videonews.com で迫田さんが自身の経験から語っている。
彼女の母親は、90歳近いと言っていただろうか。多少、痴呆症にもなっていて、施設にいるということだが、新型コロナの去年の最初の流行の頃、施設の方と話したとき、もしも新型コロナにかかって、保健所から入院して、となった場合、2週間以上はベッドに縛られるわけだから(痴呆症の場合は特にそう)、間違いなく、それ以降は

  • 寝たきり

になってしまう、と考えて、入院そのものに否定的、という意見をもっていた。
まあ、これだけの高齢になると、ベッドで2週間となったら、もう、足腰が弱って、二度と歩けないくらいになりかねない。だったら、そこまでして、

  • 若い人と一律の扱いの入院措置

をさせられるくらいなら、治療を拒否する方が、ウェル・ビーイングにはいいんじゃないのか、という考えなわけであろう。
しかし、こういった考えは、あまり「新型コロナの専門医」から話されることはない。
それを「当たり前」と言っていいのだろうか?
つまり、ここで問われているのは「家庭医」という概念についてなのだ。
もしも、あるお医者さんがいて、「常に」産まれてから、自分の「全ての病気」を見てくれた人がいたとしたら、その人は、ある日、私がなんらかの病気になったとき、

  • 今までの自分の診察から

適切な診断をしてくれるのではないか、ということは考えられないだろうか?
(ここから、迫田さんは一つのパラドックスを示唆される。というのは、田舎の医者には名医が多い、というのだ。田舎では、医者はそもそも多くないから、患者のあらゆる症状を見なければならない。よって、必然的に、さまざまな分野について勉強することになるし、そうでなければ、そこで信頼を勝ちえない、と。対して、東京では誰が信頼できるのか、さっぱり分からない...。)
ここで、「いや、医者がどんな病気も見られるわけがないだろう、馬鹿じゃないか」と言われるかもしれない。医者とは、どこの病院に行っても、専門の科があって分かれているものであって、うんぬんかんぬん、と。
ところが、である。
この「家庭医」という制度は、実は過去に、日本でも検討された経緯がある。
そして、イギリスでは、今も定着している(GP制度)。
では、なぜ日本で定着しなかったのか、ということについて、迫田さんは「医師会が潰した」と説明する。ようするに、これは「既得権」に関係する。新しい医者の「担当」を増やすということは、今までの医者の患者が減る可能性がある。だったら、そういった医者も、この業務を行えばいいじゃないか、と言うかもしれないが、問題はそうなった場合、

  • その医者は今までの専門外まで「勉強」なければならなくなる

ため、特に、高齢の医者はやりたがらない、というわけだ。
ところで、この新型コロナの議論において、さかんに医師会から「かかりつけ医」という言葉が使われてきた。しかし、この定義は「あいまい」だ。なぜなら、本来ならそれは「家庭医」のことを言っていたわけであるから。
しかし、多くの人はむしろ、イギリスの「評判」の方をよく知っている。イギリスがどれだけ、医者にかかるまでに待たされるのか、といったような。それに対して日本は、基本的にはどこの病院にも患者は行ける「選択の自由」があるわけだ。
(この点で、上記の videonews.com の番組は、整合性のある主張の番組とは見えなかった。最初、神保さんは、国民皆保険制度が、抜群の手術の腕のある医者も、そうでない医者も同じ給料だから問題だ、と言っていたのに、この「家庭医」制度は、患者が病院を選べない、と言っているのだから。)
対して、迫田さんは今の日本政府も、さまざまに「家庭医」制度的なものを目指そうとしているように見える、といった見解を示している(総合診療医や、在宅療養支援診療所など)。
結局、この話は日本の医療費の増大の問題に関係している。なぜなら、「家庭医」とは、日常的に自分を見てくれる医者のことを言っているわけで、つまりは、

  • 予防

の側面があるからだ。そういう意味では、財政均衡派の videonews.com が必死になるのも理解できるわけだが。そして、当然、日本政府の関心にも関係している。フルスペックの「家庭医」が医師会の反対によって自民党には不可能だとして、しかしそれによって、国民の「不利益」はどうするのか? つまり、今の新型コロナの問題は、そもそも

  • 高齢者のケア問題

という、まったく解決していない日本の問題が手つかずに放置されたまま突入しているから混乱している側面の方が大きいわけだ。
では、なぜ日本の高齢者のケア問題は、だれも考えていないのか? 私はそこに、相模原障害者施設殺傷事件の植松聖の問題に通底するものを感じる。以前、ピーター・シンガーが、この事件を

と解釈している報道に気色ばんで反論していた記事を紹介したが、そこで彼が主張していた内容は、「自分の哲学は、親族が反対している場合はやってはいけない(功利主義の観点から)」というものだから、まったく違っている、というものだった。
ところが、である。
まったく「同じ」理由から(つまり、親族の意見を聞かずに殺してしまったことについては)、植松聖は「その点については、謝りたい」と、裁判でも言っているのだ! ようするに、まったく、ピーター・シンガーと変わらないわけである(しかも、そうでありながら、基本的に自分の立場が間違っていたと思っていない、という所も、ピーター・シンガーと、うりふたつだ)。
ピーター・シンガーの哲学は、最近は、「動物権利論」として礼賛される傾向があるが、彼の『実践の倫理』を読めば分かるように、むしろ、

  • 子どもと老人・障害者を「殺していい」と、動物の権利は「セット」

になっている構造になっている。臓器移植などの「科学の発展」という「目的」が最初にあって、その需要を満たせることを

  • 目的

にして、勝手にでっちあげられた、うさんくさい動機を隠している主張であることは、明らかなわけであろう。
そして、例えば、東浩紀先生も、『観光客の哲学』で、かなりの行数をさいて、ピーター・シンガーに言及していたわけだが、昔から、彼はかなり好意的に言及し続けている。そして、あるインタビューでも、哲学とは「功利主義」のことなんだ、といったことを断定口調で語っていたりするわけで、彼の(リバタリアンとしての)福祉削減の野望と、ピーター・シンガー礼賛は深く関係している。なんとかして、

  • 障害者や老人を殺して、福祉費用を「節約」したい
  • 自分の人生設計に「邪魔」になった、昔の女の「子ども」を殺して、扶養義務を逃れたい

といった、「社会の需要w」と、ピーター・シンガーが深くつながっていることと、彼の「動物がかわいそう」という態度は、後者の「善人づら」によって、相互に

  • 補完

される構造になっている、という意味で、大衆はだまされやすい、というわけだ...。