映画公開は月曜で、もう、ネットのネタバレ情報でお腹いっぱいになって、こうして土曜になって見たわけだが、なるほど。月曜に公開したということは、
- 有給をとれる奴だけ見てくれればいい
- 隣に常に、自分を支えてくれる「カノジョ」がいる「元オタク」
のことである。映画の最後の場面で
- オレの隣にも「マリ」がいてくれてよかったー
と「安心」する(そうでない奴らを「アワレム=勝ち誇る」)、一種の「勝ち組ゲーム」なわけだ。
しかし、こう言うと、リア充たちは怒るわけである。ここまでオレは鬱病になったりして、苦労してきたんだ。でも、隣には「カノジョ」がいて、支えてくれてたんだろ? それをリア充って言うんじゃないの?
最初からリア充に向けて作られた映画だということは、監督にとって、こうしてなんとか土日に見にきてくれたお客は「どうでもいい」ということなんだろう。まあ、どうでもいいで、上等ですけどねw
もうしわけないけど、なぜ、90年代の「テーマ」を今さら見させられなければならないのかが分からない。この話は、とっくの昔に終わったんじゃなかったっけ?
映画の前半は、シンジがずっと下を向いて、誰とも話さない場面が続く。そして、いろいろあって、
- 普通
に回りの人と話すようになって、なんかずっと、「冷静」で、感情を乱す場面がないまま
- 最後
まで行ってしまうし、その最後も、「普通」だ。
つまりどういうことかというと、製作者サイドはここで「成長」を描いているつもりになっているんだけど、見ている側には、
- いや。最初から「大人」じゃん
というふうにしか見えない。つまり、急に、この映画で
- 最初から「大人」
の主人公の作品を見させられていることが何を意味するのか。すでに話として広がっているが、監督の庵野さんは、鬱病にかかったことを発表している。そういった視点で見ると、これは
- 鬱病から回復した人
の、冷静な日常が、たんたんと描かれているだけ、という印象になる。つまり、この映画の最初の場面から、すでに「鬱病が回復した人」の立場で描かれているから、なにか「使用前使用後」のような、不連続感がぬぐえないのだ。
ようするに、どういうことか。そもそも、この作品を作る最初から、
- 作品なんて、どうでもいいものだった
ということだ。大事なのは、「鬱病」と戦うことであって、「鬱病」が再発しないために、あらゆることを行うことであって、それ以外は、なんだっていい。こうして映画は完成した。
さて。なぜシンジは、「なににも反応しない」、ただの人形のように見えたのだろう? それは、テレビシリーズの最初で、すでに
- すべて
が描かれていた。あの、シンジと父親のゲンドウが対話する場面。あそこで、必要十分なまでにこの作品の構造は描かれていた。つまり、ある種の、エディプスコンプレックスのようなもの、
- 心理学的な何か
を監督も、意図して描こうとしていた。その時点で、シンジは最初から「主体的な何か」である可能性を奪われていた。監督がそう「設定」したんだから、あとは監督がその
- おとしまえ
を着けるしかないわけで、なんでそんなことのために、何十年もかかるのかは、誰にも分からないし、誰も分かりたくないだろう(むしろ、それを説明されることの方が「困る」w)。
結局のところ、この
- ロボット・アニメ
にまつわる、過去から続く、日本のアニメ界に連綿と続く「反復」のような現象は、いい加減、誰かが、なんらかの「決着」をつけないといけないんじゃないのか、というのを、ある種の
- 退屈さ
と共に感じざるをえないわけである。
その一番象徴的な話は、庵野がガンダムの富野さんにインタビューしていた記事であろう。そこで彼は、富野に、ゼータガンダムの主人公のカミーユについて聞いている。つまり、カミーユとは、彫刻家のロダンの恋人のカミーユのことなんじゃないのか、と。つまりこうだ。ゼータガンダムのカミーユは最終回で発狂するのだが、ロダンの恋人のカミーユも「史実」として発狂したことが知られている。そうすると、富野は「当然だ」と答えた、という話だ。
どういうことか?
もともと、日本のロボット・アニメとは、「プラモデル会社の販促広告」として続いてきた、という伝統がある。それは、宇宙戦艦ヤマトに始まって、ガンダムはその典型だ。しかし、当たり前だけど、制作サイドは「それだけ」に留まれない。自分の
- 芸術
としての価値に関係した部分で、常にそういった「ビジネスとしての需要」に反発してきた、という関係になっている。
以前も書いたけど、ファースト・ガンダムは、そういう意味では、まだ、社会的な評価も確定していなかった時期で、まだ、そういったスポンサー側の視線を意識せざるをえなかったこともあって、富野監督だけでなく、その他のスタッフの、さまざまな意見を取り入れたこともあって、
- 普通の戦争作品
として、一定のクオリティを保とうという動機が見られた。ところが、二作目となると、すでにガンダムは「ブランド」となり、監督の富野さんはもはや、
- 神
にも並ぶ存在としてあがめられて、誰も何も言えない立場になる。つまり、完全な
- ワンマン
の体制となり、一切のアイデアは富野さんに依存するという形となっていく。
こうして、ガンダムシリーズは、ファーストを除く一切が、なんらかの「芸術作品としての監督のポエム」を読まされているような、よく分からない「日本アニメ」のお家芸としての、伝統が今にまで至っている、というわけである。
そもそも、こういった戦争の「意匠」は、
- 第二次世界大戦(WW2)
のものであって、「現代」のものではない。ここに、ある種の「時代錯誤」であり「ノスタルジー=ロマンティシズム」がある。ガンダムのモビルスーツは、WW2の飛行機の「比喩」であるわけで、だから、何度も何度も、
- そのモビルスーツよって「戦艦」が撃沈される
場面が描かれるわけだが、だったら戦艦なんてやめたら、って誰だって思うはずなのに、何度も何度も、この「巨大ロボット−戦艦」関係が
- 反復
される「喜劇」が、日本の「ロボット・アニメ」の、もはや、歌舞伎と変わらないくらいの「伝統」になっていると言わざるをえないだろう(そういう意味では、エヴァこそ、この「伝統」にこれ以上ないくらいに「忠実」な
はないだろうというくらいに「反復」していることに気付かされるわけだ。)
対してエヴァはどうか。これも、おそらくはテレビアニメ版においては、一定のクオリティをまだ保っていた。もちろん、そういった監督の
- 文芸作品
としての色彩を暗に示唆されながらであっても、まだ、そこまでの「社会的認知」がなかったので。ところが、ここで「事件」が起こった。それが、最終の二話の問題で、ようするに、いろいろとテレビシリーズの、制作上の「限界」があって、監督の意図しない、というか、満足のいくものにできなかった、という話になって、そこでさまざまな
のような、うさんくさい話がさまざまにされた。
エヴァの「暗号」だとか、なんだとか。さんざん、いわゆる「オタク」と呼ばれる連中によって、蘊蓄がたれ流され続けてきた。
これに対して、今回の作品は、一つだけはっきりしているのは、そういった「陰謀論」を、監督が「本気」で
- 潰し
に来ている、という、その「意気込み」だろう。徹底して、登場人物に、
- なにからなにまで「全て」の状況説明をさせる
という意味では、この根性については、鬼滅の刃も真っ青なくらいの徹底ぶりで、監督がまさに「大人」として、この何十年もなにを気にしていたのかを、よく現す作品だった、と言っていいだろう...。
追記:
ところで、これでエヴァは「完結」して、エヴァの「謎」とか言って、いろいろ蘊蓄をたれ流してきた連中は、自らの「役割」が終わって「死ぬ」んですかねw それとも、監督の「いい加減、大人になれ」っていう「説教」に従順に従って、普通に「大人になって」生きるんですかね。なんだったんでしょうね、この、はた迷惑な連中は...。