ベロニカの死

まあ、土日は、別の作業をしながら、ホロライブの兎田ぺこらの、ドラクエ11sの配信を見ていたわけだが、ちょうど、日曜が、ベロニカの死が描かれる場面だった。

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私はそもそも、ドラクエもまったくやらない人なので、こういったメインの主人公級のキャラが死ぬ展開が、そもそも今までのドラクエで、ほぼ一度もなかった、ということも知らなかったこともあり、ぺこらが、あそこまで

  • ショックを受けている

ことに驚いたのが正直なところだ。
というのも、そもそもベロニカが勇者のパーティに加わる場面からして、彼女の産まれた聖地ラムダが、昔から、勇者をサポートすることを宿命づけられた村だった、といったような説明があったこともあり、まあ、単純にそういった説明は

  • フラグ

だと思っていたので、なんらかの演出はあるんだろう、と思っていたからだ。ただそれが、こんなストーリーの中盤で、あっけなく訪れるとまでは思っていかなったが。
考えてみると、ベロニカと双子の妹は、この主人公のパーティの中では明らかに

  • 身分

が違う。下の階級であり、その他は、みんな、なんらかの「高貴な出自」をもっているので、その

  • 正統性

の関係から、簡単に殺せない物語構成になっている。
じゃあ、なんでこんなにショックなのかというと、つまり

  • こんなに幼ない女の子が、こんな死に方をした

こと、ということになる。まあ、見た目が子どもなわけで、どうしても「理不尽」に思えるわけだ。しかし、そもそもベロニカは双子の妹と同じ年齢なわけで、今の容姿は魔法によって、幼児化されているから、ということが知られている。そういう意味では、制作サイドは、かなり悪どい手法を使っている。
もう一つは、「現代倫理学」との関係にある。
現代倫理学は、基本的に、功利主義のことを意味する。そして、この功利主義に反対したのがカントであり、そこからカントの哲学を、功利主義者は「義務論」と呼ぶようになったわけだが、そもそも、カントは自らの哲学をなにか新しいことをしていると思っていない。
対して、功利主義は、そもそも宗教、つまり、キリスト教に対して「敵対的」である。キリスト教は「間違っている」という結論に、たどりつかざるをえない。こうして、功利主義者は、キリスト教徒を「止める」という結末になる。
例えば、ここで、永井均による「反道徳主義」を検討してみよう。

だが、永井の議論は超越論的ではなかった可能性がある。品川哲彦は次のように言う(品川[2000]補遺)。

永井氏については、「何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをする「自由」がある」「これは端的な事実であり」(44頁)というきわめてかんたんに運ばれている論理が、実のところ、私にはわからない。「何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをしてしまうのが端的な事実であって、だれもそれをとめられない」のはそのとおりだと思う。ただし、それは物理的および心理的な事実であり、物理的および心理的な「とめられない」話であって、「自由」「してもよい」といった価値評価をふくんだことばでそれをいいあらわすことはまた別の段階だと思うからだ。

事実として道徳的ではないあり方が「とめられない」からといって、道徳的ではないあり方を「してもよい」という価値が導かれるわけではない。むしろ、その種の自由が暴走しないように「してはいけない」という価値が要請されるかもしれない。実際、それが本書で示したことである。つまり、私が(「とめられない」のではなく)「とめてはならない」のは実践理性の働きであり、その実践理性の要請として、私は道徳的ではないあり方を「してはならない」のである。この意味で、本書の議論こそ Why be moral? 問題に対して実は超越論的な観点から答えるものだと言える。

永井は「道徳的でなくていい」と言う。そして、その主張は、上記にあるように

  • 人間の「自然」性

に「還元」されることで、永井は正当化しよう、とする。
人間は動物だ。人間は、生物だ。人間は、自然の一部だ。そこから、人間は「自然科学の法則」によって

  • 決定

される、という形になる。ところが、道徳はこの「自然科学」に含まれないのだから、

  • 道徳的でなくていい

と主張される。
しかし、上記にあるようにここで問われているのは、

  • (自然科学の法則を)止められない、ということが、「やってもよい」を含意しない

というところにある。
しかし、そうだとすると、ここにアポリアが生まれる。それは、

  • ヒューム主義 ... 欲求充足か自己利益だけが理由を与える力をもつ

と両立できない、ということなのだ。つまり、「功利主義」を維持できない。

フットが2004年に書いた論文「合理性のよさ」のなかでは、自己利益説に対する反例も挙げられている。それはナチスに反対し死刑に処されようとした人々の話である。彼らの手紙を集めた『生と死のはざまで』という本のなかに「ズテーテン地方の農家の少年」としてのみ記録されている少年の手紙が収録されている。

親愛なる両親へ。私は悪い知らせをあなた方にお伝えしなければなりません----死刑に処されることになりました。処されるのは私とグスタフ・Gです。我々はナチス親衛隊へ登録しなかったので、彼らが私たちを死刑にするのです。......私たちは二人とも、あのような恐ろしい行ないをして良心を汚すくらいなら死んだほうがましなのです。ナチス親衛隊がするにちがいないことくらい知っています。(Foot[2004]2)

フットは問う。彼らの選択は不合理だろうか。理性に適っていないのか。彼らが願わくは生きたいと思っているのは当然だろうという。死は彼らにとって自己利益に適うとは言いがたい。したがって、自己利益説では彼らの合理性を説明できない。彼らがすべきことをしていたと考えられるような、そういう実践的合理性の捉え方があるのではないか、とフットは言う。

こういった性質の

  • 倫理

を、現代の倫理学が、自らの中に含めようとするとき、もはや、「ヒューム主義」では、正当化できない。
もちろん、こう言うと、功利主義者は

  • そういったものを「倫理学」に含めようとすることが間違っている

と言うのだろう。しかし、そういった「現代人」の感覚が、もはや、過去の人々が「倫理的に生きよう」として、さまざまな選択をしてきた全ての行為を

  • 理解できなく

なったとき、一体、何が起きるのか、ということなのだ。
ちなみに、上記の本では、著者は完全に

  • カント主義

に自らの立場を定めている。ただし、この場合のカント主義は、カントそのものというより、クリスティーン・コースガードによって、現代的に整理されたカント主義ということになる。それを、

  • 実践理性 ... 反省を通して、何をすべきかという問題に対する解決を与える人間の能力
  • 手続き的実在論 ... Why be moral? 問題のような規範性の問いは、それに答える正しい手続きがあるがゆえに、内在的に規範的な実体や事実が存在する、という立場
  • 自律
  • 実践的アイデンティティ
  • 認識論の調和主義

といった言葉で説明する。非常に興味深いのは、こういった Why be moral? 問題の正当化といった文脈で、徹底した、カントのアプリオリ形而上学が復活していることであろう。
さて。最初のベロニカの死の問題に戻ってみよう。ベロニカの死を理不尽だと思うことは簡単だ。しかし、結局、私たちは、いつかは死ぬわけである。そうしたとき、自分が死ぬことよりも

  • 正しい

ことを主張することを選ぶ場面が、生きているうちのどこかで出会わないとは限らないわけだ。よく考えてみてほしい。もしも、

が、WW2で勝利していたら、と。どんな恐しい世界になっていたか。これに抗ってきた人たちがいたから、今の私たちがいる(そう考えると、そのナチスと同盟を組んだ、大日本帝国の許されざる大罪が分かるわけだ)。
そしてそれは、ドラクエ11sの世界も同じなのだ。勇者が魔王に負け、暗黒の世界が訪れようとしたとき、ベロニカの

  • 自己犠牲

には、私たちを考えさせる意味があるわけである...。

追記:
言うまでもないが、こういったカント主義はたとえば、鬼滅の刃にも色濃く見られるわけで、そこに、現代における、カント主義の見直しが起きている、と言うこともできるだろう。
ところで、ベロニカの声優は、内田真礼なわけだけど、彼女というと、「とある魔術」の、

  • フレンダ

を思い出されるわけだけど、意識はしているんだろうか(こっちも、小説版で、後に妹が登場するんだよね...)。
あと、ぺこらについて思ったのは、彼女があんなにショックを受けていて、「もうやめよっか」と言うほどだったわけだけど、彼女はほんとに、ネットの情報とか見てないんだろうか。まあ、ネタバレはそこらじゅうに散財しているわけで、ベロニカはクリア後のアフターストーリーで再登場することは分かっている。まあ、それはそれで賛否両論あるみたいだけど、気持ちは分からなくはない。どんなにこの「世界」を「救った」としても、

  • 仲間

が自分のそばにいてくれなければ、なんのために戦っているのか、ということなんだよね...。