ゲームの「実践性」

金曜日は、ガルパン最終章の第3話を、ネットでチケットを予約して、仕事帰りの19時半ので見たし、土日は兎田ぺこらのドラクエ11sで、ベロニカに「再開」するところまで見て、少し、先週までの「もやもや」が晴れて、すっきりした気持ちでいる。
(この前のブログで、言い忘れていたけど、なぜシンエヴァが月曜に開演して、それを「リア充」と言ったのかというと、ほとんど大抵の映画館は、最終が17時台だったから、定時が多くの企業は18時だと考えて、有給でもとらないと見れないよね、という意味でそう呼んだわけで、その間にネット上では大量のネタバレ情報があふれていた状況を指して、そう呼んだわけである。なぜ17時台になったのかは、緊急事態宣言の20時を意識しているのと、シンエヴァがやたら長い、ということがあったわけだが、いずれにしろ、通常通りに、金曜や土曜に開演にすることはできたわけで、つまり、運営側は、始めからこうなることを分かって、どういう層に見てほしいかを選別したんだろう、と穿った見方をした、というわけだ。)
それにしても、ガルパンは人も死なないし、常に平和な世界だ。まさに、日常系と言っていいだろう。あれだけのジャングル戦を、あれだけの品質で、戦車戦を描いたら、そりゃあ制作に時間がかかるんだろうなあ、というくらいは想像できる。もはや、人々はストーリーなんてどうでもいい。
まあ、私はゲームといっても、スマホゲーの「とじみこ」しやからない、特殊な人なので、ドラクエ11sについては、見ていて、つくづく気になるのは、戦闘シーンでもその戦闘スキルやアイテムが、いちいち

  • 「とじみこ」のそれに似ている

ということなのだが、考えてみれば「当たり前」で、なぜなら、同じ、スクエニという会社が作っているから。
そして、このドラクエ11sにおいての、ベロニカの死についてなんだけど、これは「とじみこ」で言えば、テレビシリーズ「とじとも」において、

  • 結芽と夜見の死

という形で反復されていたわけだが、逆にスマホゲー版では、彼女たち2人は「死なない」という

  • ストーリー改変

がされている。
そして、ドラクエ11sにおいての、「もう一度ベロニカに出会う」ための

  • SF的な「意匠」

は、「とじとも」における、可奈美と姫和が、二人の母である、美奈都と篝に「もう一度出会う」という場面が、同じように

  • アフターストーリー

的に描かれる、という点に、どこか相似性を感じなくもない。
(なぜ、「とじみこ」で結芽と夜見が死ななかったのかは、単純で、彼女たち二人はそもそも、このゲームの「(プレーヤーが所有し、デッキに並べられる)メインキャラ」となっているから、そのことは同時に「プレーヤーの<財産>を毀損する」行為とも受けとられるから。)
結局、こういったテレビゲームは、

  • プレーヤーの「主体性」

を尊重しないと、プレーヤーの不満がくすぶり続ける、ストレスの多い(低評価な)結果になりかねないので、どんな「鬱展開」も、どこかしらで、その

  • 救済

が必要十分な形で用意されていない限り、なんらかの「欠陥」として理解されやすい、という面があるんだと思う。
例えば、あのベロニカが死んだ場面にしても、一見すると、あそこで主人公たち勇者は、意識を失い、気付いたら、みんなの居場所が分からない、という形で再出発している。しかし、もしもあそこで意識があったら、と考えよう。そうしたら、多くのプレーヤーは

  • ここの「オプション」で、「ベロニカが死なない」選択が、どこかに<なければならない>

と考えて、無駄な努力を繰り返し、何度も何度も、その「ルート」を探して、再プレイを行うかもしれない(これは、まさに、アニメ「シュタインズゲート」で見られた光景なのだが)。
しかし、そもそも、制作サイドは、そうプレーヤーが「考えること自体」を避けたいのである。なぜなら、

  • 「いい」ゲームとは、プレーヤーに「無駄な努力」をさせないゲームのこと

だからだ。つまり、プレーヤーが、そういった「無駄な努力」を始めた時点で、このゲームには「欠陥」があった、ということが証明されてしまう。
(ゲームとは、そもそも、プレーヤーに多くの時間の占有を求めるもので、もともと、プレーヤーのその時間と、なんらかの「トレードオフ」が成立していなければ、いずれ、このゲーム業界は、すたれて、滅びていくことになる。このプレーヤーの日常の「実践」を要求している時点で、その存在形態は最初から「限られている」と言えないこともないわけだ。)
まあ、当たり前だけど、最新版として、同じゲームが再販されても、まったく「同じ」ストーリーを繰り返していたら、いつか

  • あきられる

わけで、どこかしらに、ストーリー的にも「スパイス」を入れていかなければならないわけだけど、そうすると、なにが新しいか、っていうと

  • 鬱(うつ)展開

しか、最後は残っていない、ということになっていく。では、たとえ、この世界は、そういった救いようのない、残酷な世界だったとしても、ゲームの中だけでも(SFとしての物語の中だけでも)、なにか、希望を感じさせるものにしていきたい。そういった模索の結果として、こういった傾向の作品が選ばれていく傾向がある。そこについては、以前紹介した、思弁的実在論の、カンタン・メイヤスーによる

  • 全ての過去の「死者の復活」

といったアイデアにも繋がっていくのだろうし、もしかしたら、柄谷行人の最近の「交換形式Dの考察」に繋がるような、思弁的な意味があるのかもしれない...。

追記:
今後、そういったアイデアは、

  • ヴァーチャル・リアリティ

としての何か、という形で「実現」されていくことが予想される。そして、そういった傾向は、AIとも深く関係しながら、まず、アニメやテレビゲームなどの「サブカルチャー」のような表現形態が、先行して、時代をひっぱって行くだろう...。