エヴァとゼータガンダム

シンエヴァが公開になり、エヴァも完結したということで、改めてエヴァとはなんだったのかが考察されているわけだが、私には、そもそも、この作品が、なんらかの意味で

  • 意味がある

というふうに考察できるだけの何かなのかが、今だに、さっぱり分からない。
というか、普通に思うのだが、こういう作品が「なんなのか」を分かると言う人間になっちゃいけないんじゃないのか、という、警戒感が強くある。
特に私が批判的なのは、シンエヴァ以前の

  • 劇場版

の、一貫した

  • 意味不明さ

にある。そこで、私は以下のような試聴態度を推奨したい。

  • テレビアニメ版を見た後に、そのまま、シンエヴァを見る。

この態度のいい点は、比較的に、エヴァの「意味不明さ」が、うまく回避できていることで、これによって、まあ、比較的に

  • まともに見れる

ことが可能になるのではないか、と考えるからだ。
そのように考えたとき、結局、エヴァとはなんだったのか、ということなのだが、これについては、今でははっきりしていて、つまり、

だった、ということに尽きるんだと思うわけである。

新訳Ζガンダム劇場版について、いろいろな方の考察にヒントをいただきながら、私なりにも三部作全体を振り返り、思うことをまとめたいと考えてきました。その手がかりとして、『Vガンダム』を手がけていた1993年当時、つまり最も鬱的な状態にあった頃の富野監督の言葉を読んでみたいと思いました。
ZガンダムLDBOX ライナーノートから 庵野X富野対談
【富野&庵野語録】倉庫より
この回想を読んで私が「これは・・・」と思ったのは、カミーユの名前の由来についてふれたくだり。モデルが「彫刻家のロダンの弟子のカミーユクローデル」と明言してるのはいいとして、「半生を精神病院で過ごした女性で。カミーユも最終回で精神をやられちゃいましたが、それもクローデルに影響を受けて?」という庵野さんの問いかけに、「もちろんです。」と断言してるのには、改めて読んでみて今さらですが、驚きました。テレビ版のラストにカミーユが精神崩壊することは、企画段階で名付けられたときから、もはや織り込み済みだったということですよね。
それでもシャアは死なないから・・・ 囚人022の避難所

こう考えてみると、確かに、カミーユとシンジ君って

  • うり二つ

なんだよね。非常に似ている。つまり、庵野さんはシンジ君に対して

  • 頭を狂わせる

ことを最終回でやろうとした、ということなんだよね。
ここで改めて、ゼータガンダムってなんだったのかを振り返ってみたいんだけど、この作品は、ファースト・ガンダムの次回作として作られた作品であるわけだけど、当時の評判としては、

  • 子供向きじゃない

という理由で、評判が悪かったんですね。監督が自分の「芸術家」としての片鱗を見せようとして、かなり、文学作品的に、作品世界を作っていった。
この流れっていうのは、確かに、ファースト・ガンダムにも抱懐していた側面があって、例えば、カイ・シデンとチハルとの回や、マチルダさんの回や、ララア・スンがそうだったわけだけど、ようするに、

  • 純愛

が、一つのテーマとして一貫して描かれていたわけですね。つまり、愛と戦争との「矛盾」が描かれる。
そしてそれは、ゼータガンダムにおける、フォウ・ムラサメが典型的だけれど、

  • 愛する、ことがこの「戦場」においては、状況が「許されない」構造になっている

という側面が、何度も何度も反復される。フォウとカミーユは、どこまでも共感し、互いを好きになり、愛するようになればなるほど、お互いの「戦場」の残虐さであり、悲惨さが深刻になり、最後にはフォウは死んでしまい、お互いの愛は、かなわないことになる。
そして、最終回に近づくにつれて、エウーゴの宇宙船の主要メンバーは、次々と、敵なり味方なりの主要メンバーと恋愛関係になっていき、お互いが愛を告白し、結びつくわけだけど、そうなるやいなや、次々と、それぞれが

  • 戦場で死んでいき

お互いの「愛」は成就しない、という結末を迎え、ほとんど心中と変わらない結末を迎え、次々と死んでいく。
この「光景」を側で見ているカミーユは、最後には、精神崩壊を起こし、狂ってしまう。
うーん。まあ、どう考えても「子ども向け」ではないんだよねw
では、どういう形で、これがエヴァにおいて、オマージュになっていたか、なんだけど、まず、テレビアニメ版において、そもそも制作スタッフは、プロダクションサイドの判断で、主人公クラスの主要メンバーを殺さない、という約束があった。そのため、ゼータガンダムのように、次々と主要メンバーを戦場で殺させることができなかった。
しかも、主要メンバーは、全員がゼータガンダムに比べて、子どもで幼ない、という特徴があった。そのため、いわゆる「恋愛」を彼ら子どもたちに表象させることは、どこか無理があった。
よって、何が起きたか、というと、唯一残った

  • 戦場の残酷さ

が、極度に肥大化して描かれた、という結末となった。つまり、エヴァに乗るシンジ君や綾波やアスカが、どこまでも残酷な苦痛描写が続く、という結果になった。
そして、さらに問題は、ではどうやって、ゼータガンダムのテーマである

  • 純愛

を、この作品に挿入するのか、という最大のテーマが残ったわけだけど、それを

という結果になった、ということである。しかし、その描かれ方は、ある意味で、一般の人には理解できない異常さを感じさせられたわけだ。
まず、ゲンドウは、そもそもこの作品では、一貫して「脇役」として描かれている。つまり、ゲンドウはこの作品では、主要キャラではない。シンジ君は、テレビシリーズの最初の数話では、父親に、かなりこだわっていたけど、それ以降は、ほとんど興味を示している姿が見られない。
しかも、さらに「異常」なのが、碇ユイ、つまり、シンジ君の母親の問題が、この作品においては、徹底して無視されている。
確かに、シンジ君はテレビシリーズの最初では、すでに自分の母親は亡くなっていることを話しているが、ほとんど全作品を通して、それ以外で、シンジ君が母親に言及したり、興味を示した場面がない。
そしてそれは、ゲンドウについてもそうで、ゲンドウが

  • かなり興奮して描かれた場面

というと、これもやはり、テレビシリーズの最初で、綾波がプラグスーツで負傷したところを必死になってゲンドウが助けようとしていた場面くらいで、これも綾波とユイとの関係を考えると、ユイ問題につながる場面だったと言えると思うんだけれど、それ以外ということでは、ほとんど、表には登場してこない。確かに、重要な回想場面で、ユイの存在がゲンドウにとって、重要だったのだろう、といったことが「示唆」されるものがあったことはあったが、シンエヴァまでは、比較的、軽い感じで描かれていた。
ところが、シンエヴァにおいては、この問題が正面から描かれた、と言えるだろう。
つまり、ここにおいて、エヴァにおける「ゼータガンダムの純愛の部分」が、実は、碇ゲンドウに集約されていた、ということが言わば

  • 明示的に

描かれた、ということになる。
ただ、そうだったわけだが、それを認めた上においても、やはり奇妙な印象は受ける。それは、結局のところ、ユイは、ほとんど

  • 描かれなかった

のだが、逆に常にそれは、「そこにあった」という意味では、示され続けていたのではないか。つまり、どこか、映画「桐島、部活やめるってよ」の桐島のように、すべてのキャストが、そこには表れない「不在」の存在「の方」を向いて、動いていたんじゃないのか、といった、なんとも言えない「存在の奇妙さ」がある。
今回のシンエヴァにしても、世間の反応はゼータガンダムと似ている。つまり、ゲンドウは「大人ではなく子ども」とか、「大人になれないダメな奴」とか、「シンジ君の方がずっと大人」とか。こういった世間の反応は、ゼータにおける、「子ども受けしない」とか、その評判の悪さと、重なる。
つまり、ここで描かれているゲンドウは、ゼータガンダムの「オマージュ」である、ということを分かっていれば、そもそも、そういう反応はおかしい、ということが分かるはずなのだ。つまり、当時のゼータガンダムの視聴者も、結局のところ、そのテーマに向き合おうとしなかった。ただの、子ども向けの「ロボットアニメ」として、そのエンタメ性をうんぬんしているだけに過ぎない。
ここで、描かれ、問題にされようとしているのは、

  • 純愛

の問題なわけでしょ。ゲンドウは、「狂って」いる。確かに、サイコパスだよ。でも、この「愛」の問題って、究極的には、そこに至るかもしれない、っていう切実さがあるはずだ、っていうのがテーマなわけでしょ。それは、ゼータガンダムで、愛しあう二人が次々と死んでいく姿を見ていたカミーユが、最後には

  • 発狂

するのと、同じ何かを示そうとしているわけでしょ。つまり、その水準で分析しよう、という世間のオタクの態度が、一貫して、この最後に至るまで見られなかった、ということの方が、まさに社会現象として、興味深いところだったんじゃないんですかね...。