新谷由紀子『利益相反とは何か』

あなたは、民主主義に反対でしょうか? ちなみに、東浩紀先生は一貫して民主主義に反対しています。
もしも民主主義に反対であるなら、では、

に政治的な決定をしてもらえばいいと思いますか?
言うまでもないですが、「あなた」はその決定ができません。なぜなら、あなたはその決定に関わるほど、暇ではないからです。日々の給料を稼いで、少なくとも定年までは働かなければなりません。
しかし、ここにパラドックスがあります。自分が決定できないのに、誰か他の人が決定したことに従わなければならない。そんな場合、一体、誰が決定してくれたら、あなたは「納得」するのでしょう?
ある意味で、この日本では、その「答え」が用意されています。それが、

  • 東大

です。東大は、日本で一番、優秀な高校生が入学する大学だとされています。つまり、これを逆に言うと

  • 国家

が、そういった「優秀」な高校生を選抜するために作った大学だ、ということになります。つまり、だったら、東大出身の優秀な大学教授に日本の「全て」を決定してもらえばいいんじゃないか、という答えになります。
また、これを補強する状況証拠もあります。それは、現代が「知識社会」だ、という考えです。さまざまなテクノロジーは複雑になり、もはや、それらの「からくり」を理解するのにさえ、素人には難しいです。だったら、そういった諸々を研究している東大に全てを任せればいいんじゃないでしょうか?
しかし、この考えには一つ、「欠点」があります。それが

です。

利益相反の一般的な概念としては、当事者の一方の利益が、他方の不利益になる状態のことである。それが、特に「公職」「企業幹部」といった「責任ある地位」に就いており、権限が大きく、かつそれらの人物の私的利益が絡んだ場合には、公平な判断・決定に疑問が生じ、重大な問題につながっていくため、対策を取っていかなければならないということである。

このことが、たとえ大学教授であっても、企業から利益供与を受けている先生が、利益相反として、審議会のメンバーとなることがふさわしくない、とされる理由であることが分かるであろう。
しかし、である。
もしもそうだとすると、上記の議論と矛盾するんじゃないか、ということにならないか? 東大出身の先生は、言わば、

  • 国家

が、この日本の運営のために、必要だと考えて「探した」、つまり、日本で一番に「頭のよい」エリートだぞ。もしも彼らに任せられないとなれば、私たちは、それ以下の頭しかもっていない人たちの「選択」を次善策として選ばなければならない、と言われていることになる。
まさに、「なんで一番じゃなきゃダメなんですか?」問題が、ここにもあった、というわけであるw
東浩紀先生がツイッターでさかんに、新型コロナ対策が「やりすぎ」だと批判しているが、そもそも彼は「居酒屋経営者」として「当事者」ですからね。つまり、利益相反の当事者なわけですから、彼がお酒の規制に反対するのは、利害当事者として当たり前であるのと同時に、彼にはそもそも、この問題に客観的な立場としてパブリックに話せる、利益相反を離れた「資格」があるのかが、そもそも疑問なわけだが、ツイッターはデマ拡散装置ですから、やりたい放題やっているわけで、その非倫理的な態度においても、この人を日本社会が「知識人」として扱うことの正当性が疑われるわけだ。)

一つ目は米国のゼネラル・エレクトリック(General Electric Company: GE)の利益相反マネジメントを取り上げる。GEは、多角的工業企業であるととおもに、金融やマネジメントサービス部門を擁するコングロマリットである。GEのホームページでは、コーポレート・ガバナンスんお一環として、インテグリティ声明である「スピリット&レター(The Spirit & The Letter)」を作成しており、その中に「利益相反」の項目がある。引用すると次のとおりである。
(1)求められる知識
勤務中であっても勤務外であっても、GEに対する各自の義務と対立する行為を行ってはいけません。勤務中の活動も家庭での活動も、GEの声明や評判を傷つけるものであってはいけません。GEの資源や影響力を濫用することも禁止されています。悪意がなくても、利益相反のような印象があれば悪影響をもたらす場合があります。各自の行為がどのように見られるかを考え、利益相反と認識されないように行動することが重要です。
(2)求められる行動

  • a. 利益相反が生じうる、または相反するとみなされる恐れのある社外活動や財務上の利権または関係の全てを(上司及び社内のリーガル・カウンセルに書面で)開示してください。
  • b. GEの職務外の全ての個人的取引及びビジネス取引において的確な判断力を働かせてください。
  • c. 各自の職務やGEの利益に反する、または反するとお見られても仕方のないような行動や関係は避けてください。
  • d. 個人的利益のために、GEの資産や知的財産、勤務時間や設備(事務機器、電子メール、コンピュータ・アプリケーションなど)を濫用または使用しないでください。
  • e. GEにおける地位、情報、財産を使用して見出された、GEに利益をもたらす可能性がある機会を、個人的に利用しないでください。
  • f. GEに勤務している間に外部企業の役員や取締役に就任する場合は、事前に承認を得てください。
  • g. 無報酬で役員に就任するときであっても、特にその組織がGEと関係がある場合や、財政面などでGEから支援が予想される場合は、上司の承認を得てください。

(3)注意すべき点

  • a. ある企業とGEとの取引に個人的に影響し得る立場にありながら、その企業(お客さま、供給業者、投資対象など)に対して保有する財務上の利権
  • b. GEでの就業時間やGEの設備や用具を使用して行うアルバイト
  • c. 供給業者、お客さままたは競合他社からの少額のお社交儀礼を超える贈り物(特にGEを代表してこれらに関わる意思決定を行う立場にあるとき)
  • d. 供給業者、業務委託先またはお客さまからの、一般の人やGEの同僚は受けられない個人的な値引きなどの恩恵
  • e. 家族や親しい友人が供給業者を所有または経営していることを知りながら、その供給業者と取引するよう指示すること
  • f. 社外活動の促進や支援を目的としたGEの資源、各自の役職、影響力の濫用
  • g. 家族や親しい友人の採用、昇進、直属につけること
  • h. GEにおける各自の義務と矛盾したり、会社の利益を損なったりする可能性がある個人的な関係

例えば、こんなことを考えてみましょう。なぜ、カントは「実在論存在論」ではなく、「観念論」から、彼の純粋理性批判における議論を始めたのか、と。
それは、そもそもの人間の「理性の越権行為=理性判断の限界」そのものを議論するためだった、と考えられるでしょう。
多くの場合、男の医者は自分の子どもや妻や両親の手術を行いません。自分の家族は、その医者にとって、無上の価値があるのですから、他人に任せられない、なんとしても、自分で成功させなければならない、と考えるものではないでしょうか。しかし、一般的にそうはなりません。なぜなら、むしろ、あまりにも

  • 個人的な利益

に関係しているがゆえに、その人がどこまで「冷静さ=普段のルーティーンを正確にこなせる平常心」を保てているのかが疑わしいからです。
そういう意味で、カントは「反知識社会化」の立場だ、と言ってもいいでしょう。
そういう意味で、カントがやったことは、

  • 諸学問の「専門分化」

っだったと言っていいと思います。つまり、カントが闘ったのは、それまでのキリスト教神学が保守し続けてきた

だったわけです。
ところが、です。
そのカントを、「トンデモ」として嘲笑してきたのが、分析哲学者たちです。彼らは、経験論の延長にある自然科学以外の一切を、「トンデモ科学」として否定し、その最大の敵がカントでした。そして、まさに彼らがカントを「乗り越える」ときに使ったレトリックこそ
ホーリズム
だったわけです(クワインホーリズムは有名ですが、基本的に分析哲学とは、そのクワイン聖典としている人たちだ、と言えるでしょう)。
しかし、なぜカントはホーリズムに敵対したのでしょう? それはむしろ、当時の「キリスト教教会」と対峙するために必要だったからでしょう。
当たり前ですけど、世界の「全て」は

  • 全て

に関係しています。ということは、つまりは、どんな分野も「独立」していません。すべてがすべてに関係しています。そこにどんな境界も引ける合理的な理由はありません。ということは、逆に言えば、

  • 全ては「神」と関係している

ということになるのですから、そもそも「学問の専門化」は単純に

  • 嘘(=不可能)

だ、ということになります。これが「ホーリズム」です。しかしそれは、例えば、アリストテレスの哲学を見れば分かるでしょう。結局は、全部が「神」に関係しています。つまり、この「神」との関係なしには、

  • この世の全て、一切のものが「決定」しない

と言っているわけで、学問の「専門化」が不可能なわけです。
では、なぜ学問の「専門化」が必要なのでしょう? それは、例えば、上記の「利益相反」から考えることもできるでしょう。全ての学問を「統一」する、ということは、すべてを「関係」として考える、ということになる。よって、それが可能なのは

  • 日本で一番に頭がよい人だけ

ということになります。その人しか、正しく判断できない、と言っているのと同値だからです。しかし、ここにパラドックスがあります。つまり、その人は、自分の家族の手術ができません。その人「しか」できないはずなのに、その人ができない、というのですから。
カントにとって重要なのは、「真善美」に対応した、純粋理性批判実践理性批判判断力批判が、それぞれ

  • 独立

した、なんらかの人間の「機能」として記述することで、それを「統一」する中心が<ある>という考え(ホーリズム)と戦うことだったわけです。むしろ、そのカテゴリー・エラーを徹底して排除することだった。ある意味で、それさえ実現できれば、あとはどうでもよかった、と言ってもいいくらいだった。
つまり、「真」と「善」と「美」は、

  • 違うカテゴリー

なのであって、それらを混同できない、と言っているわけで、もっと言えば、そのどれかでどれかを「還元」できない、「包含」できない、根拠付けできない、基礎付けできない、と言っている。なぜなら、それは

  • 人間の有限性

に関係している。
なぜ、どんなに優秀な医者でも、自分の家族を手術しないのか? それは、利害当事者は必然的に、冷静な行動を維持できないから。では、逆に、なぜ、どんな優秀な医者も、自分より劣る医者による、自分の家族の手術を受け入れるのか? それは、「彼ら」自分以外の医者が、自分とは、なんの

もない、と分かっているから、比較的に客観的で、冷静な判断や行動ができるだろう、ということが「統計的」に見込まれるから、なわけだ。
ここに、なぜ民主主義制度が、すべて東大卒業生による「エリート独裁」に代替されないのかを説明する、と言えるだろう。
このことは、近年よく話題にされた「集合知」から考えることもできる。ある判断を、数人のエリートに制限するよりも、圧倒的に

  • 多くの凡人

で構成される、「国民全員」といったような集団に意見を出させた方が、間違いなく優秀な意見が現れるし、また、そういった意見がドミナントになる。
このことは、そもそもの「東大=日本で一番に優秀な人たちを集める機関」という考えの

  • 失敗

を意味している、と言えないだろうか。本来の大学は、アメリカにしても、日本にしても、地方の優秀な子どもは地元の大学に進学していた。そして、それでなんの不都合もなかった。この慣習が

  • 破壊

されたのは、まさに

  • 日本で一番優秀な人が東大に入る

という「幻想」が、作られたからであって、そうやって日本社会が形作られてきたからだ。しかし、そもそも「一番優秀な大学」という言い方自体が自己矛盾なわけであろう。それは、そもそも今の

  • 大学入試問題

が、そのような「幻想」を作っているだけであって、本来、大学に優劣があるわけがない。むしろ、こういった

  • 中央集権的

な発想が、バブル以降の日本という国家の国力の衰退を加速させた、と言ってもいい。
私たちはもう一度、カントに戻って、学問とはなんなのかを考える必要があるのだろう...。