A・J・エイヤー『言語・真理・論理』

今思い出すと、なぜリチャード・ローティは、あそこまでカントに攻撃的だったのだろう、というのは疑問だ。というのは、彼の主張する、ある種の「アナーキズム」。つまり、徹底した

  • 不可知論=一切の知識の否定

こそ、カントが主張していた

  • 純粋理性に対する実践理性の<優位>

そのものなわけでしょう(つまり、実践一元論)。しかも、そこからローティは、「(芸術家による、この世界を先導する一部のエリートという)詩人」への、逆説的な絶対化、聖域化という、

  • エリート主義

に反動化するわけだけど、なんなのこの「逆ギレ」w この世の一切はダメだから、じゃあ「エリート」に世界を任せましょうってw よくこんな恥かしい内容の本を、偉そうな学術書にまぎれこませて、書くよな。なんなの、ジョークなの?
ただね。
どうも、この点についてはさすがに、ローティ自身が「自覚的」だったようで、以下のような、かなり苦しい「言い訳」をしているw

もちろん、厳密にいえば、カントは道徳的信念に道を譲るために知識を否定した。しかし、共通の道徳的良心を通じて下された非認知的命令が「理性の事実」----人間であるとは、合理的な行為主体であるとは、時間空海上の限定の束という以上の何ものかであるとはどういうことかについての事実----の存在を示すという保証がないならば、超越論的道徳哲学とはいったい何なのだろう。カントは超越論的知識がいかにして知識となりうるかを説明することはできなかったが、そのような知識の存在を主張するのを断念することもできなかった。
リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)
人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

ようするに、お前は人前ではカントを口汚くののしっていたわけだけど、裏ではお前の

  • ネタ元

はカントだった、という「落ち」なわけだw これが、

  • 現代哲学

の正体。みなさん、必死になっての「言い換え」による論文の量産化、御苦労様w
ただ、そう考えてみると、ローティ自身がこの問題に言及してこなかったか、というと、そういうわけではない、と思うわけである。

われわれが今「分析的」と呼んでいる種類の哲学は経験論の一つの形態として出発した。それはバードランド・ラッセルやルドルフ・カルナップ等の著作から発展したのである。彼らの著作はA・J・エヤーの『言語、真理、論理』(一九三六年)において要約され、標準的な教えやすい形にされた。
リチャード・ローティ「はじめに」 ウィルフリド・セラーズ『経験論と心の哲学』)
経験論と心の哲学

これは有名なセラーズの『経験論と心の哲学』の序文としてローティが書いたものだけど、この本の後書きは、ロバート・ブランダムなんだよね。
ロバート・ブランダムはローティの弟子ですから、こうなることはいいんだけど、ブランダムの推論主義まで行くと、今度はかなり自覚的に、ヘーゲルの再評価が行われている。
というか、そもそもこのセラーズの『経験論と心の哲学』の内容そのものが、かなりカントを意識していて、つまり、ブランダムはセラーズによる「分析哲学へのカントの再導入」の後で、今度は「分析哲学へのヘーゲルの再導入」を目指した、という関係になっているわけで、こういった傾向性を、

なんて呼ばれていた、というわけなんだけど、つまり、セラーズやブランダムになると、もはや、自分がカント主義者でありヘーゲル主義者であることを隠そうともしない。つまり、そもそもの分析哲学がどうのこうのと言って、ローティ世代がやってた「党派争い」自体が馬鹿馬鹿しくて、まともに相手にしなくなった、ということなのだろう。
ただ、ここでの論点はそこではなくて、上記でローティ自身が自分の

  • ネタ元

を暴露しているところなのであって、つまり彼は、A・J・エヤーの『言語、真理、論理』を

  • 教科書

として使ってきた、と言っているところなのだ。
そう言われると、じゃあ、この本にはなにが書いてあるんだろう、となるよね。

この論文でのべられている見解は、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)とヴィトゲンシュタイン(Wittgenstein)の学説に由来したものであり、そのラッセルやヴィトゲンシュタインの学説それ自身は、バークレー(Berkeley)とデヴィド・ヒューム(David Hume)の経験論の論理的帰結なのである。

これ、『言語、真理、論理』の序文の最初に書いてあるところだけど、以前に飯田隆先生の「綜合的アプリオリから規約へ」という論文を紹介して述べさせてもらったけど、単純に嘘だよね。
分析哲学の今では聖典化されているクワインの攻撃対象は、カルナップだったわけだけど、つまり、論理実証主義者(ウィーン学団)だったわけだけど、じゃあ、彼らは何者なの? そりゃあ、大陸系の人たちなわけで、普通に

  • 新カント派

なわけでしょうw そして、そもそもヴィトゲンシュタイン自体が、かなりカントを意識しているわけでしょう。そりゃあ、当時の知的状況を考えれば、当たり前だよね。
いや。もっと言えば、分析哲学における、「言語論的転回」。これ、まんま、カント哲学の延長じゃん。だって、カントの「カテゴリー」て、ほぼほぼ

  • 数理論理学

と変わらないわけだよ。もう、カントの言っていること自体が、その内容として「言語論的転回」を言っている。
じゃあ、なんでこの『言語、真理、論理』が、こんな起源の「でっちあげ」から始まる本になったんだ、というのを考えると、まあ、そうしないと、彼らにとって

  • 不都合

だったからだよねw

というのは、その時わかることなのだが、多くの形而上学的発言は、発言者の、経験の限界をこえ出ようとする意識的な願望にもとづいて、というよりはむしろ、論理の運びの上のあやまりによって行われたものだからである。

現象界を超越する実在の知識を持っていると主張する形而上学を攻撃する一つの方法は、どんな前提から彼の命題がみちびき出されるかを問うことである。

まあ、なんというか、かなり

  • ナイーヴ

なことを言ってますよねw 気持ちは分かるけど、こういう「教科書」を読んで勉強して、研究者になったローティのような人が、まさに「純粋まっすぐ君」として、なるほど。言われて気づいたけど、ローティの「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」における、カント批判の論証のレトリックは、完全にこの

のテンプレそのものだな。おそらく、当時の分析哲学系の人たちは、この方向に、まだまだ、論文を量産するためのネタ元がころがっている、と考えていたんだろうね。この論敵との戦いに、学業実績を積み上げていく宝の山があるって。
でもさ。
この、『言語、真理、論理』って、おそらく、今の日本の大学の哲学系の文系学科で、ほとんど必須教科書として教えられているんじゃないかな(少なくとも、分析哲学が専門の学生は、そうなんじゃないか)。というのは、さ。この本に書かれている

  • 経験論

って、日本の文系出身者による、今の「自然主義」「存在論」「実在論」ブームの雰囲気と、まったく、瓜二つなわけでしょw もろ、この本を読んで、洗脳を受けちゃった、オウム真理教の信者みたいなコピーっぷりなわけでしょ...。

言語・真理・論理 (1955年) (岩波現代叢書)

言語・真理・論理 (1955年) (岩波現代叢書)