ヘルマン・クリングス「経験とアプリオリ−−−−超越論的哲学と言語遂行論の関係に寄せて」

(掲題の論文は、私がよく引用する『超越論的哲学と分析哲学』の中にある。)
経験論者がカントを批判する文脈については、前回議論したように、それが

  • トンデモ

だから、ということに尽きる。言っていることが、まるで「おとぎ話」のようで、まるで、根拠のない言葉の羅列のように見える。
というのは、経験論はその起源である、フランシス・ベーコンの『ノルム・オルガヌム』が示しているように

のことと基本的には同値だから、だ。一回実験してそうなった。二回目もそうなった。ずっと、そうなった。だったら、それは「正しい」ね。こう言っているだけで、つまり

  • それ以外は「うさんくさい」

と言っているだけなのだ。しかし、当たり前だが、私たちが

  • 日常的

に生活していて、回りの人と話している内容の、ほとんど全ては、そういった自然科学的帰納法

  • まったく関係ないように

行われているように思われるし、私たちは別にそれで「困っていない」。

われわれの論議とは独立の、外在的(形而上学的)な意味における世界について、有意味に考えることができようとできまいと、われわれは以下のことについて思いをめぐらすことができる。対象概念の地位は、この論議の内部ではいかなるものか。われわれは概念をどのように使用するか。対象についてのわれわれの論議が正当な認識をもおたらすという主張を、われわれはどのように理解できるか。
(ディーター・ヘンリッヒ「挑戦者か競争者か----超越論的戦略に関するローティの報告について」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

実際に「会話」が成立しているし、歴史的に成立してきたし、それで私たち人間は行動し生きてきたわけで、だったらそこには、なんらかの

  • 合理性

があるよね、というのが合理論者の主張であって、つまり、むしろ、カントに言わせれば、そちらの「合理性」の方こそ説明されなければならなかったのであって、別に「自然科学的帰納法」による実践そのものである「自然科学」を否定したことなど一度もない。
カントが意図したのは、そういった「自然科学」を、どうやって人間社会の、さまざまな理性的な認識の中に、その

  • 位置付け

を与えるか、だったのであって、単純に経験論者の考えている「蓄積的な知の増大」より、端的に「より広い」、その人間理性すらも含んだ全体を理解しようとした、ということなわけであろう。
しかし、カント自身は別に、自分のようなアプローチが「全て」だと思っていたわけではない。それは、上記のヘンリッヒの論文にもあるように、幾つかの形而上学が平行して共存する事態は、まさに

  • 裁判の比喩

が示しているように十分にありうると思っていた。つまり、それらそれぞれの形而上学が、裁判で言うところの「資格=権利」を満たしているなら、そのどれもが「成立=受容」されうる。
ところが、これにヒステリックに怒り始めたのが、リチャード・ローティだった。なんで「真実」が、幾つもありうるんだ。おかしいじゃないか! いや、「真実」なんて、一つだってありえない。なぜなら、「ある」と言った途端に、それは虚偽であることが示されるから。それが「運命」なんだから、なにかを言うこと自体が意味がないんだ(実践しかないんだ)。
こうしてローティは一切の知を否定するわけだが、彼はクワインから始まった、自然主義でさえ、認めない。完全な、ある種のアナーキズムに、自らの

  • 知的な誠実さ

を見出す。いや、もっと言えば、完全な全ての知の不可能さゆえの、「エリートによる世界の先導」に唯一の救いを見出そうとする。まあ、晩年のハイデッガーのように、なんだかわけの分からない、詩文を

  • この世界中で数えるほどの選ばれし芸術家

が、まさに直感的な皮膚感覚で、「なんか悪い方向に世の中が向かっているような気がする」と思ったら、ヒステリックに叫び、<それ>を人類は未来の方向に道しるべとして

  • 使おう(信じよう)

という、ある種の「宗教的狂信」に自らの未来を賭ける、という構造になっている(まあ、そういったヒステリーは多くの場合、彼ら「上級国民」の財産の危機があるんじゃないか、と思うときなわけで、つまりはプチブルジョア的な大衆への「恐怖」を吐露しているだけなわけだがw)。
しかし、ね。こういった言わゆる、「エリート・パニック」こそ、彼ら経験論者たちが自ら選んだ、ある種の「ストイシズム」がもたらした必然だったわけであろう。別に、合理主義者は、そんなことで悩まなかった。ならば、それはなぜなのか、が問われるべきなのだろう。

言語遂行論はとりわけ普遍文法の理論と発話行為論の諸方法に連携している。言語遂行論の特徴は、まず第一に、従来の意味での言語哲学ではなくて、むしろ発話者の哲学とよぶことができる点である。すくなくとも言語遂行論は主体の問題をとりこむのである。言語遂行論が対象として取り上げるのは、生み出された結果としての言語ではなく、さらに言語や表現の産出構造ということだけでもなくて、言語を生み出し言語を使用している発話者としての発話主体である。だが「主体」という概念を使うことは、従来のその概念から区別されたうえではじめて可能となる。それというのも、言語遂行論はカント及びカント以後の主観性の哲学におけるまさしく「古き」超越論的主観をお払い箱にしてしまおうとしているからである。「主体」は今や一つの構造概念なのである。この場合、構造概念とは以下のことを意味している。すなわち、発話者がいる発話状況を十分な仕方で再構成しようと思うならば、言語の意味論的・構文論的な体系や産出構造のほかに、さらになおこおうした産出過程を発話状況において適用し使用することもまた、研究対象となるということである。「表現における文の適切な使用」は、たんに「言語学的な規則能力」によってのみならず、「コミュニケーション的な規則能力」によっても制約されており、後者の規則能力は前者の規則能力同様に普遍化可能なのである。
それだから、構造概念として解される「主体」概念は、そもそものはじめから間主観性を意味している。というのは、ある発話状況における言語の使用は、能力を具えた発話者のほかに、さらに能力を具えた聞き手、すなわち応答できる聞き手をも前提しているからである。「主体」は理想的言語そのものである。あるいはハーバーマスに従って言えば、発話状況ということになろう。しかもそれは、その発話状況が成立するための一切の制約が与えられている場合のことだから、「理想的発話状況」ということになる。あるいはアーペルがG・H・ミードに従って言っているように、「理想的なコミュニケーション共同体」である。アーペルはこの理想的なコミュニケーション共同体を、はっきりと超越論的主観とよんでいる。この新しい(超主観的な)主観性には、それ自身のアプリオリな制約がある。遂行論的な意味で想定される「理想的な」状況あるいは「理想的な」コミュニケーションというものは、一定の前提なしには思惟不可能である。すなわちなんらかの規則を承認し、その規則の尊守を先取することなしには、思惟不可能である。したがって言語遂行論は、発話行為が成就するための、根本的に普遍化・一般化可能な諸前提について論議する。発話行為がコミュニケーションによる了解に逹して成就するならば、これらの前提は規則として妥当したのであり、すくなくともそれらの妥当要求は承認されたのである。さらにまたこれらの前提が規則として妥当したときには、超越論的主観が構成されていることになる。

ところで、超越論的主観とは、デカルトで言うところの

  • 我思う、ゆえに我在り

であり、つまりは、私たちの「自己意識」というわけだが、これが

  • 在る(=存在する)

と言うとき、結局のところ、これは何を言っているのか、ということになるわけである。
経験論者、つまり、分析哲学者は、これを

  • 言語

のことだと考えた。つまり、「言語論的転回」である。少なくとも、「言葉」は私たちの目の前にある。つまり、「経験」の対象だ。だったら、<これ>については、今までの、経験論者たちが使ってきた、「自然科学的帰納法」のアプローチが使えるよね。と。
しかし、こういったアプローチは、そもそもカントが、ある意味で、すでに示唆していた方向なんじゃないか、と言えなくもない。なぜなら、カントの悟性概念のカテゴリーは、その見た目から自明なように、完全に、一般的な意味での論理学そのものだったからだ。
そう考えると、上記の言語遂行論、つまり、ハーバーマスであり、アーペルが企画した

  • 超越論的語用論

は、このアプローチの発展形として解釈できる。そもそも言語は、

  • ある発話状況における言語の使用は、能力を具えた発話者のほかに、さらに能力を具えた聞き手、すなわち応答できる聞き手をも前提している

わけである。つまり、言語をある個人に「還元」する合理的な理由はない。もともと歴史的に、言語は共同体的にしか存在してこなかった。
上記で何度も何度も、「発話状況」と言われているように、すべての発話は、徹底して「状況」としてしか存在しないのだ! あなたが何かを話す。それを、その「聞き手」は明示的であれ、非明示的であれ、<承認>をする。わたしたちは、それを

  • 主体

と呼んできたのであって、最初から「主体」は他者に媒介されているのだ...。