山口尚「動物機械論へのアンチテーゼ」

先月の、雑誌「現代思想」では、「自由意志」が、特集されている。
そうなると、「なぜ、今、自由意志なのか?」問題が必然的に問われるだろう、と思われるのではないか。その理由として一番に考えられるのは、

  • 島泰三『自由意志の向こう側』

という本が最近、出版されたことが関係していることは明らか、だと思う。
しかし、である。
この特集において、誰もその本について言及していない。むしろ、この特集を通底して、全員の

  • 仮想敵

となっているのが、

だ、と言うことができる。事実、上記の木島さんの本は、明らかに、この戸田山さんの本の影響下にある本と言うことができ、むしろ、それに対して、なにか新しい視点が加えられているのかが疑問視されてもおかしくないほどの、エピゴーネン的な依存関係があることは否めないだろう。
戸田山先生の上記の本は、その徹底した「機械論」にある。つまり、唯物論の立場で、物質から、生物を説明し、動物を説明し、人間を説明する。つまり、基本的に人間は、

  • 機械

なんだ、ということを、まさに「最小構成物」から

  • 構成

していく形で、そもそもの「この世界」までを説明していく、という立場で、それを「哲学」と呼んでいる。ようするに、反哲学=科学万能主義、ということになる。
哲学は不要だ。ただ、科学さえあればいい。だとするなら、おおむね、今まで、「哲学」の領域として扱われてきたものを、

  • 科学の道具

で説明できなければならない。そうすれば、「哲学の不要」が完成して、この世界から、哲学がなくなる。戸田山先生に言わせれば、

  • (哲学という)過去の<間違った>学問

を、過去の異物として「葬り去る」ことは、「新しい学問」としての、科学哲学の「使命」だ、ということになり、これを完成すると共に、その科学哲学も役割を終える、という関係になっている。
なるほど。戸田山先生は野心的なのね、ということで、ふーん、と話半分に聞き流されて終わりとなるところだが、ただ、一点私が気になった個所がある。それが、戸田山先生が「基本的に自分の考えと同じ」として、紹介している、デネットの自由意志論の一部だ。

回避、不可避性、可避性などが意味をなすのは、われわれのような有限の行為者にとってだけである。ヒューリスティックを使い、限られた情報にもとづいて予測をえざるをえない行為者がある出来事を予測したが、それが起こらなかったとき、その出来事は回避されたと言う。有限者が予測した未来に照してはじめて、現に起きた出来事は回避の事例になりうる。「違いをもたらす」「避ける」「斥ける」などの語は、思われたところの世界の成り行きと、実際に判明した成り行きの比較を暗黙のうちに前提している。
戸田山和久『哲学入門』)
哲学入門 (ちくま新書)

つまり、デネットにしても戸田山にしても、基本的に、ラプラスの悪魔、つまり、

で考えている、ということだ。
しかし、これに対しては、言わずもがなの、反論がある。

一つは、量子力学的な非決定性はミクロのレベルの話だといいうことだ。われわれはマクロな存在である。とんでもなく多数の粒子が集まってできているわれわれが行う行為のレベルでは、ミクロレベルの非決定性は相殺されて、計算メカニズムとしてのわれわれには、おおむね決定論的な法則が当てはまると考えることもできる。少なくとも、ミクロな量子のサイコロを振るのが自由意志の正体だとしても、その量子的サイコロの非決定性を増幅する何らかの仕組みがそなわっていないと、量子力学的な非決定性をそのまま私たちの行為の非決定性に直結させることはできない。
だいいち、量子的な揺らぎが行為のレベルにまで増幅されて残るような生きものは、外的環境の変化に首尾一貫した信頼性の高い対応をすることが難しいだろう。そういう生きものは進化の過程で淘汰されてしまうのではないかな。というわけで、量子力学ニュートン力学にもとづく物理学的決定論は論駁するかもしれないが、メカニズム決定論を論駁するかどうかはわからない。
第二の理由は、こっちの方がいま論じようとしている論点にとって重要だと思うけど、次の状態が一つに決まっていない、あるいはそれゆえに他の仕方で行為することもありえたということは自由意志の一つの側面にすぎない、というものだ。私たちは脳の中に量子サイコロをもっていて、それを振りながら行為をしているとしよう。その意味で、私たちの行為はたしかにあらかじめ決まっているわけではないとしよう。量子サイコロの目の出方次第で、私は他のように行為することもありえた。
しかし、だとすると、私が何をするかは偶然に任されていたことになる。単なる偶然によって生じた行為は、自由な行為と言えるだろうか。さらには、単なる偶然によって生じた行為にどうして責任をとらねばならないのだろうか。コンビニ強盗の犯人が「オレのせいじゃない。オレの脳内の量子サイコロのせいだ」と抗弁したらどうしよう。というわけで、量子力学的非決定性は、自由意志にリアリティを与える助けには(少なくともそれだけでは)ならないと思う。
戸田山和久『哲学入門』)
哲学入門 (ちくま新書)

上記の引用で、まず、前半は「決定論」の否定論の証拠としての、量子力学の非決定性を、その

  • マクロの領域

への非干渉性の「仮定」によって否定しようとしている。しかし、この議論はあまりにもナイーヴだw そもそもの話、さまざまな自然現象が、さまざまな方程式で記述されることが分かっているが、その多くは

  • 非決定的

であるわけで(もちろん 三体問題もその一つだ)、決定されないこと(ある程度のランダム性があること)と、その法則性が方程式として記述されることは矛盾しない。
量子力学の非決定性が、なぜマクロの現象と関係しないと考えるのかは、むしろ、そうまでして「(ラプラスの悪魔という)決定論」が、こういった

  • 文系学者

にとって、どうしても手放せない魅力があるから、としか思えないところがある。
逆に、素直に「ランダム」こそが、

  • 自由の本質

だと、考えてみること(コペルニクス的転回)は、そこまで不自然なのだろうか?

自分が人生の岐路に立って悩んだ時に、両親、先輩、友人、占い師、あみだくじ、サイコロ、コインなど、方法は様々であろうと、他力本願に頼ることは少なくない。特に、占い師以降の選択肢は、基本的には論理性はなく、自由意志を欠いたランダムなものである。したがって、悩んだときはサイコロを振ると決めておけば、自分の判断は、外界にあって原理的には決定論であるが事実上確率的な過程に帰着する。その結果で決まった判断を自由意志と呼ぶかどうかは定義の問題であろうが、重要な判断はサイコロで決める、とのルールを自分に課した時点で自由意志と呼んで差し支えないと考える。それどころか、我々が日常的に行っている決断は、つまるところこのような過程に帰着できるのではあるまいか。
(須藤靖「この私に自由意志があると信じる(信じたい)理由」)
現代思想 2021年8月号 特集=自由意志 ―脳と心をめぐるアポリア―

そもそも、「リバタリアン的自由」とは、複数の選択可能な選択肢から、どれかを選ぶ、という定義である。その場合、もともと「自明」に当たり前の場合は、ほとんど無自覚で選んでいるのだから、それを必然的な結果であることと区別がつかない。では、問題はなにかというと、

  • どっちとも決められない、甲乙をつけられない

場合だ、ということになる。しかし、当たり前だが、そういった場合でも、私たちは、どちらかを選んで生きている。しかし、その定義が「どっちとも決められない」というところにあるのだから、ここでの選択を

  • ランダム

と区別することにどこまでの意味があるのかは、はなはだ疑問だ。なぜそう言えるのかというと、ここでの「決定」は、

  • 内省される

というところに本質があるからだ。つまり、その「決定」の後に、

  • やっぱり止めた方がいいんじゃないのか?

という疑問が、何度も何度も、心の中に浮びながら、でもやっぱり変えなかった、というのがその行為として選ばれたものとされるのだから、それは十分「すぎる」までに

  • 考察

した結果であるという意味で、後悔とならないわけである。本質は、選んだことではなく、選んだ後に、

  • やっぱり変えよう、とまでの<理由>がなかった

というところにある。
こういった立場は、私には、カントの自由論とも整合的に思われる。カントにおいて、自由意志は「叡智界」の側の決定であり、つまりは、

  • 自己原因

として、自然界における、因果の外にあるとされるわけだが、そもそも、「非決定論=ランダム」なのだから、その根拠が、「決定論自然法則」の側にない、という

  • からくり

になっている、というのは、物事の「外側」から考えたときには、自然な整理ということになるだろう。
ここで、掲題の論文に戻りたいのだが、この論文では、

が本質的に批判されている。それは、上記まで議論をしてきた「自由意志」にとどまる話ではない。そういった一切の根底にある、

  • 動物機械論

についての戸田山の議論が、あまりにナイーヴである、というところこそが問われるべき本質だ、ということになり、つまり、むしろ、ここにおけるナイーヴさにおける態度が、そういった自由意志を含んだ、さまざまな、戸田山による

の幼稚な結果をもたらしている、という整理になる。

戸田山の議論の問題点を掴むには彼の分析に現れる<先祖>という概念に注目するのが近道である。じつに「Sの先祖」と言うからには、それが指すものは<生物>の一種であろうし、それゆえ何かしらの<器官>をもつにちがいなく、その器官には<機能>が伴うはずだ。。かくして次のように言える。問題の分析は《先祖たる生物が何かしらの機能をもつ器官を働かせて活動していた》という状況を前提している、と。そしてこの状況には物質の運動や変化とは区別された生物の行動が含まれている。けっきょく戸田山が問題のやり方で<機能>を語ることができるのは、すでに<機能>の存在が認められた文脈----これは<生物>や<器官>の存在が認められた文脈でもなる----の内に身を置いているからである。それゆえ、たしかに上述の<機能>の分析は有意味な含蓄を有するが、それは決して<機能>を物質の運動や変化だけから導出するものではない。それは、言ってみれば、元来の意図に反して<先祖>という生物のレベルの概念を「密輸入」するものだ。

まあ、なんというか当たり前のことが説明されているわけだけど、これを「カント的」と言うのかは分からないけどね。
戸田山は、哲学を唯物論=科学に還元する、と言うとき、そもそもその、あんたが、生物として動物として人間として産まれてきて、今こうして、ここにいて考えている、という観点が恣意的に捨てられている。つまり、こうやって考えているあんたは、まずもって、

  • 生物=動物=人間

なんだから、その「自明性」からしか考えられない。どんなに自らにそれを禁じても、必ずそれは、

  • 生物=動物=人間

の「アナロジー」としてしか考察されないのであって、そもそも私たちがそういう「存在」であることが忘れられる。ここには、根源的なミスリードがあり、それが反復されている、という印象を避けられないわけだ...。