ラブライブスーパースター第8話

今回のテレビアニメ「ラブライブ」の新シリーズ、ラブライブスーパースターは、実は、正直なところ、この作品で

  • 何が描かれるのか?

が、よく分からなかった、というのが正直なところだったのではないか。
それは、ファーストがあり、サンシャインがあり、変化球としての虹ヶ咲があって、そこにさらに今回のスーパースターを作るというのは、一体、何を目的にしているんだろう、という疑問があった。つまり、今までの作品で、十分に描かれなければならないことは描かれていたんじゃないのか、といった気持ちがあった。そういう意味での、虹ヶ咲の新境地を狙ったような方針転換を思わせるような作品の登場だったんじゃないのか、という気持ちがあった。
そういった意味で、ネットを中心とした「考察」は、勢い、その謎を巡って展開されてきたんじゃないか、といった印象を受ける。
作品の前半で、すでにこの作品は大きな「考察厨」をどうしても考察させずには済まないフラグが二つ登場した。その一つが、

  • 学生服

であり、もう一つが、

  • 二つの鍵

であった。一つ目は言うまでもなく、第一話から違和感があった。つまり、普通科と音楽科の制服の違いであり、嵐千砂都(あらしちさと)と葉月恋(はづきれん)は音楽科なわけで、そうでありながら、なぜか、作品の公式ポスターでは、二人も、普通科と思われる制服を着ている。
これはなんなんだ? もっと言えば、どういう「いきさつ」を経て二人が「普通科の制服を着るようになる」という「いきさつ」を辿るようになるのか、の

  • 推理

が、さかんに行われた。
そして、もう一つが、部室の鍵として、恋ちゃんから澁谷かのんが渡されたものには、リングに通して、二つの鍵がくっついてあった、ということなわけで、どう考えても

  • 何か意味があるんだろう

ということを思わせる「フラグ」だっただけに、この考察も、さかんに行われた。
そして、この多くの人が行っていた考察は、かなり本質をついたものだった。というのは、この作品は、さまざまなところで

  • ファーストのオマージュ

を思わせる嗜好がこらしてあるわけである。その一つが、部室の構成であったわけで、明らかに、この部室は、ファーストの時の部室の作りに似すぎている。その一つが、

  • 隣の部屋

の問題だった。多くの人が指摘していたように、あまりにもこの部室がファーストに似ていたために、

  • おそらく、ファーストの時の部室と同じように、「隣の部屋」がある

ということが言われていた。そして、実際のその二つ目の鍵は、その物置になっていた部屋の中にあった、箱を開ける鍵だったわけだが。
おそらく、今回の第8話は、確かに感動的な話ではあったけど、だからといって、このラブライブシリーズを革新するほどの回だったのかと言われると疑問に思う人が多いのではないか。
しかし、やはり今回の作品は描かれなければならなかった回だ、と言わざるをえないと思うわけである。
つまり、問題は、葉月恋の母親である、葉月花(はずきはな)が何者なのか、に関係してくる。彼女は、30年前の結ヶ丘女子高等学校の前身である、音楽学校の卒業生であり、まだ、ラブライブが始まる前から、学校アイドル部を作り、廃校阻止のためにアイドル活動をしていた人である。しかし、その活動も実らず、その音楽学校は廃校となる。しかし、葉月花は、

  • あきらめなかった

と言っていいだろう。その旧校舎の跡地を利用して、今の結ヶ丘女子高等学校を作った。しかし、2年前に他界している。
これは、結局、何を言っているのか? 大事なポイントは、ファーストの高坂穂乃果(こうさかほのか)や、サンシャインの高海千歌(たかみちか)の

  • 未来の姿

が描かれた、と言ってもいいわけですね。彼女たちが、その後も生きて何をやったのか? つまり、あの後、何をやることが、その意味において正しく描かれることなのかを示した、と言っていいと思う。
ファーストの穂乃果は、すでにラブライブがあった時代を描いている。つまり、葉月花はそれより、はるかに昔の、スクールアイドルの

  • 創成期(黎明期)

が描かれた、と言うことができるだろう。しかし、そういった間接的な形をとることによって、

  • 穂乃果や千歌のアフターストーリー

が描かれた、と言えなくはない。つまり、

  • 何が描かれなければならなかったのか?

がここに示されているわけである。
私はこの作品が描かれたことには、大きな影響を与えたのが、サンシャインであり虹ヶ咲だったんだと思うわけだ。というのは、やはり、ファーストのスタッフには、サンシャインや虹ヶ咲は、別の平行世界としては、その可能性を認めないわけではないけれど、やはり、ファーストのメッセージとしては、単純には受け入れられなかった側面があったんだ、と思うんですね。
例えば、虹ヶ咲の天王寺璃奈(てんのうじりな)の問題がある。彼女は、人前でうまく話せない(表情を作れない)。でも、どうしてもアイドルをやりたい。その悩みを同窓会のメンバーに打ち明けるわけだけど、さまざまなアドバイスを受ける中で、璃奈ちゃんボードのアイデアを思い付く。
この場面は、とても感動的な場面として描かれるわけだけど、やはり見ている人に与えるものとしては、少し違和感がないわけではない。というのは、この虹ヶ咲の世界では、そもそも

  • ソロアイドル

というのが、最初から、デフォルトのものとして扱われている、ということなのだ。もちろん、そのこと自体に良いも悪いもないだろう。ただ、そうは言っても、

  • ファーストやサンシャインはそうじゃなかった

ということは間違いないわけで、ということは、やはりこの二つは「描きたいものが違う」ということは、どうしようもなく言えるんじゃないだろうか。
そして、そういった意味でも、今回のスーパースターは、そのアンサーソングになっている。主人公の澁谷かのんは、昔から人前に緊張して歌えない、という欠点を克服できないでいた。そのため、音楽科の受験にも失敗して「やさぐれ」てさえいた。じゃあ、なんで人前で歌えるようになったのかというと、唐可可(タンクゥクゥ)と一緒に舞台に立ったからであって、つまり、

  • 二人一緒なら歌える

ということだった。
結局さ。虹ヶ咲は、独立した自由な存在が自らの能力を発揮することを「愛(め)でる」作品であるのに対して、ファースト、サンシャイン、スーパースターに一貫しているのは、

  • 一人では何もできない存在が、みんなで支え合うことで、勇気をもらい、一歩ずつ前に進める

という話なんですね。つまり、この一線を大事にした、ということなんだと思う。人間は弱い、だけど、...。それを描きたいと思っている作品なんですね。そう考えると、ファーストの穂乃果も澁谷かのんも、典型的な

  • 巻き込まれ系

のキャラなんだよねw 自分では、いつまでも自分で決められなくて、優柔不断に生きているんだけれど、回りから、「賢者」として頼られて、いきがかり上、それを断れなくなっていく中で、義憤に感じたことに、直情に突っ走ってしまう。そういった、彼女たちの優しさの物語なんだよね...。

追記:
なんで高校の廃校なのか、というのは多くの人が考えると思う。しかし、私にはとても典型的で分かりやすく思うわけで、つまり、高校というのは、

  • ほとんどの同世代の人が通っていて「同じ」経験をしている
  • こういった経験のものとしては、おそらく「高校」が最後で、これが最も年齢が上になって経験するもので最後のものだ

という二つの点において、重要だと考えている。
つまり、ここには「公共性」の問題が描かれているんですね。学校が存続してほしいと思うことは、

  • みんなが今受けている学校生活を続けて受けられることで、人生において重要な体験を得ることができる

という主張なんですね。それを奪うことはやってはいけない。なんとかして、それをみんなに残したい。そういった運動なんですね。
つまり、さ。これは、高校で終わらないわけ。それから生きていって、さまざまな重要な、同じような「公共性」に関係した問題に私たちは直面していくわけだけど、この

  • 最初

で「あきらめ」たら、そういったダメな大人になったら、それ以降もずっとダメな大人のままだよね。だから、重要なの。最初だから、このファーストインパクトに、どう向き合うかが大事だから、何度も何度も反復して、この問題が描かれるんだよね...。