映画「MINAMATA」

ジョニー・デップ主演のこの映画は、私たち日本人にはよく知られている「水俣病」。熊本の水俣病を巡って、世界的によく知られることになった、あるアメリカ人の写真家であり、彼が撮影した、ある、白黒の写真を巡る物語として描かれている。
なぜ、その写真はとられることになったのか? その物語を説明するものとして、ある意味で分かりやすい説明となっているこの映画は、そのことを通して、今でも世界中で問題となっている

  • 公害問題

の本質を示すものとなっている。
その写真家のユージン・スミスは、この映画では

  • 弱い

男性として描かれている。昔の従軍カメラマンの頃の、トラウマを抱えて、日々を悪夢に悩まされ、酒に溺れ、酒がなければ生きていけない、なんとかして子供たちに、まとまったお金を残そうと、汚い仕事に手を染めることさえ、やぶさかでないと考えている。そんな彼が、たまたま、熊本の水俣病を知ることになって、現地へ行くことになる。
私は、この映画を見ながら、映画「沈黙」を思い出した。遠藤周作の原作であるこの映画では、江戸時代に、多くの宣教師が、日本に向かって、宣教のために、船で旅をしてきた。しかし、その人生は悲惨である。日本での生活は、迫害の連続であり、ほとんど軟禁状態で余生を過すことになった人たちの姿が描かれる。
しかし、この二つに共通するのは、そういった人たちが、別に「すばらしい」人間だからそうした、ということではない、ということだ。つまり、彼らは弱い。実際にチッソの社長に買収されそうにもなるわけだが、結果として、チッソと戦う住民側を支持する、というに過ぎない。
つまり、彼らの「孤独」は、なんなんだろう、と思うわけである。そこまでして、彼らをこの地まで来させたものはなんなのだろう? つまり、歴史を動かすのは、

  • 友達の多い

人ではない。

  • 強い

人ではない。孤独で、弱い人間が、なんらかの「いきがかり」上、どうしても避けられなくなって、「まきこまれ」て行うものなのであって、全然

  • 知識社会

じゃないのだw むしろ、そういった「友達の多い」「強い」奴ほど、権力者に面従して、人々の抵抗を邪魔する。
あと、この映画は明らかに「新型コロナ」を意識しているように思われる。つまり、患者はもっと、国家に怒りをぶつけるべきだ、ということなのだ。明らかに、チッソという会社であり、国家が、熊本の地元の人たちを病気にしたのであって、隠したのであって、その事実を前にして逃げてはならない。
実際、この映画には地元の人で、チッソと戦わなかった人たちが描かれている。それは、自分たちがチッソから仕事をもらって生きているからであって、だから、何も言えなかったわけで、こういった共犯関係は、原発における地元住民との関係に似ている。
例えば、今行われている自民党の総裁選選挙で河野太郎は、原発リサイクルの廃止を語っている。ところが、他の候補は、それに賛成しない。あまつさえ、野党も、この問題に言及しない(してうのは、日本共産党くらい)。なぜなら、連合が、電力会社に支配されているから、彼らも言えないのだ。
原子力リサイクル事業は、これが「成功する」という夢物語によって、原発から排出される

  • ゴミ

  • 資産(=宝の山)

とすることによって、今の電力会社の財務状況が成立している。つまり、原子力リサイクル事業が「失敗」するやいなか、その資産は、一瞬にして、ただのゴミに

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わけで、電力会社はその時点で倒産することになる。
しかし、である。
誰がどう考えても、ただの「ゴミ」を、「宝の山」と言ったって、ゴミはゴミなのだ。この事実を受け入れない限り、日本が再出発することはできない。そういった

  • ニセモノ

を信じて生きている限り、絶対に日本の未来は切り開かれないのだ...。