高橋陽一『くわしすぎる教育勅語』

教育勅語は、戦後、廃止された。つまり、戦前の大日本帝国においては、公式の文書であった。しかし、戦後、廃止された。
問題は、そこに何が書かれていたのか、であろう。つまり、廃止されたのなら、なにかが問題だったから廃止されたわけであろう。また、その問題は、戦前の人々を縛っていて、なんらかの問題が戦前の人々を苦しめていたわけであろう。
ところが、戦後、廃止されたため、誰もこれを読まなくなった。だから、何が問題だったのかも、それを一緒に

  • 忘れられた

という事情がある。
とはいっても、ネットで調べれば、さまざまに「現代語訳」されたものが見つかるわけで、それらを適当に読めば、その内容を理解するのに十分じゃないか、と思うかもしれない。いずれにしろ、ここでは、掲題の本に載っている「現代語訳」を確認しておきたい。

天皇である私が思うのは、私の祖先である神々や歴代天皇が、この国を始めたのは広く遠いことであり、道徳を樹立したのは深く厚いことである。

まず、ここで天皇が自分で語っている、という「自分語り」の形式になっていることに注意がいる。つまり、教育勅語は戦前の文書の中でも特殊なものとして扱われる所以でもある。ある意味、非公式な文書でありながら、

  • より、明治天皇が、直接に思っていることを語っている

というスタイルをとっていることによって、「明治天皇の意志」が、他の公式文書と比べて、より直接的に、本音が書かれている、として重要視されたわけである。
まず、「歴代の天皇」が、この国を作って、この国を治めてきたわけだけど、当然そうであるということは、その政治は「徳」によって行われた。つまり、この統治は、

  • 歴代の天皇が国民に義務として守ることを命令した「道徳」

によって行われてきたのだ、ということを宣言する。

我が臣民は、よく忠であり、よく孝であり、皆が心を一つにして、代々その美風をつくりあげてきたことは、これは我が国体の華々しいところであり、教育の根源もまた実にここにあるのだ。

国民は、過去から現代に至るまで、忠であり孝だった。それを国民全員が一つの心になって行ってきた。それが国体であるし、教育とは、それを行うことのことなのだ、と。

汝ら臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友人は互いに信じあい、恭しく己を保ち、博愛をみんなに施し、学問を修め実業を習い、そうして知能を発達させ道徳性を完成させ、更に進んでは公共の利益を広めて世の中の事業を興し、常に国の憲法を尊重して国の法律に従い、ひとたび非常事態のときは大義に勇気をふるって国家につくし、そうして天と地とともに無限に続く皇室の運命を翼賛すべきである。

上記で最初に書いたように、明治天皇は、歴代の天皇が、この国を作ったと言ったわけだが、そのことは同時に、

  • この国の道徳を作った

と言っているわけである。それが、上記の引用で並べられている、徳目である。この特徴は、前半が儒教のものであり、後半は西洋哲学のものになっていることである。
つまり、明治天皇は、これらは、「歴代の天皇」が作った、この国の「道徳」である、と言っている。
しかし、それ以上に重要なことは、この最後に書かれていることで、そういった東洋と西洋の、さまざまな徳目があった上で、

  • それらは全て、つまるところは、以下の一文に包含される「目的」によって還元される

と言っていることである。その内容が、

  • 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

となる。つまり、上記のようなさまざまな徳目があるけど、それら全ては、この「目的」によって互換される(上位互換となる)、と。
ようするに、私たち国民がなぜ生まれてきたのか? その目的は「天皇のために自らの人生の全てを投げうって、天皇に捧げるため」なんだよ、と。だから、自分のわがままをやっちゃいけないの。そんな余裕があるなら、それらを全て、天皇のために、なにか役に立てることはできないか、と毎日毎日、それだけを考えて生きなきゃだめだ、と言っているの。
(よく、「ひとたび非常事態のときは」という部分をとって、明治時代を比較的に民主主義が成立して、自由な社会だった、と言う人がいる。つまり、「非常事態」でないならば、みんな、自由に生きていいんだよ、と解釈されたわけだ。しかし、よく考えてみると、この解釈は間違っている。当たり前だが、「非常事態」が起きる場合に供えて、日頃から、全精力を、ひたすら天皇のために捧げなければ、どうやって「非常事態」のときに、役に立つことができるだろうか。)
ところで、上記で「天壌無窮」という言葉が使われている。しかし、この言葉は、当時の文脈では、日本書紀の「天壌無窮の神勅」のことを意味している、と理解された。つまり、ここで「天壌無窮」という言葉が使われたのは、日本書紀に記されている、太古の日本こそが、私たちの道徳の「源(みなもと)」であることが示されている。
ちなみに、日本書紀の「天壌無窮の神勅」とは以下である。

葦原の実り豊かな瑞穂の国は、吾が子孫が王となるべき地である。あなた、皇孫が、行って統治しなさい。行ってらっしゃい。皇孫の隆盛は、まさに天や地のように窮まりがないでしょう。

つまり、天照大神が、皇室の祖先である天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に下した「神勅」だ、となっている。ただ、日本書紀は多くの「諸説」が載っているわけで、これ以外にも多くの「神勅」がある。
また、以下のトゲッターの記事を見ると、次のような記述がある。

「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」(隋書・煬帝紀)
清水高志「皇運って何やねん、明治の造語やろ」読者「いえいえそうではありません」 - Togetter

まあ、こうやって見ると丸パクリなんだけど、まず「皇運」の「皇」という字は当たり前だけど、日本の天皇の固有名詞じゃないわけね。逆で、日本の天皇が、漢籍からパクったわけ。というか、日本語の「全て」が、漢籍からのパクりなの。
「皇」。つまり、「天子」のこと。しかしこうやって、教育勅語に使われれば、誰だって、「天皇」のことを言っているんだな、と受けとらない人なんているわけないわけね。

こうしたことは、ただ天皇である私の忠実で順良な臣民であるだけではなく、またそうして汝らの祖先の遺した美風を顕彰することにもなるであろう。

ここで、一人一人の国民の「祖先たち」へと話が移る。一人一人の国民はようするに、

と、ここで、それが「道徳」なんだ、と言われる。しかしそれは、「なんで私は生まれてきたのか」という疑いを呼ぶだろう。しかし、「大丈夫なんだ」と。「安心しろ」と言っているわけである。なぜなら、お前たちの祖先は、そもそも

  • そのため

に生まれてきて、そのために祖先を生み、今、お前がここにいるんだから、と。つまり、祖先の全員は、お前が天皇のために死んでくれることだけを願っているんだ、と。お前が天皇のために死ねば、お前の祖先の全員が、「良かった」と安心して、喜んでくれるんだ、と。だから、なんの心おきなく、目の前の死を喜べ、と。

ここに示した道徳は、実に私の祖先である神々や歴代天皇の遺した教訓であり、天皇の子孫も臣民もともに守り従うべきところであり、これを現代と過去を通して誤謬はなく、これを国の内外に適用しても間違いはない。

つまり、これは、こと「日本」に留まらないんだ、と。全世界中が、こうならなければならない。

  • 世界中の人々が、天皇のために死ななければならない

と言って、教育勅語は終わっている。
つまり、さ。これは、たんに日本人だけが心の中にもっていればいいものじゃない、と言っているわけである。全世界の人が、こうならなければならない、と言っている。ということは、どういうことか? 日本人は、全員、これを世界中の人々に広めて、世界中の人々に日本人になってもらわなけれならない、と言っている。そのように、世界中を「変えろ」と、日本人は天皇に命令をされているわけだ。つまり、

  • 世界征服

である。日本人は、世界征服をしなければならない。それは、教育勅語が、日本人に「命令」している義務なわけである。私たち日本人は、この世界全てを征服するまで、絶対にあきらめてはならない。なぜなら、それが天皇の命令であり、天皇のために命を投げうって、天皇の命令に従う

  • ため

に、私たち日本人は生まれてきたのだから、と...。

くわしすぎる教育勅語

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