本田由紀『教育は何を評価してきたのか』

アニメ「ラブライブスーパースター」は、無印と比べると、一つ決定的に違っているところがある。それは、主人公の渋谷かのんが、第一話で「人前で歌えない」という悩みを抱えて登場することだ。こういった

  • なんらかの瑕疵

を作品の主要人物が抱えて現れるというのは、無印ではなかった。
また、同様に、第10話では、スミレちゃんが「センター」、つまり、主役級の役割になれない問題が描かれる。スミレは小さい頃から、子役として、芸能界で活躍をしていたが、いつも「主役級」の役割を与えられることはなかった。そんな彼女が、今回のラブライブの一回戦で、主役級の役割を与えられようとしたとき(つまり、センター)、彼女はどうしてもそれを受け入れられない。事実、クラスのみんなからは、彼女はふさわしくない、と言われる。そして、学校のみんながそれを求めているのだから、学校の代表であるスクールアイドルはそれに従わなければならない、と主張する。
この二つの例を考えてみると、著しい特徴は、二人にはなんらかの

な瑕疵がある存在として描かれていることである。つまり、「性格」である。なぜ二人はそうなのか? それは、過去から続くいきさつがある。かのんは、何度も人前で失敗してきた経験があり、スミレは実際に主役級を与えられなかった、という事実がある。
しかし、他方において、そういったことは、本質的なのか、という疑いがある。
事実、作品内では、二人はそれぞれのトラウマを抜け出し、人前で歌えるようになるし、センターで立派に演じることになる。
つまり、二人が「絶対にできない」と思っていたことは、嘘だった。やれた。ただし、「ある条件」を満たしたからできた、と言うこともできるわけである。
つまり、どういうことか?
この問題は、二人が自らを「単純化」していたことにあった。つまり、二人は「自分の性格」を運命論的に受け入れていたが、それはそんなに単純ではなかった、ということである。
ではなぜ、二人は自らを「単純化」していたのだろうか? それは、「他者の視線」にある。他者が、その人の「キャラ」を期待し、実際にそうであると「安心」する、という関係の中で、拡大再生産される。つまり、二人は極端に自らを一つのイメージで染め過ぎていた。
こういった問題は、概ね、「文系」という学問で常に起きている事象のように思われる。
形容詞というのがある。しかし、数学においては、形容詞とはたんに

  • 順序集合

である。つまり、ものの大小だけが決まっていて、その形容詞そのものの意味は「無定義」である。では、実際の日常会話で、その意味はどのように扱われているかというと、単純にその場その場で、会話の相手が「同意」したかどうかでしか表せない。
「あなたは、これこれこういった性格だよね」と言ったとき、その「性格」なるものは実際に

  • その人の中にある

だろうか? これに「ある」と答えるのが「実在論」である。もちろん誰も「なにもない」なんて思っていない。問題は「それ」が「それ」なのか、が疑われているわけである。そんな単純なのか? そんな単純なモデルが、その人の中のどこにあるのか? そう問うてくると、こういった「文系」的なアプローチには、うさんくささが増してくる。
しかし、である。私たちの実際の日常会話を考えてみよう。ある人は、ある「キャラ」がある。そして、実際にその人とつきあう人は、そういった「キャラ」を毎日、確認することになる。なぜなら、そうでなければ「キャラ」ではないから。しかし、その「キャラ」は、むしろ、その人と付き合う側の人たちの方が、その人にそう振る舞うことを「求めている」という構造になっていないだろうか? 求められているから、「めんどうくさく」て、その人はそれを演じている、ということはないか? いや、多くの場合、自分がそう演じていることにさえ、無自覚かもしれない。それだけ、日常を円滑にすることには実益があるわけである。
ある人の中に、ある「単純なモデルがある」と言うことは、危険である。実際に考えてみればいい。なんで、そんなものが、その人の中にあると考えられるのか? はっきり言おう。「もっと複雑なのではないか?」。それは、先ほどのラブライブの例がよく示しているように、「ある条件」で変わるからだ。

IQであれ「学力」であれ、何らかの「テスト」を使用して「能力」を計測する手法は、常にその「テスト」の内容や形式にバイアスがかかっていることや、練習等によって点数が上がることから、"真の"「能力」を測定しているのではないという疑念にさらされてきた。そもそも人々の中に「能力」なるものが存在しているのかどうかも不明である。すでに触れたように、「能力」とは、「それがあることにされている」「それがあるように考えられている」もの、つまり仮構的(フィクショナル)で抽象的な言葉にすぎないのである。

私はそういう意味で、文系という学問を疑っている。そもそも、「国語」という学問を「本気」でやってはいけないんじゃないか、本気でやることは非倫理的なんじゃないか、と思っている。なぜ「いじめ」が深刻なのかは、いじめられっ子が、いじめっ子の言うことを、「素直」に聞いてしまっているからだ、と考えている。まず、いじめられっ子は、

  • いじめっ子の言う「日本語」を聞いてはないけない

ということから始めなければならない。まず、他人の言うことを聞かない、という態度から始めなければならない。猫や犬が人間の言葉を理解しないように、私たちも人間の言葉を聞かないように、理解しないように一日を過そうとしてみるべきだ。すると気付くはずである。圧倒的な

  • 開放感

に。人間の言葉が理解できないとは、なんという開放感なんだ、と。
もしも、いじめっ子が話しかける全てを、いじめられっ子が無視したら、どうなるだろうか? 徹底して、なんの反応もしなかったら、どうなるだろうか? おそらく、いじめっ子は「つまらなく」て、いずれは家に帰るだろう。しかし、このことを逆から考えてみよう。いじめっ子とは、「非人道的」な態度をとっている人のことである。なんで、こんな奴に、私たちは「応答」してやる必要があるのか? こんな、人間以下の存在に対して、まともな応答を返すなんて、もったいない話なわけだ。そういった意味で、私たちは、誰の話を聞き、誰の話を聞かないのかに、徹底して注意して生きることが必要なのだ。
ところで最近、マイケル・サンデルの『実力も運のうち』という新刊が話題になっている。私も以前、このブログでとりあげたわけだが、ただ正直に言うと、私はこの本以上に、この本の最後に解説を書かれている、掲題の著者である、本田先生の

  • この本の「翻訳」が間違っている

という指摘の方が、びっくりした。つまり、この本は「メリトクラシー」を「能力主義」と訳しているが、誤訳だ、と。もしも、比較的にましな翻訳をするならそれは、「実績主義」だ、と(メリットのことですからね)。
つまり、本田先生の議論によれば、マイケル・サンデルの批判するメリトクラシーは、本場のアメリカ以上に、日本の

  • 抽象化

において、より「深刻」なんだ、と言っている、というように受けとれるわけである。
そうやって考えてみると、前回とりあげた教育勅語においても

  • 以テ智能ヲ啓発シ

とあるように、日本の教育はこの「能力」という言葉にとらわれてきた、ということを考えさせられる(戦後憲法の「能力におうじて」も同様である)。
多くの子どもは、学校で英語を習う。しかし、そこである奇妙な感覚にとらわれることがある。つまり、

  • なんか、ある英語の単語の意味が、やたらに「ぴったり」している

という感覚に。これはどういうことかというと、そもそも

  • 多くの日本語(合成語)は、英語の翻訳「のため」に作られた

というわけなのである。ある英単語があって、その意味なる、日本語があるわけだけど、なんでその日本語がその意味なのかというと、

  • そもそも、その日本語(合成語)が、その英語「である」ことを示すために造語された

から、ということになる。つまり、そもそもが

なのだ、という気持ち悪さがあるわけである。

こうした分類への志向は、上原秀一(二〇〇〇)や樋口太郎(二〇一〇)が指摘するように、日本における「能力」という言葉の用法が、当初は英語の faculty の訳語として導入されたことによると考えられる。faculty としての「能力」とは、何らかの具体的な事柄を行いうること、実際にそれが行われていることを意味している。なお上原によれば、一九二〇年代以降、「能力」は faculty ではなく ability の訳語とされるようになり、それは知能検査と統計手法の発達により「能力」が操作的に定義されるようになったことを反映していた。

最も初期(一八九九年以前)の「態度」は、「ゲステユル」(gesture)や「ミブリ」というルビがふられている場合もあることが示唆するように、身体とその所作を意味していた。この時期には「態度」に「心」の意味合いはなく、もっぱら「身」のあり方を意味する言葉であった。

「能力」という言葉も、「態度」という言葉も、そもそも幕末から明治にかけて作られたとき、それは

  • より具体的な何か「に対して」説明されるもの

として始めは使われていることに注意がいる。ところがそれらは、時間がたつごとに、

  • より抽象的に、より一般的に

広く、また、心の内面にある、ある「実在」といった形で、より「心理学化」していくわけである。

NDC分類で見ると最多は一六二二件の「社会科学」分野であり、その下位分類の中では「法律」が七五三件と多数を占める。法律分野で「能力」という言葉が使われる場合、「当事者能力」「権利能力」など、法律上の資格を意味する専門用語として解説されている例がほぼすべてであり、時期による変化も見られない。

そもそも、「能力」とは、上記で「当事者能力」「権利能力」とあるように、法律のアナロジーなのだ。ある人が、ある行為を行ってもいい「資格」があるかどうかのことを、法律において決定するときに使われてきた言葉であることからも分かるように、問われているのは

  • ある具体的な行為に対する(法律による)許可を与えるかどうか

といったことなわけで、単純に「あるグループに所属しているかどうかを見分ける識別子」以上の意味はないわけである。
つまり、そういった用例を逸脱した時点で、「なにかがおかしい=なにかが間違っている」ということに気付かないところに、人間の欠陥があるのだろう...。