現代倫理学が、カントの義務論と、ベンサムの功利主義に分かれる、と言うけど、実際の分析哲学系において、そもそも、倫理学と功利主義を区別していないんだよね。つまり、カントの義務論は実際には相手にされていない。
しかし、そういった場合に、例えば、トロッコ問題のようなものがありますよね。つまり、こういったものは「未解決問題」のように処理されて、だけど、基本的には、功利主義でいいんだ、というった論理の組立になっている。
こういった立て付けになぜなっているのかと考えてみると、例えば、文系を圧倒的に支配しているのが、フロイトの精神分析ですよね。つまり、心理学という分野が確立されて、基本的に、このアイデアで、世界を整理していこう、といった学問の方向がある、ということなんだと思うわけだ。
つまり、人間を構成している、最初の要素は
- 欲望
だ、という説明ですね。これは、確かに心理学的なんだけれど、多分に、唯物論的でもある。つまり、やっぱり、実体として、欲望はあるんだ、と。例えば、食欲とか、性欲とか、ですね。
もしもそういったものが「ある」なら、その「実在論」から、世界を説明していかなければならない、となる。なぜなら、実際にあるのだから、避けては通れない、ということになるのですから。
しかし、もしもそれを認めると、さまざまに難しいことになる、とは言えるわけです。
例えば、「萌え」を考えてみましょう。なぜ、この言葉が、急激に衰退したのかは、例えば
- オタク
という言葉が、近年では、むしろ、
- イキりオタク
という表現に変わっていることから分かるように、基本的にネガティブな言葉として整理されてきているわけですね。これと同じで、「萌え」は、どこか、センシティブな臭いがするわけです。なにか、性的な衝動を記述するものとして、より直接的に、オナニーで「いく」、といったような行為とも近いものとしてイメージされるようになっていく。
フロイトが精神分析で、より積極的に、性欲や射精を、「記述」することを目指したのに対して、ゼロ年代は、どちらかというと、こういった精神分析的な、
- 人の心の根底の記述
のようなものが、より「文学的」なものとして評価された傾向があるのに対して、それ以降は、こういったものを、
- 公共的な場所
で披露することが、よりセンシティブなものとして、BANされていく、という方向に向かった。
こういった方向は、上記の現代哲学の文脈で言うなら、
- 功利主義から、カント主義への旋回
と考えるとこができると思っている。
例えば、「萌え」に変わって、近年の流行語は「推し」である。「推し」とは何か、というと、
- 「推し」ている本人の「感情」の記述というよりも、その「推し」の対象へのリスペクトを表現するもので、フォーカスしているポイントが変わっている
という特徴がある。「推し」は、どちらかというと「推されている人」にとって、「どれだけ推しの人がいるか?」といった、定量的な扱いができる形になっており、軸が、「推されている人」の側に移っているわけである。
なぜこういったことが起きるのかというと、つまり、「推し」は、「推す側」が徹底して「推される側」の
- 尊厳
を認める、という構造になっていることが前提なので、この一線を越えることは恥かしいこととして整理されるからである。
そもそも、功利主義は、その当人の「行動」をどう評価するか、という話だったのに対して、カント主義では、
- あなたは、あの人の「尊厳」を認めますか?
に変わっているわけです。これがあって始めて、人間社会の秩序は成立する、というのがカントの義務論ですから、明らかに「推し」は、カント主義を前提にしている。
ゼロ年代が主に、東浩紀先生などの、「高学歴の文系の先生」たちが理論的に先導したこともあり、フロイトの精神分析をかなり意識したものとして構築しようとした意志が感じられる、かなり「文系的な衒学」の色彩を帯びたのに対して、それ以降のこの「推し」文化の興隆は、言ってみれば、
- ゼロ年代批評の敗北
を意味している、と言ってもいいんじゃないだろうか。また、このことを逆から考えてみると、それだけ、カント主義の主張が根強い、ということなんだろう。
ベンサムの功利主義は、「なぜこの世界には道徳が存在するのか」と問うことで、実質的な、「道徳不要論」に到達したんだと思うわけである。つまり、全ては科学で決めればいいんだから、それ以上の「前提」を置くことは、反人間的な態度だ、と嘲笑したわけです。
ところが、実際の私たちの社会を見渡すと、当たり前に、道徳はあるし、まるでそれが、
- 先験的(アプリオリ)
であるかのように、誰もその自明性に対する懐疑を主張しない。
なぜかといえば、私たちがそれまでこの人間社会で生きてきた「知恵」が関係している、と言うしかないわけだろう。みんな回りもそうしていたし、そうすると、比較的に潤滑に回りが動いてくれて、物事がいい方向に回る。だったら、それを変える必要はないし、それを尊重する、と。
ということはつまりは、「相手を尊重する」ということなわけで、まさに、カント主義なんですね...。