主張の整合性(無矛盾性)

新年が明けて、それなりにおもしろいトピックスがあったかな、と思ってネットを見るけれど、そんなにはない感じ。
一つ目に付いたのが、正月にテレビでやっていた、コンビニのおにぎりを一流のシェフが審査するって番組で、一口も食べないで、不合格にしようとしたって話だろうか。

「ジョブチューン」審査員が食べずに「不合格」で賛否の声「前代未聞過ぎる」「相手に失礼」「あり得る」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

まあ、これ自体はたいした話ではないわけだが、5ちゃんねるなどでは、炎上して、スレッドが大量にできてて、食べログなどで、このシェフの店が低評価にされ、まあ「電凸」をされている、っていうのが社会的な影響としては出ている、ということらしい。
ではなぜこの番組を見た人が、不快に思ったかということだけど、なんというか、よくある話の「比喩」として受けとったというのが正しいんじゃないか。
私たちが、どこかの会社に面接に行くと、そもそも、面接なんかさせてくれないわけだよね。経歴書の学歴の欄を見て、それで、ゴミ箱にポイ捨てだよ。これと同じ、理不尽さを感じた、ということなんじゃないかな。
あと、気になったのが、以下のブログ記事だ。

DOMMUNEに出演しなかった理由と、例の「いじめ語り」に対する簡単な見解 - 荻上式BLOG

社会学者の荻上チキさんが、年末に行われた DOMMUNE のイベントへの参加を要請されたのに欠席したわけだけど、それを、このイベント内で「ばらされ」て、しょうがないので、自分の名誉もあるので、その経緯を説明せざるをえなくなった、という気の毒な話だw
ではなぜ、この人はそのイベントへの参加をやめたのかというと、一つは個人的なスケジュールの話で、もう一つが、

  • このイベントの趣旨に賛同できない

から、となっている。ただし、ここでの「趣旨」というのは、こういったイベントを行う場合に、多くの場合に作られる、「企画文」のことを言っており、その内容を巡って以下で、弁明がされている。

企画文の中でまずひっかかったのが、次の文章です。

実は、我々DOMMUNEは、この問題が浮上した時期から番組の計画をしていた。しかし、今年9月17日にコーネリアスオフィシャルHPから小山田圭吾氏の署名付きで発信された【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】を読み、この声明が拡散されることによって、遂に大きな誤解が解ける筈だと安心し、一度、我々DOMMUNEは計画していた番組を配信する必要は無いと考えた。
なぜなら、本人によるこの経緯説明と、同時期に出版された「週刊文春」9月23日号の「小山田圭吾氏の懺悔告白120分」をきちんと読めば25年前の2つの雑誌から引用され、世間に断罪された凄惨ないじめの主要部分は、小山田圭吾氏の行なった行為ではないということを誰もが読解できると思ったからだ。しかし、時が経つにつれ、その後も状況は殆ど変わっていないと感じるようになり、DOMMUNEアカウントにも、沢山の意見が届け続けられた。
事実、声明を出した後にも、小山田氏は再び批判に晒され続けている。 一度、適切でないと判断されれば、客観的な事実に基づいていないことが明らかだとしても、ネットリンチのごとく袋叩きにされ、傷に更に塩を塗るようにデジタルタトゥーを刻み続け、どん底まで徹底的に糾弾し続ける現代のキャンセルカルチャーに自分は強い危惧の念を抱いた。いや、何も全てのキャンセルカルチャーを否定しているわけではない。叩く側のリテラシーとモラルが崩壊すると、ここまで根深い暗黒を生み出してしまうのかと、驚愕したと言っているのだ!!!!!!
https://www.dommune.com/streamings/2021/123101/

この文章からは、小山田氏を「批判」する人は、「誤解」に基づいて批判しているのだという認識を読み取りました。しかし、実際に批判的態度を持っている人にもそれぞれの温度感があり、批判者を一括りにするようなことはできないでしょう。
DOMMUNEに出演しなかった理由と、例の「いじめ語り」に対する簡単な見解 - 荻上式BLOG

ようするに、この企画文の作者は

  1. 小山田は、週刊文春などで弁明をした。それを、「彼の名誉がこれで回復される」内容だ、と解釈した。
  2. ところが、世間はまったく、そう受けとっていない。事実、小山田自身の活動はさまざまに以前に比べて、制約を受けている。
  3. これは、「キャンセルカルチャー」の悪い例であり、この一点をもって、世間に訴えかけねばならない

と言いたいようなのである。
まず最初に受ける印象は、上記の1への違和感だろう。

  • 世間に断罪された凄惨ないじめの主要部分は、小山田圭吾氏の行なった行為ではないということを誰もが読解できる

えっと。今回問題にされたのは、東京オリンピックパラリンピックの音楽担当として、そういった過去の報道を今の今まで、そのままにしてきた人を採用するのにふさわしいのか、という話だったのではないのか? しかも、この音楽担当が誰なのかの発表は、ギリギリのタイミングで行われて、もはや、担当を他の人に替えられないような形で行われたことの

  • 卑怯なやり方

の方にこそあったわけであろう。
そういう意味で、小山田「自身」が、実際にどういう奴なのか、といったことは、そもそも誰も関心がないわけだw
ではなぜ、小山田は今の今まで、そういった報道を「そのまま」にしてきたのか? それは、それによってなんらかの、彼にとっての「利点」があったから、と考えざるをえないわけであろう。
過去に多くの「いじめ」があり、今も「いじめ」が存在することは、誰も否定しないし、みんなが当事者として受けとめていることだ。そして、そういった中に、小山田もいる。しかし、そういった過去の「出来事」と、今、オリンピックの音楽担当を任せるかどうかは、分けて考えないとならない。そうじゃなくて、その過去の「報道」に対する、それまでの本人の対応の不十分さが問われているわけであろう。
早い話が、なぜ小山田は、オリンピック・パラリンピックの音楽担当を引き受けたのか、が「矛盾」しているわけでしょう。上記の過去の報道と整合性をとるなら、引き受けなければよかった。
もう一つ、大事なポイントは、上記の企画文を書いた人は、小山田自身による、週刊文春の記事などによって

  • 遂に大きな誤解が解ける筈だ

と考えた、というところだろう。しかし、ここで「わざと」、表現を曖昧にしている。つまり、小山田への音楽担当からの辞任することへの世間の圧力が、「それ」によって、

  • 不当だった

と言っているのかどうなのかが、さっぱり分からないことだ。つまり、

  • 何が問題だったのか?

が徹底して、曖昧にされている。そもそもの話、当事者による一方的な主張だけで、なぜ「はるか過去の今となっては、なんの証拠もない」ことへの弁明が、「正しい」と受け取られるのかを、まったく示していない。
そうじゃない。むしろ、弁明文は、後半に記述があるように、こういった

  • キャンセルカルチャー「そのもの」

に対する「悪」を糾弾する目的で、このイベントを行う、というロジックになっているわけで、つまりは、問題は

  • キャンセルカルチャー

なんだ、と言っているわけであろう。つまり、前半の小山田自身による「弁明」が問題であるかのように議論をしておきながら、途中で、そんなことより

  • キャンセルカルチャー

が駄目なんだ、と論点がすり替えられている。
私は上記の「トラブル」を巡る考察をしていて、つい最近起こった、以下の「事件」を思い出していた。

www.youtube.com

ようするに、辛口のゲーム批評をYouTuberとして行っていたナカイドさんが、ある「クレーマー」にからまれて、それに辟易したのか、そのクレーマー側のコメント欄に、ナカイドさん自身が「全投稿の削除」を求めたわけだけど、これが問題になって、逆にナカイドさん自身が、動画投稿の「休止」を宣言した、という「いきさつ」なわけだ。
ここで問題は、ナカイドさん自身はおそらく、このクレーマーを「無視」し続ければ、相手は無名のまま、なにごともなく続けられたのだろうけど、

  • 全削除

を求める行為は、そもそも、表現の自由が認められた日本では、法的な正当化は難しいわけだろうw つまり、そういった法外な「暴力」的な要請をしたこと自体が、ナカイドさん自身の動画投稿を続けることを難しくした、というわけだ。
結局のところ、ここで問われているのは、

  • 主張の「悪」性の度合い

ではなく、

  • 主張の整合性(無矛盾性)

なんですね。相手に全投稿の削除を求めることは、やはり「やりすぎ」に思われるし、荻上チキのイベントへの不参加も、極端な「キャンセルカルチャーへの全否定」は、学者として受け入れられない、となるし、コンビニのおにぎりを食べずに不合格にしようとする行為は、どこか「学歴差別」の正当化のロジックと変わらないように聞こえるわけで、お前らが言っている、この社会の

  • 正当化

の根底を壊しているんじゃないか、という方が問われているわけですね...。