龍が如くの真島とマコト

龍が如くは、セガが開発元のゲームソフトであるが、龍が如くシリーズとして、多数のソフトが発売されているし、こういった分野では、海外でも熱烈なファンがいる。
特徴としては、ヤクザ社会をメインに繰り広げられるストーリーとなっていて、昔なつかしいヤクザ映画の良い部分を継承している、と言うこともできるだろう。
実際に見てみると、ヤクザが舞台ということもあり、喧嘩が多く、かなり暴力的な印象があるが、昔のヤクザ映画がそうだったように、まあ、早い話がそれだけでは終わらない、という魅力がある。
こんなふうに思考実験をしてみよう。もしも、私たちの日常に「暴力」があったら? 暴力は法によって禁止されていて、それに反した行動をとると法によって罰せられる。つまり、一般市民には基本的に暴力は無縁である。しかし、ある特定の人たちにとって、その法は外にある。それふぁ、ヤクザ社会である。ここは言わば、

  • 極限状態

の世界だ、と言うことができるだろう。ここにおいて、私たち一般市民の「倫理」は通用しない。しかし、本当にそうだろうか? 倫理とは普遍的なものである。私たち「一般的」な市民にとって、なにが「常識」であろうと、その本質まで極めれば、そこに通底する原理があるはずなのだ。
掲題の真島とマコトは、龍が如くシリーズの、「龍が如く0 誓いの場所」に出てくる登場人物だが、いったん、ここでストーリーは終わるわけだが、確か、「龍が如く極2」のサイドストーリーとして、この二人の

  • アフターストーリー

が描かれる。
なりゆき上、タテヤママコトに関わることになった、真島吾朗であるが、ストーリーが進むにつれて、マコトを守るために、自らの命をかけて、ヤクザ組織に戦いを挑むことになる。ストーリーは目が見えないマコトに真島が近くで、さまざまに話しかける形で進むわけだが、このストーリーを見ている人は、ここまで献身的にマコトのために命をかける真島に対して、二人が結ばれるハッピーエンドはありえないのか、と考えるようになる。
結果として、二人は結ばれない。マコトの目が見えないのは、精神的な部分が大きかったのか、最後には少しずつだが直っていくようになる。自分が誰なのか、マコトに名前も告げていなかった真島は、そのまま彼女の前から、去っていこうとするわけだが、最後まで真島は、この態度を変えることはない。
では、なぜ真島はその態度を貫いたのか、と考えてみたとき、どのように言うことができるだろう?
一つは言うまでもなく、真島が「ヤクザ」世界の人間だ、というところにある。彼の手は血で汚れている。それに対して、マコトは一瞬、ヤクザ社会と関わることになったとしても、そもそも彼女はこっち側の人じゃない。そう考えるなら、これは必然だったと言えるだろう。
しかし、もう一つ、重大な問題がある。
それは、真島がマコトと関わることになった、最初の場面である。
そこで、真島はヤクザの組の命令で、「マコトを殺せ」と命令をされていた。しかも、彼はそこで、本気でマコトを殺すつもりでいた。なりゆき上、結果として、彼はマコトを殺さなかったわけだが、彼はずっと、この時の自分の「罪」と向き合っていた、という印象を受けなくはない。
確かにストーリーは二人の「仲のよさ」というか、真島による、マコトへの献身的な奉仕の姿を見せられ、しかもそれが、コミカルに描かれ、見ている人は、きっと二人は結ばれるのだろう、そういうハッピーエンドを期待していいんじゃないか、という思いになるわけだが、そんなに単純じゃないのだろう。おそらく、真島の中では、あの時の自らの中にあった「殺意」と、ずっと向き合わなければならない、という宿命を生きていたはずなのだ...。