属人的か構造的か

ロシアのキエフからの撤退で、少しずつだが、ロシア軍のウクライナの人への殺害の状況が報道されるようになってきた。
そこで見えているのは、これが、この亡くなったウクライナの人を殺した「その人」の残虐性や、そういった集合としてのロシア軍の残虐性についての

  • 属人的

な性質のものなのか、そもそもこういった「戦争行為」がもともともっている性質、ある種の構造的なものと解釈すべきなのかで議論が分かれているように思われる。
今回のロシアの武力侵攻の特徴は、ほとんど「空爆」を使っていないことだ。ただし、今でもロシアの空軍は、国境沿いにひかえているわけで、不気味であり、これからを考えると怖いわけだが。
実際、国連の発表を見ても、民間人の死者は、イラク戦争などのアメリカが空爆で市街を攻撃したケースと比べても、少し少ないくらい、という話もある。
もちろん、これをどう解釈するかは人それぞれなのだろう。ある人に言わせれば、そういった「比較」自体が無意味だと言う。つまり、国際政治は「進歩」していて、イラク戦争の頃のアメリカと今のアメリカは違う、と言う人もいる。つまり、昔はああいう野蛮な行為もあったが、今もこんな野蛮なことをロシアが行っているなら、ロシアはやばい国だ、と。
アメリカがイラク戦争などで空爆を選択したことは、自国の軍人の死者をなるべく出さないため、と、たしか解釈されていたと思う。これに対して、今回のロシアはそれを選択していない。選択していないということは、基本的に地上を陸軍は進軍して進んでいるわけで、いろいろな場所で、ウクライナの人たちと遭遇することになる。
ここで、問題は、もしロシアが「ある特定のウクライナ人」を攻撃の対象として狭めたくても、そう簡単じゃない、という事情がある。まず、ウクライナは全市民に火炎瓶などの武器をとって、ロシア兵と戦うことを命令されている。こういう状況では、ロシア側は

  • 誰が自分たちに攻撃してきて、誰が攻撃してこないのか?

を究極的には判別できない。つまり、「民間人」という見た目が、実際に武器をもっているのか、ロシア兵を殺そうとしているのかの判別には、必ずしもならない。
それは、どんな戦争でもそうだろうと言うかもしれないが、大統領があそこまで、ウクライナの市民に武器をもてと言っているというのは、かなり大きなこと、と解釈されるだろう。
そもそも、ロシア軍は、ウクライナの誰を殺すべきで、誰を殺さないべきなのかを、なにで決定したらいいのだろう? 一つの基準は、「自分たちを攻撃してくる人」だが、これでは、先制攻撃を常に受け続けることになるわけで、地上戦の進軍にならない(というか、戦場の経験のない若い軍人ほど、疑心暗鬼で暴走する可能性が高くなるんじゃないか、と思われる)。
まず、そもそも、ウクライナ人とロシア人は見た目が変わらない。あとは、ロシア語とウクライナ語ということになるが、これも、日本語の方言みたいなもので、違うのだろうが、似ている部分がそれなりにある。
おそらく、これからも、さまざまな形でウクライナ人の被害が報道されることになる。その場合、そのウクライナ人が死んだのは、その、殺したロシア人個人の属人的な性質(残忍な性格など)や、ロシア人そのもののそれ、ロシア軍そのもののそれなのか、そうではなく、上記のような

  • 今回の戦争の今のこの地域の性格

に大きく依存したタイプのものなのか、が一つの判断材料となっていくだろう。
おそらく、ウクライナ側の情報発信は、前者を強調することになるだろう。つまり、いかにロシア人「が」残虐か、ロシア軍「が」残虐か、を強調することで、国際世論の非難を喚起しようとしてくる。
それは、誰であれ人が亡くなっているのだから悲しいわけだが、一方で、日本のツイッター世論では、ウクライナが市民総出で戦って「勇敢」だと、ウクライナ人を「賞賛」して「煽って」おきながら、他方で、

に対して、まるで「考えてもいなかった」ことであるかのように、ショックを受けた感情を吐露するのは、ずいぶんと都合のいい話なんじゃないか、と思うわけですね。つまり、少しナイーブなんじゃないか、という印象を受けるわけで、もう少し国際世論は冷静に振る舞っていかないと終わるものも終わっていかないんじゃないか、と思うわけである...。