他罰の限界

今回のウクライナ戦争が奇妙な戦争であるといっても、その構造は明確で、つまり

  • ロシアが大量の核兵器をもっている

がゆえに、国際社会がその被害にあうことを怖れて、直接的な参戦をしない、ことにある。言わば、現在のこの奇妙な状態はこの「パラドックス」によって成立している。
しかし、だとすると不思議なのは、今まで、なにをやっていたんだ、ということだろう。NATOはそもそも、ソ連に対抗してできていたはずで、なんの対策もしてこなかったのか、という違和感がある。
冷戦時代の戦争論は、核抑止論が主流だった。お互いが核をもっているがゆえに、他国に侵略できない、と。しかし、今回ロシアが侵略をしているのは、ひとえに「アメリカは参戦しない」と言ったから、と受け取るしかないように思われる。ロシアはこれによって、ウクライナに侵略したとしても、アメリカによって核の「仕返し」を受けないと解釈したからやった、と思うわけで、実際にそうなっている(これを事前に、ロシアとアメリカの間にバーターがあったと解釈するかどうかは人によって違うのだろう)。

棚上げを“定着”させたケースもあります。長い間の分離独立戦争の末、2002年にインドネシアからの独立を果たした東ティモールです。インドネシア軍・警察、そしてそれに操られた民兵たちによってジェノサイドと称される殺戮が起きました。しかし2004年、両国は、戦後の両国の関係の“安定と繁栄”のために、戦争犯罪の訴追と処罰をせず“真実の究明”にとどめる合意に達しました。
上のアフガニスタンでも2007年、カルザイ政権の時に、政治的な和解のためにタリバン軍閥たちがおかした戦争犯罪をすべて恩赦する法律を可決しました。もちろん国連や人権団体は、これらが「人権」を傷つけかねない措置だという危機感を表明しましたが。
苦しいですが、人権の普遍的管轄権の限界を感じる時です。
thetokyopost.jp

僕が現場で相手にしてきたのは、とんでもない戦争犯罪者ばかりです。戦争犯罪者に、政治的なポストや身の安全を確約して和平工作を進めるのですから、当然、人権団体から非難を受けます。「不処罰の文化 Culture of Impunity」を広げる人権の敵だと。しかし、戦いを止めるというのは、残念ながら、こういうことなのです。
thetokyopost.jp

現在、ツイッター上では伊勢崎さんへの罵詈雑言を含めた非難が上がっている。それは特に、

と呼ばれるような、戦争取材に関わってきたジャーナリストや学者を中心として、今回の戦争で「ロシアを絶対に免罪するな」で統一している勢力が、どうしても彼の「もの言い」を許せないようである。
しかしそれは、上記の引用から分かるように、ほとんど昔から繰り返されてきた問題だった、と言えるように思われる。
そもそも、古くは、WW2での日本の敗戦から、全共闘世代の学生運動に繋がる視点として、戦争時の「犯罪者」が、のうのうと社会復帰してきたことに、彼ら当時の学生が不信を抱いたところから始まった。
現在、顔を真っ赤にしてロシアを怒っている彼らも、別に、そうだからといって、WW2での日本の戦争犯罪者が免責されて戦後復帰したことに一度として戦ってきたわけではない。もしかしたら、彼らこそが、そういった「恩恵」を受けた親の資産で成り上がった、受益者たちなのかもしれないw
戦争を終わらさせるには、当事者たちに武器を手放させなければならない。しかし、そのためには、

  • 戦争が終わったら、自分は死刑になる

と分かっていたら、あえて戦争を終わらせることに同意するのか、という問題がある。
言ってみれば、人類はまだ、このパラドックスの解決方法をみつけていないのだろう。そして、それが「ない」ことを分かっていながら、それと向き合おうとしない人権派やリベラルは、果して「誠実」だと言えるのか、がよく分からないわけである...。

追記:
ウクライナ戦争が始まり、一時は急落していたルーブルが、(アメリカドルレートで)なぜかw戦争前の水準に戻ってしまっているw いろいろと話を聞くと、どうも、アメリカの企業が急落したロシアの株を買い漁った、という話もある。ということは、そういったアメリカの市場関係者は、ロシアの今後を悲観していない、ということを意味しているのかもしれない。実際に、少なくとも、アメリカを中心とした制裁はEUくらいしか同調をせず、そのEUも天然ガスはほぼ今まで通りなわけで、どうもその制裁の「限界」が市場関係者には見えているのだろう。そして、ウクライナ戦争以降、アメリカの基軸通貨としての取引が他の通貨に代替されていっている速度が上がっているわけで、もしかしたら、ウクライナは、つい最近までアメリカが介入していたアフガンのように「泥沼」になりながら、アフガンがそうであったように

  • 世界の誰も関心をよせない

状態で、まるで何もなかったかのように、「ウクライナを除いて」今まで通りの世界に戻っていくのかもしれないが、これを「平和」とか「正義」とか「人権」と呼んでいいのかが疑問なわけだ。なぜなら、今回のウクライナが始まる前から、アフガンや、さまざまな地域が

だったのに、誰もそれに関心を示してこなかったのだから、もしも「以前」が「平和」と言うなら、なぜ今が「平和」と言えないのか、となるからだ...。