人々をつき動かすもの

私も、二年くらい前に大病になって、今は、普通の生活をしているわけだけど、そこで自分自身が以前と変わったな、という自覚がある。それは、一言で言えば、あまり世の中に関心がなくなった、ということになるかと思う。そこまで、読むべき本を全部読んでやろうといった気概もなくなったし、そこまで、世の中に関心をもつべき、という感じでもなくなった。
つまり、そういった生き方を選ぶことに、そこまでの違和感がなくなった。
なにか、世の中のことに関心をもつべきとか、他人の行動に助言をすべきとか、人が行った行為には、それに対応する義務があるのだから、そういった注意を誰に対しても行うべきとか、そういった、なんというか

  • 思想

みたいなものを語ることに、ほとんど関心がなくなった。結局、そういったものは、これから、まだまだ長生きをする、若い人が関心をもって、回りに伝えていくことで、ある程度、未来の先行きが見えてきた年齢になったら、こういった感じに、だれでもなっていくんだろうな、という気持ちはある。
たとえば、分かりやすい例で考えてみたいんだけど、民主主義批判というものがある。反民主主義の人たちは、エリート主義ということになるわけだけど、そういう人は、ようするに、民主主義に欠点があるから、エリート主義にすべきだ、と言っているわけだ。そうした場合、ここには

  • 自分が「正しい」と思うことを、世界中の人に「同意」してもらえない

という挫折があるわけですね。自分は「天才」だ。この自分が考えたことを理解できない大衆が、多数決で自分に指示をするのは間違っているんじゃないか、というわけだ。そして、なぜ「説得」に失敗するのか、ということになるわけだけど、しかし、彼らはここには関心がない。事実として、それが「うまくいかない」というだけで、十分なわけですね。
自分が世の中をコントロールできないことに耐えられないエリートは、民主主義を否定する。彼らは、そういった状態のまま、もしも人間が滅びることになるかもしれない、という可能性に耐えられないわけですね。
世の中をコントロールしたい。自分の思うままに操りたい。しかし、それは自分が「いかに天才か」を自分で分かっているから、そう思っているんだと、自分では「分かっている」と思っているから、そう振る舞うのであって、それと同じことを大衆が思っているなんて知ると、不快になるわけだw
こういった違和感は、一見理解できるように思うかもしれないがw、一点、欠けている視点がある。それは、

  • 本当に他者をつき動かすことはできないのか?

である。問題は、他者が「無関心」であることにある。だから、難しい「からくり」になっている話に気持ちを向けようとしない。だから、エリートがどんなに話しても、誰も見向きもしない。だから、誰もそいつの言うことを聞かない。そうすると、ますますエリートは、民主主義は駄目だと考えて、民主主義の廃止を画策する。
この場合、二つのポイントがある。

  • そもそも、その話の内容は、人々をつき動かすような内容なのか?
  • たとえ、そういった内容だったとして、世界中の多くの無関心な人たちを振り向かせることは不可能なのか?

前者については、そもそも、そのエリートが言っていることが、たんなる自分の利益相反の話なら、誰も関心をもたないのは当たり前だろう(そして、多くの場合、このケースなんだがw)。
よって、問題は後者になるわけである。
この世界には、多くの世界中の人が考えなければならないことがある。しかし、多くの場合、それそのものに対して、世界中の人は「無関心」だ。これを、どう変えられるのか?
以下の動画は、れいわ新撰組山本太郎代表と、東大教授の安冨歩先生との対談だが、ここで安冨先生が話題にしている、マイケル・ジャクソンの話は、なかなか興味深く思える。

www.youtube.com

なぜマイケルはあのような奇抜で、きらびやかな衣装で舞台に立ったのか? なぜ、あのような、一種、卑猥でさえある、ダンスやポーズととり続けたのか? それは、安冨先生に言わせれば

  • 人々の関心を引きつけるため

だった、と言うわけである。そして、その上で、マイケルが言いたかったことは「子どもを救う」ことだったんだ、と。
こう考えてくると、さっきの話の、たとえ民主主義が正しいのか、間違っているのか、の議論があったとしても、結局、大衆に見てもらわないと始まらない、という認識がある、ということなんですね。私たちは、人々に見てもらい、聞いてもらい、関心をもってもらわないと何も始まらない。なにも知らない大衆は、知らないんだから、彼らを無視して、知っている奴だけでうまくやっていこうとしたって、なにも解決しない。なぜなら、

  • ここで訴えようとしていることが、どっち側の人にとっても影響のある、重要なことだから

という関係になっている。つまり、結局は世界中の人に訴えて、世界中の人に関心をもち、行動してもらわないと始まらないことであるなら、民主主義がどっちなんて、関係ない、ということなんですね。
おそらく、今回の山本太郎代表の参議院選挙への出馬は、この対談の影響も大きいんじゃないかな、と考えている。議員になって、なにかをやったところで、結局は、人々が関心をもってもらわなければ始まらない。そして、そうやって多くの人に関心をもってもらわなければならない問題を、この世界は抱えている。だとするなら、こういった選挙を通して、人々に見てもらう機会を使うことの方が、ずっと、価値のあることなんだ、と考えるわけですね。
以前に、れいわ新撰組から、安冨先生が立候補したときは、その選挙演説で、多くの人にマイケルのパフォーマンスを披露してもらっていたわけだけど、そういった形で、おそらく、山本代表は、さまざまな

  • 多様性

を示すパフォーマンスを、今回の選挙で行ってくるんじゃないか。そして、その多くは、れいわ新撰組が、障碍者を議会に送りこんだときのように、多くの有識者からは理解されないと思う。しかし、そういった形で

  • 多くの人に「見せ」て、「聞かせ」て、なんらかの「関心」の跡を残していく

ことが、長期的には、この世界を変えていく力になっていくのかもしれない...。