庵野が脚本など制作のかなりの中心に関わっているシン・ウルトラマンが公開され、いろいろと感想がSNSでつぶやかれ始めているわけだが、その内容は、むしろ
- (昭和的な)セクハラ表現
として、フェミニズム的な「(不快感という)お気持ち表現」に終始していることが、なんとも言えない気持ちになる、というわけである。
しかし、私には、そもそもそういったふうに「批判した側」も、「その批判に不快になっている側」も、まったくもって、
- 同じ穴のむじな
にしか見えないわけだ。なぜなら、そもそも私は庵野という人間を、もっと別な意味で「批判」してきたからだ。
岡田斗司夫:大事な仕事というのは上級国民同士で斡旋しあうわけです。で、アートとか音楽とか建築で成功すると上級国民の仲間入りができちゃう。これもあるんです。おもしろいことに、宮崎駿、これ嫌いなんですよ。宮崎駿って金持ちの家に生まれて、学習院大学に行ってる癖に、この上級国民に入るのが嫌だから、アカデミー賞も行かないわけですよね。多分、勲章貰えるんですけど、貰わないんですよ。本当にそういうの嫌いなんです。でも庵野秀明は、大好きなんですよ。大喜びで、この、上級国民の仲間入りをしちゃう。ここらへんんが、俺が弟子じゃないと思っているところで、庵野秀明は宮崎駿の弟子じゃないと。
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ようするに、庵野という人間は「上級国民におもねる」ことを至上の喜びとして生きている人間なんだ、ということである。彼の、徹底した
- 上から目線
は、全ての作品に通底している。そもそも彼には、上記の引用にあるように、宮崎駿がもっていたような、
- 下層階級の人たちと同じ目線で考えよう
という姿勢が最初からない。徹底して、階級差別的な作品を造り続けてきた、というのが彼の「本性」であるわけだ。
(例えば、上記の庵野と宮崎の関係は、どこか、東浩紀と柄谷行人の関係に似ているw 柄谷は首尾一貫して、左翼であり、左翼的正義にこだわってきた人なわけだが、対して、東浩紀は徹底して、左翼や、左翼的倫理への嫌悪感を表明し続け、罵倒し続けてきた人なわけで、つまりは、「そういう人間」が自分の出世のために、柄谷を「利用」してきたこと、柄谷の左翼性に対して、心の中では、根源的に軽蔑し続けているという意味で、本当は柄谷を馬鹿にし続けているのに、まるで「尊敬する上司」であるかのように扱って、その名声を利用することに、なんの恥じらいもない、という意味で、根源的に性根が腐っている、と言うしかないだろう。)
こういった視点で、改めて、シン・ウルトラマンを見るということは、どういうことを意味しているのかを書いてみたい。
まず、私も日曜日だったかに映画館で見たわけだが、この作品は基本的に、旧ウルトラマンの「オマージュ」となっている。つまり、大筋において、昔のウルトラマンのストーリーをなぞっている、と受けとられる。ということは、ここで描こうとしている大事なポイントは、
- なぜウルトラマンは人間を救おうとしているのか?
の「動機」を描こうとしている、改めて解釈しようとしている、と理解しなければならない。
つまり、もしも「まとも」にこの映画をリテラシーをもって見ている人なら、ここに関心を寄せないというのは、見方として、なにかが欠けている、ということなのだ。
なぜウルトラマンは、人間を救おうとするのかと問うことは、この物語の構造上、絶対には避けることができない形になっている。
そして、こういった観点に「気付かない」人たちの特徴として、
- 今回のウクライナ戦争で、なんの自覚もなく、ロシア「悪魔」論を心の底から「信じている」
という同型性が見られるように思われる。
なぜ、こういった人たちは、そういった振舞いができるのかは、なかなか興味深い問題だと言えるでしょう。
そもそも、プーチンの政策判断に反対なら、ロシア国民の中の、プーチンの今回の戦争に反対している人たち
- 全員を「難民として受け入れなければならない」
ということになるはずなのに、彼らは英米と一緒になって、ロシア国民への経済制裁(個人制裁を含む)を、一緒になって「やれやれ」とけしかけているわけでしょ。中世の魔女狩りで、十字架に磔にされている人に、物陰から、石を投げつけている野次馬と変わらないわけでしょ。
なぜウルトラマンが人間を救おうとしているのかを問わないということは、
- 人間を助けるのが「当たり前」と思っている
からということになるわけで、そこには、根源的な傲慢さがあるわけでしょ。
つまり、どういうことか?
大事なポイントは、日本における「サブカル」の歴史上の扱われ方が問題なわけですね。
昭和の時代から、サブカルと呼ばれ、日本社会に一定の社会的地位を与えられてきた分野は、そもそも、
- 猥雑
なものであることが「当たり前」のものとして、常にあり続けていたわけである。そして、この「文化」は、サブカルと呼ばれているように、最初から
- 下層階級
の人たちが消費するものとして、そのステータスはあった。サブカルが「文化として価値が下がる」ことは、当たり前のこととして理解されていた。そして、そのことに誰も異論も反論も述べていなかった。そういった、日本社会の
- 棲み分け
は、もはや自明のものとして扱われてきた。
ところが、である。
こういった「サブカル」が、SNS時代になって、多くの「勘違い」をもたらしている、と言えるだろう。まるで、高尚な文学であるかのように、偉い大学の先生などが、庵野のエヴァなんかを見て、なんかを言い始めるようになって、言わば、彼らが
- サブカルを説教し始める
という現象が目立つようになってきた。つまり、彼らなりの「社会常識」を、そういったサブカルに求めることに、なんの違和感ももたなくなった。もともと、「そういう人」は、そういったサブカルを敬して遠ざけていたはずなのに、庵野だからって
- 庵野だから、高尚で教養として試聴しなければならない
となって、見て、怒髪天を突いて、不快感という「お気持ち」を表明する、ってわけであるw
もしも、シン・ウルトラマンのセクハラ表現が不快だというなら、
- その他の、ほとんど全ての「サブカル」作品
に対しても不快にならなきゃおかしいわけでしょw
(言わば、こういったことは、昭和の頃には「常識」だった。つまり、サブカルチャーを消費したり、批評するということは、こういったリテラシーを常識として理解した上で、「それでも語りうるような、その可能性の中心」はどこにあるのか、と問うてきたわけでしょう。だから、それは最初からメタの問いだった。そうしたときに、これが、いわゆる「ハイカルチャー」と比べたときに、この庶民文化であり、大衆文化の中には、なんらかの下層階級からの上級階級に対しての、経済的不平等が正当化されている社会的差別などを鋭く見抜く、「視差」であり、他者の視点があるんじゃないのか、と受け取られてきたわけですね。)
ところが彼らは、別に、そういった作品を「見ない」わけ。じゃあ、なんでシン・ウルトラマンだけは、特別に見ちゃったんでしょうね、と思うわけだけど、そもそも彼らには、この問いが何を意味しているのかさえ分からないのでしょう...。