言語の歴史性・科学の歴史性

英語の文法の本なんかを読んでいると、なるほどこういった「ルール」になっているんだな、なんて思うわけだが、しかし、実際の会話を聞いていると、俗語、スラングなどもあり、かなり「自由」に話されていると思うわけだ。
スラングは新しい表現だが、それが「定型」として使われ始めると、その「意味」は多くの人に伝わることになる。すると、ある意味で新たな

  • 文法

ができている、と考えることもできる。そのスラングと似たような「崩し」のされたものは、それと類似したものとして理解されるわけで、それはそれで「通じる」ということが起きる。
以下の動画では、外国の方が日本語を勉強しようとして「難しい」と一時期、思っていた理由を述べられているわけだが、なかなか興味深い話である。

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確かに、日本語は漢字を使っておきながら、その漢字の「読み」が決定されない。こういったことは、英語や中国語にはない特徴だと言える。そのため、日本語学習者は、まるで

  • 無限の地獄

に落とされたような混乱をもたらされることになる。
しかし、そんなことを言ったら、日本人だって、大人になっても漢字に苦しめられているw そのため、当たり前のように、漢字に「ルビ」がふってある文章を出版物では見ることになる。
漢字が日本に流入してきたとき、日本にはまだ文字がなかった。よって、日本語はあくまでも「話し言葉」だった、と考えられる。しかしそれは、

  • 中国本土

でも同じなのだ。中国にも多くの、その地域で自活をしている集団があった(その一つとして、朝鮮を考えることもできる)。そういった地域は、歴史的な経緯として

  • 漢字文字の流入を受け入れる

という過程を経て、漢字を使うようになる(そもそも日本人が、中国のどこかの部族だった、という話もある)。
無文字文化の民族が、外来の文字を受け入れるとき、

  • 自らが話しているそれそのもの

を、その文字を使って、どう「表現」するのかが問われることになる。つまり、そこにおいて、中国で使われている文字と「同じ」ものが使われていながら、それを

  • 自らが話しているそれそのもの

を「表して」いるものとして「解釈」する

  • メタ

な見方が導入されることが求められているわけで、なかなか難しい問題だったわけだ。
そこにおいては、ある意味で、その文書作成者たちの

とでも呼ぶしかない、奇抜な表現が表れることになる。
これは、たんなる

  • 当て字

であるわけだが、読む側に、なんらかの「納得感」を与えないと、そのミームは流通しないわけである。ある表現が流通するということは、それがそれなりの、人を魅き付ける「魅力」があるから、残ってきたと言えなくもない。つまり、なんらかの意味での「合理性」を受け取る側に与える結果となることが求められる。
例えば、古事記を今の日本人が「読む」と、そこには、

  • 中国語の音読みで「発音」すると、その当時の日本人が「発音」していた音になる

といった個所が多い。このことは、

  • 当時、中国からやってきた集団内で、日本で日本人が「話して」いる「発音」そのものを記録しよう

という動機があった、ことを意味する。そして、その記載は、その「中国からやってきた集団」の中で、それを共有することには意味があった、ということを意味する。その「中国からやってきた集団」の中では、お互いで、その

  • 日本人たちが話している「発音」

を、それとして記述して、共有することには意味があったからだ。
ところが、である。
これは、そこに住んでいた日本人には関係のないことだった。日本人たちにとって、中国でどう発音されているかは、まったく意味がない。つまり「彼ら」がやっていたような「共有」は関係がなかったのだ。
大事なことは、その文字列によって、自分たちが話していることを記述できることであり、「それ」が何を意味しているかを「伝える」ように

  • できている

ことだったはずだ。そこで、時間をかけて、

  • そういった文章

は、再構成されていった。まず、日本において、漢字は、その中国での「意味」を一意のものとして、日本においても受け入れられていった。日本人が中国の漢籍を読むとき、それは、その漢字が示している「意味」として受け入れていった。そうしたとき、その漢字は、

  • 日本人たちが話している「発音」

として、

  • 当て字

として受け入れられていった。それを「音読み」に対する「訓読み」と呼ばれてきたわけだが、これは、どちらかというと、

  • 日本人たちが漢籍を読むことによって「発明」してきた

と呼ぶ方が正しいのだろう。つまり、日本人が漢籍を読むことは、それを

  • 漢籍を日本語として読む

ことを意味していた。つまり、そこにおいて、中国における「発音」はそもそも、誰も知らないし、知らなければやれないことでもなかった。全ての漢字は、ある種の「暗号」として、ある

  • 日本語における言葉

と、1:1に対応させられたわけで、つまりそれは、中国語を読んでいるというより、「あたかも」日本語として読んでいる、といった行為として始まっていたわけである。
しかし、である。
こういった行為は、そもそも、限界がある。というのは、この、ある種の「メタ」な操作には、ルールがないからだ。もともと、歴史的に発展してきた言語には、あくまでも、それぞれの文脈で、ミーム的に

  • 流行

した事実性しかない。それを後から、まるで「ルール」があったかのように「発見」するのは、欺瞞なのだ。まるでルールがあるように思えるのは、最初からルールがあったからではなく、なぜか、そのミームが「流行」できたのかを説明する原因ではあっても、それは最初に「ルール」があった「から」、そうなったのではなく、事後的に発見される傾向性のようなものでしかない。
こういったことを、ニーチェは遠近法的倒錯と言ったわけだが、ここに、ある種の倒錯があるわけである。科学は、

を使って、まるで「自然」に「ルール」があるかのように、強引にそこを暴力的に「整理」してしまうところがある。科学とは自然の「暴力的解釈」であり、ある意味では、人間の側が、自然を「整理」する、わけである。その「整理」とは、もっと言えば、

  • 人間側が変わる

ことによって、自然と「合う」ようにすることであって、強引に自然と「同期」が合うように、人間側の方を変えてしまえ、というアイデアなわけだ。
自然があたかも「同じ」ように見えるようになるには、人間側のトレーニングが必要となる。それは、もっと言えば、人間側が、そういった自然に、まるでルールがあるように、訓練を受ける、ということになる。それは、人間側が、自然を「そういったように受けとられる」ように、変わる、ことを意味する。つまり、人間がトレーニングを受けて、

  • 同じ

ように自然を受け取られるように、「調整」されることを意味しており、これは、ある種の人間の

  • 制限化

であり、「強制化=奴隷化」に近くなるわけだ。帰納法とは、帰納法的に、繰り返されたものを、常に「同じ」と受けとれるように、人間の感覚自体を「狭く」する行為と言える。それは実際に現象が同じというより、違っているものが、あたかも「同じ」もののように受けとられるように、人間の感覚の方を「変えて」しまう

  • 手術

のようなものだと言ってもいい。しかし、これにはこれの利点がある。人間同士が、同じように自然を「同じ」ものとして受け取るなら、人間は、ある意味で、

  • 人種としての「同一性」

を獲得した、と言うことができる。つまり、国家有機体説だ。人間が個々で独立していないのなら、それを人種として一つの「個体」として考えられる可能性がある、ということを意味する。そこから、戦前の日本は、天皇のために命を捨てることを、まるで女王アリを中心としたアリ「社会」のように

  • 合理的

と考えた。一人の命に価値はない。あるのは、「人種」としての存続であって、その国家有機体にとって、手足が、全体の

  • 手段

として、使いつぶされることは、むしろ「名誉」なことだとして、社会的に礼賛すらされた。
では、こう考えてみよう。そもそも、一人一人の人間は「同一」だろうか? これに対し、科学は「人間」という類において同一だ、と主張してきた。そして、その上で、心理学などの主張がなされてきた。
しかし、そもそもの生物学自体が、それを否定している。その代表は、エリオット・ソーバーだろう。
人間が類として「同一」だ、という主張は、そもそもの最初に

  • ルールがある

という考えだ。つまり、神は「ルール」を作ったんだ、と言っているのと変わらない。それによると、人間は、あるルールにのっとって分類をすると、人間と分類される、と言っているわけで、つまりは、

  • 神は、人間を人間と呼べ、と命令した

と言っているのと変わらないわけだ。しかし、エリオット・ソーバーはこれに反対する。なぜなら、今、ある、人間と「呼ばれている」固体は、根源的に

  • 歴史的

に存在するからだ。人間は、なにかの「ルール」があるわけでなく、たんに、自然発生的に、今、こうあるだけに過ぎず、ちょっとしたことによって、こうでなかったかもしれないし、実際に変わっていたわけだ。だから、私が「人間」とルールを決めたとしても、

  • ちょっとしたこと

によって、私の子供は、そのルールに「合わない」ということになって、つまりは「人間じゃない」と定義しなければならなくなるかもしれない。つまり、このことは、そもそも、生物は存在するのか、という問いをつきつけていることを意味する。生物はいるのか? いるのは、あくまでも

  • 個体

であって、そこになにかの名前をつけること(ルールを決めること)は、傲慢な態度なんじゃないか、と。
この事情は、言葉においても、まったく変わらないわけだ。言葉とは、

  • ある人が使った

という「歴史的事実」があるだけで、そもそもルールがあったわけじゃないのだ。そうやって、ある人が使った

  • 私的な「つぶやき」

が、なんらかの魅力があったゆえに、ミームとして「流行」したものをそう呼んでいるだけで、私たちはそこに、なにかのルールを適用することはできない。もちろん、

  • 後から

まるでそういったものがあったかのように「でっちあげる」ことを理性と呼んだのがヘーゲルであったわけだが、カントはそういったヘーゲルの幼稚な態度を終生軽蔑したわけだ。これは、自然の中に「神」を見出すようなものであって、まったくの

  • 神学

の亜種にすぎないわけだ。自然の中に神のメッセージを見出そうとする神学は、自然科学を「聖書の代替物」として、聖典化してきた歴史的な文脈があるわけだが、キリスト教徒でない私たちが、そういった慣習に習わなけれならない理由はない。
ある言葉の流行は、そもそも、局地的なものとして始まるし、終わるときも局地的だ。そこになんらかの「理性」を見出そうとするとき、まるでそれが、普遍的な「意味」を内包しているかのように扱う「科学」が表れる。しかし、言語とはもともと、個人的なものであり、そこからしか始まらないわけだw
上記の動画にあるように、日本語における動物の数え方が、その動物に

  • 関わっている当時の人間

にとって、その動物の「最後に残る」ものの名前によって数えられていた、ということは、なぜ日本語において、これだけ「多様」な呼び名があるのかの、ある意味での合理的な説明を与えている。一見、多様な呼び名があることは、日本語学習者にとって

  • 苦痛

以外のなにものでもないように思えたとしても、そう呼んでいた過去の日本に住んでいた人たちにとっては、そう呼ぶことには、そう呼ぶと「便利」と感じさせるだけの「理由」があったわけで、それが歴史性なわけである。
なぜ日本語において、多様な「読み方」があるのかは、日本語学習者にとっては、狂気にしか感じられないのかもしれないが、これは、たんに

  • 歴史的

な文脈を意味しているにすぎなくて、それぞれの時代で、その場所で、そう呼ぶことに一定の合理性があったことを意味しているだけで、大きな意味はない。
大事なことは、そもそもの日本語自体が

  • 当て字

から始まっているのだから、その「当て字」行為を「禁止」するルールが、他の言語のように、できるわけがないのだw 最初からそうなのだから、

  • 無限

に「当て字」がされ続ける日本語は、無限にその「読み」が増殖することを避けられないが、別にそれに、誰も困っていない。困っていると思っているのは、そういったことがやってはいけないと思っている外国の日本語学習者だけなわけで、ではなぜ日本人が困っていないのかというと、

  • 困っているから

というパラドキシカルな状況だ、と言ってもいい。つまり、日本人だって大変だけれども、そもそも日本語とは、そういうものだと思っているから、大変なものを大変だと思わないくらいに、その大変さを「生きている」と言ってもいいだろう。
つまり、これは、もともと「ルール」の話じゃないからだ。
ある「当て字」があったとしても、それが「流行」するかは、まったくの事件性みたいなもので、たんに流行したものは流行した、と言うしかない。そして、もしも流行したなら、

  • 誰もが知っている

んだから、誰もそのことに「困って」いないわけだw
なにか、騙された気にさせられるが、このことは、そもそも「日本語」という呼び方や、外国の方の日本語学習者が、そう呼ぼうとする日本語なるものの「実体」の疑わしさ、を示している、と言ってもいい。
彼らが悩まされるのは、勉強しても勉強しても、次から次から、多くの読みや、多くの単語が表れるこの不合理性を言っているわけで、しかし、その多くは、そもそも現代の日本人の誰も使っていない。
使っていないというと語弊があるわけだが、そういった文語的な表現は、高齢の教養のある人でもないと使っていない、というわけだ。そして、多くの日本人「自体」も、そういった文語的な日本語が

  • 分からない

わけで、そして事実として、その「分からない」ことを理由として、日本での生活に苦労をしている。
外国人にとって、日本語学習が難しいのは、日本人にとっても日本語学習に苦労していることと「同値」なわけで、そういった「多様」な表現が、ほとんど自然発生的なまま、そのまま自体的に保存されている日本語を、より簡略化して、より日本語学習者にとって、習得が簡単なものへと「変える」べきだという議論は昔からあり、その極端な陣営の一つが

  • 漢字の廃止

だ。おもしろいことに、そうやって日本語を「制限」すればするほど、ある種の「同一」的な同意は得やすくなり、科学的な命題の成立可能性は高まるだろう。多くの場合、科学の言葉が「単純」であることは、そのことを意味していて、言語の単純化は、科学の成立可能性を意味していると言えなくもないわけだ。
同じ民族としての、科学的な「同一」性を重要視すればするほど、言語は単純で、少ない表現になるほうがいい。なぜなら、そうであればあるほど、

  • 同じものを「同じ」言葉で、それそれの人が言う

ことになり、その「同一」性を、論理的に決定しやすくなるから。しかし、そういった

  • 人工的

な「ルール」による、言語の「作成」には、どこか人間にとっての「畏れ」があるわけである。
言語が歴史的な文脈において、自然生成的に生まれてきたものであるとするなら、それを、ルールによって、人工的に「整理」して、単純なルールによって

  • 作成

することは、その人間がもともともっていた表現方法の歴史的な多様であったがゆえに、必要十分に満足に思えていたものを、単純にしたがゆえに、その複雑さを表現「できなくなった」がゆえに、その人のボキャブラリーがなくなったがゆえに、

  • 自らの心までが、単純な、簡単な表現しかできなくなる

という意味での、人間の心の「幼稚化」をもたらすのでないか。そして、そう考えることが、例えば、今、ウクライナで起きている戦争に対して、

  • ウクライナが軍備を増強して、ロシアに復讐しなければならない

の一心で、世界中からウクライナが「武器゙」を買うためのお金を、世界中のウクライナを「かわいそう」と思っている人たちが

  • 募金

していることの恐しさを説明するのかもしれない...。