シュタインズ・ゲート

ホロライブのVTuberである、大空スバルがまたまた、ファンからの「意識調査」で、

  • スバルに実況をしてほしいアニメ

ということで、シュタインズ・ゲートが、その中でもトップだったということで、今、アニメの実況をしているわけだが、この女は、まったくこういうことをやることを恥かしいと思わないんだよな。まあ、ある意味で、

  • ファンにこびている

と批判されそうだけど、なかなか、その性根はずぶとい、ということなんだろうね。
しかし、いずれにしろ、下の世代がこういった形で過去の名作にふれること自体が悪いことではない。そして、そういう意味では、前の世代が、こういった作品を正しい形で評価してきたのかが、つまり、ちゃんと、前の世代がこういった議論をちゃんとやってきたのかが問われている、と思うわけである。
というわけで、夏休みということで、改めて、アニメ版を見直しているんだけれど、結局この作品を構成しているポイントはなんなのか、を整理したい。
まず、このアニメ作品で何度も繰り返される世界構成として、以下の三つが語られる。

このアニメは、SFでいえば、タイムトラベル物となる。つまり、

  • 過去や未来に「干渉できる」ことが可能な世界

である。というか、その方法を主人公の岡部倫太郎たちが「発明」した、ということになる。発明したから、それに伴って、物語が進む、ということになる。
最初、ひょんなことから、この「過去や未来に干渉する」方法を発明するわけだが、その最初はDメールと呼ばれているものだった。つまり、過去にメールを送れる、ということだ。そうするとどうなるか? 当たり前だが、

  • 歴史が変わる

わけである。アキバがオタク萌えの街でなく、たんなるビジネス街になったり、男である、るか子が本当に女の子になったり、といった感じに。
(ここで大事なポイントは、この「違う世界」に移ったときに、「それ以前の世界」の記憶を唯一もっている人物がいる。それが、主人公の倫太郎である。)
ところが、である。
倫太郎はその過程で、「あること」に気付く。この世界。つまり、

  • 紅莉栖(くりす)が結果として死ななかったことで、彼女と倫太郎が仲良くなる世界

において、まったく「同じ日の同じ時間」に、倫太郎の幼馴染である

  • まゆりが(方法は違うが)必ず死ぬ

ということに。それに対して、倫太郎はなんとかして、まゆりが死なないようになるように、さまざまに「過去に干渉する」ことによって、結果を変えようとするが、変わらない。
ここで、それなりに自然科学をトレーニングされてきた人なら違和感をもつだろう。まず、「変わってるじゃん」ということである。変わっていないわけじゃない。実際に、まゆりの死に方は、それぞれ違っている。ということは変わっているわけだから、変わっていないわけじゃない。つまり、ここでは

  • まゆりが死ぬ

という(ある抽象的な)事実性が変わらない、と言っているわけで、どこか「文学的」なわけだw 倫太郎はDメールで、何度も何度も過去改変を起こすことで、まゆりが死なないルートを見つけようとするが、ことごとく失敗する。それを、この作品では、

  • 何度も何度も何度も

と、倫太郎に言わせることで、この過去改変が絶対に起きない、という形で運命づけようとする。
しかし、言うまでもなく、フランシス・ベーコンから始まる近代の科学的帰納法は、

  • 何度も「試行」した結果が、(ある抽象度において)「同じ」であることが、次の「試行」においてもそうであることを保証しない

と言ってきたはずだ。
つまり、ここには、ある種の「文学的」な解釈がなされている。ここで「同じ」と言うとき、それは、ある種の「解釈」において同じと言っているのであって、現象として同じことを保証しない。つまり、

  • 同じ時間に、まゆりが「死ぬ」

という「同型性」があるだけで、現象としてはそれぞれ、まったく異なっている。これを「同じ」と言うことには、なんらかの視点の選択があるわけで、つまりは、

  • 誰かが、まゆりが「同じ時間」に「死ぬ」という結果性についてだけは変えないようにしている

ということになる。つまり、ある種の「神の視点」にようなものを想定しているわけだ。
これを、この作品では「収束」と呼んでいる。とにかく、同じ時間に、まゆりが死ぬ「事実」にだけは「収束」するように、全体のバランスが「調整」される、というわけだ。
ようするに、

  • アルファ世界線 ... 倫太郎たちが「過去や未来に干渉する」方法を発見し、それを実際に<使う>
  • ベータ世界線 ... 倫太郎たちが「過去や未来に干渉する」方法を発見したが、それを<使わなかった>

という形になっていて、一期のアニメシリーズは、その後半は、Dメールなどの過去に介入した行為を「全部打ち消して」いく過程となり、その全部が完遂されたとき、ベータ世界線に移る、ということになるわけだが、ということは、それまで倫太郎と懇意になり、共に苦楽を共にしてきた紅莉栖が

  • 死んでいる

世界線に戻ることを意味するわけだから、この「トロッコ問題」に倫太郎は悩む、という構造になっている。
ただ、最終話は、ある種の「楽屋落ち」のような「とんち」のような落ちになっていて、このアルファ世界線とベータ世界線

は、変な方法で解決され、シュタインズ・ゲート世界線に行くことができて、ハッピーエンドとなるわけだが、それが、

  • 世界を「だます」

という比喩によって語られる。問題はなんだったのか? それは、「矛盾」だった。この二つの世界の一方のある特性を変更すると、他方のある特性が変わってしまう、という関係は、むしろ

  • 倫太郎の視点

の「論理的整合性」に関係していた、と整理されるわけである。
つまり、どういうことか?
大事なことは、「倫太郎が紅莉栖が血まみれで倒れている場面を<見た>」という事実性なのだ。つまり、これは実際に見たのだから、この「見た」という事実性は変えられない。もしも変えたなら、その変えたなりの「整合性」のある世界になっていなければ

  • 矛盾

が発生するため、そういった世界線は成立しえない、というだけなのだ。
もうお分かりだろう。
シュタインズ・ゲート世界線に行くためには、倫太郎は過去に戻り、その紅莉栖が死ぬ場面に「介入」することで、

  • 倫太郎が紅莉栖が血まみれで倒れている場面を<見た>

という「事実」を変えることなく、紅莉栖がその後も「生き残る」ようにすればいい。つまり、過去に戻った倫太郎は、紅莉栖が父親に殺された場面に介入して、

  • 倫太郎が紅莉栖の父親にナイフで刺される
  • その傷から出た血の海の中に、倫太郎が紅莉栖を電気ショックで気絶させて倒れさせた
  • その「姿」を、(過去に戻った倫太郎の方ではなく)実際の倫太郎に見させる

ということを成立させれば、

  • 倫太郎の視点からは、「ベータ世界線と矛盾しない」にも関わらず、紅莉栖が死んでいない世界線に行けた

ということになる。
こうやって考えてくると、あることに気付かないだろうか。つまり、これは「神の視点」じゃないのだ。ずっと、

  • 倫太郎の視点

でしかない。倫太郎だけが、リーディング・シュタイナーといって、Dメールなどの過去改変がされる「前」の記憶をもっている。つまり、倫太郎が「神」なのだ! もっと言えば、全てが「倫太郎の妄想」と言ってもいい。実際、この作品は全て、倫太郎の妄想として全解釈を許す構造になっているだろう...。

追記:
シュタインズ・ゲートは「優しい世界」だ。これは一貫して、倫太郎が、まゆりを救う作品として展開し、その過程で倫太郎が紅莉栖と共に、この問題を解決しようと苦楽を共にする中で、最終的な結論が、<まゆりを救うことが紅莉栖が死ぬことと同値>であることに気付き、この過程を通して、もはや紅莉栖が他人とは思えない相手となったことで、今度は「紅莉栖を救う」目標を抱えざるをえなくなる、倫太郎という「優しい男」の物語なわけだ。このパズルの答えはあるのか? いや。このパズルの答えを本当に見付けられるのか、を問うたのが、テレビアニメシリーズの第2期となる「シュタインズ・ゲート・ゼロ」となるわけだが、なんともこの壮大な物語は、「過去や未来に干渉する」方法を発見し、それを実際に使うことを選んだがゆえに、

  • その目的の実現のために、執念を傾ければ、どういう形だったら、これが実現されるのか?

の一つの思考実験のようになっているわけだが、まあ、このあまりにも

  • ロマンティック

な物語の「結果」においては、「ここまでやんねえと実現しないのか」という、壮大すぎる形式となっているわけでw、これを

と(あまりの執念に、ただただ呆然と)思うか、

楽天的に喜べるかは、人によるのかもしれない...。