『観光客の哲学』と「統一教会」

東浩紀先生の『観光客の哲学』は、おそらく、これを「なにも知らない」で読んだ多くの人は、なにか

  • 気持ちの悪い

ものを読まされている、という感覚に襲われて、ある一定の「吐き気」に襲われたんじゃないだろうか。
その理由は、ひとえに彼の「文体」にある、と言える。つまり、この文章が

  • くねくね

していて、まともに見ていられない「恥かしさ」に襲われるわけである(ここで「くねくね」と言ったのは、彼が津田さんとの対談で、天皇を馬鹿にした発言をして、二人で「もりあがって」いたたときの「くねくね」を揶揄しているわけだがw)。
つまり、問題は彼が何を言いたいのか、ではない。つまり、「内容」ではなく、その「文体」にこだわる、ある種の「美意識」の、ゲロを浴びせられているような、腐臭なわけだ。
では、その正体は何か、ということにあるが、それが「二元論」である。昔、彼は今では有名になった、國分功一郎さんとニコニコ動画で対談をしたとき、酔った勢いで、「自分の哲学は二元論になっている」といったようなことを言っていたわけだが(これに対して、ドゥルーズは一元論だ、みたいな流れで)、問題は

  • 彼の書くもの<すべて>

が、この「二元論」になっている、という所にこそ「本質」があるわけであるw このことは恐しいことに、あの200文字しか書けないツイッターのつぶやきでさえ、「すべて」再現されているわけで、つまり、

  • Aについては、これこれこうだけど、Bについては、これこれこうだ。

という形で

  • 必ず

なにかに対しては、なにかが「対立」する形で「つぶやかれて」いる、わけである。
この「気持ち悪さ」は分かるだろうか? ようするに、絶対に何かを「積極的」に語らない、と言いたいのだ。なにかを誰かが積極的に語ろうとすると、必ず、それに「対立」する意見が表われる。そして、その

  • 二つ

は、一定の対立の中で、いろいろと意見がもまれながら、その対立は解消するという形ではなく、ある

  • 別のステージ

に上がる、といった感じの変換を経て、次の意見になる。
ところが、である。
その新しく生まれた意見でさえ「必ず」なんらかの、対になる「対立」した意見が現れて、その対立が少くともしばらくは、続く、というわけである。
(あー、なんか昔、よくこんな話を聞かされたな、と思った方はいるかもしれない。あの、有名な

だよねw 事実、『観光客の哲学』では、これが自明の前提として扱われている。)
では、このことが何を言っているのか、ということになるだろう。まず、

  • 絶対に、この意見の「対立」は避けられない。という意味で、この構造は「運命論」的だ

というわけだ。次に、

  • この「対立」は政治で言えば、「革新」と「保守」の関係を再現しているわけで、つまり、絶対に「革新」はそれそのものとして、肯定されない

と言っていることになり、つまりは、必然的にこの立場は、

  • 保守の「正当化」が目的にされる

という構造になっているw
まず、『観光客の哲学』から、この主張の典型的な「文体」を引用してみる:

たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産むべきであり、そのためには経済的あるいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。そしてこのふたつの道徳判断は、現代社会では(奇妙なことに!)矛盾しないものと考えられている。その合意そのものが、ぼくたちの社会が、規律訓練の審級と生権力の審級をばらばらに動かしていることを証拠だてている。国民国家は出産を奨励できないが、帝国は奨励できる。それが現代の出産の倫理である。

上記の引用が「気持ち悪い」のは、ある「意見」には

  • 必ず

それに「対立」する意見があり、その二つは「どちらも成立する」という、二元論の世界観なわけだろう。つまり、東浩紀先生は二元論を信仰しているから、二つの対立する意見は、「どちらも」成立しなければならない(そうれなければ、自分の「美意識」に反してしまう)、という

を言っているに過ぎないわけねw 普通に考えて、男性と女性はお互い、いい年齢になったら、それぞれ、特定の相手を「好き」になって、そうなったら、勝手に二人は一緒に生活して、子どもを産んで育てているわけでしょ。つまり、なんにも

  • 矛盾していない

わけ。実際に社会はそうなっているし、そうなることが間違っているとも誰も思っていないことを、

  • わざわざ

パラドックスとか言って、不思議がっているのは、

  • 彼が勝手にそれを「二元論」の問題だと、言っているから

に過ぎないわけねw
そして、これとまったく同じようなことを、「家族」についても言っている:

それはつぎのように言い換えることもできる。ひとは個人=私のためには死ぬ。国家のためにも階級のためにも死ぬ。同じように家族のためにも死ぬ。だから家族は新しい政治の基礎になりうる。他方でひとは趣味のサークルのためには死なない。だからそれは新しい政治の基礎になりええない。ルソーは『社会契約論』で、ひとは一般意志のためには死ななければならないと記した。全体主義を肯定するものとして悪名高い一節だが、しかし政治の本質を鋭くついてはいる。ルソーが一般意志の概念を政治の基礎に据えることができたのは、彼がそれを「ひとがそのために死ぬもの」だと捉えていたからである。死の可能性のないところに政治はない。いまの左翼はそのことを忘れている。

これも、主張が逆転しているわけね。それは、今話題の

のことを考えれば分かるわけでしょ。統一教会は、時の政権に「寄生虫」のように、内部から侵食していって、最後には、白アリのように、食い尽してしまう。国家権力を自らに「逆らえない」存在へと堕落させた後で、彼らは

  • 信者獲得
  • 信者からの法外な献金

を「実現」する。その方法は、まさに「家族」を使う。まず、その「捕まえた」信者の、家族、親戚を含めた「全ての財産」を白状させる。そして、その財産を、その信者に「盗んで」こさせる。これを、それらの親戚を含めた財産目録からなくなるまで絶対に止めさせない。言うまでもなく、これは「犯罪」であるわけだが、当然だが、家族は「身内」である、その信者を牢屋に入れることをためらう。しかし、ためらうからこそ、統一教会は、その信者を「この方法」によって、骨の髄に染み込むまで、金銭地獄に落とし続ける。
対して、国家権力はこの「犯罪」をとりしまらない。なぜなら、(さまざまな弱味を握られた)自民党が完全に、統一教会の「言うがまま」の集団になっているため、警察や検察が、この犯罪者集団を牢屋に入れることを

  • やらせない

ように、裏で圧力をかけているから、だ。
つまり、どういうことか?
上記の引用がおかしいのは、

  • 世界中の犯罪者は、なんとかして、この「家族の愛」から、莫大なお金儲けをたくらんでいる

という端的な事実が抜け落ちている、ということだ。つまり、まるで

  • 美談

のように、この「統一教会によって、日本中の家族がお金をむしりとらて、破壊されている」という事実を描いている、というところに

  • 悪質

性があるわけである。早い話が、東浩紀が言っていることは、「他者支配に<家族>を使うと便利だぜ。そうだ、統一教会のみなさん、<家族>を使えば、いっくらでも、お金儲けができますよ。日本人なんて、みんな、ちょろいですよ。これで、日本人からお金をむしりとって、韓国に送金しましょう!」って、まさに、

  • コンサル

として、アドバイスしているのと変わらない、ことを言っている、ってことなのね。
つまり、さ。なんにも分かっていないのはお前だった、ってわけw
そして、より分かりやすい例として、この本ではチェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』が批判的にとりあげられる:

ヴェーラには最初に恋人がいる。けれども彼とは思想が合わない。そこに新しい男性が現れる。いろいろあったすえに、ヴェーラはそちらとつきあうことに決める。ところが元恋人は嫉妬したり悲しんだりすることがない。彼は、すべてを受け入れ、新しい恋人とも意気投合し、最終的には三人で共同生活を始める。このいっけん奇妙に見える展開は、物語のなかでは「新しい人間」という言葉で描写されている。新しい社会を築くには、人間も新しくならねばならない。それがヴェーラたちが繰り返し言う言葉である。排他的な私的所有を放棄し、物品だけでなく異性すら「共有」しようとする登場人物たちのすがたは、その新しさのモデルになっている。ヴェーラはつぎのように(いささか性的な連想をともないかねない比喩を使って)語っている。「発達した人間には嫉妬心などをもつ余地はありません。これはゆがめられた虚偽の感情、いとうべき感情です。これはほかの者にわたしのシャツを着させない。ほかの者がわたしのパイプでたばこを吸うことをゆるさないというのと同じで、人間を自分の所有物と見なすことからそういう考えが生まれるんです」

ここから、東浩紀先生はドストエフスキーの『地下室の手記』で行われたチェルヌイシェフスキー批判を引用するわけだが、ようするに、

  • 人間はそんなふうにできていない

だと。

『何をなすべきか』では、男ふたりと女ひとりの共同生活が理想として描かれていた。それに対して、ドストエフスキーは、たんにそれが非現実的だと言っただけではない。男が女を取られてもいわけがない、もしそういうことがあるとすれば、それはおまえが女がほかの男に抱かれるのを見て興奮する変態なだけだからだ、と残酷な観察を突きつけていたのである。
地下室人はたんに社会主義者を批判しているわけではない。もしそうならば、社会主義のすばらしさを説き、地下室人を改心させればいい。実際にそれがチェルヌイシェフスキーの(そしていまにいたる左翼の)戦略でもあった。
けれども地下室人は、むしろ社会主義の偽善を指摘している。ユートピアの理想に隠された倒錯的な快楽、正しいことをすることのエロティックな歓びに気づいてしまっている。

ここの文章も、まるで、チェルヌイシェフスキーとドストエフスキーの「二元論」であるかのように、東浩紀先生によって

  • 構成

されているわけだけど、まず、『何をなすべきか』の男ふたりと女ひとりの共同生活は、一つの

  • 実践

なわけでしょ。だとするなら、他者がどうこう言うことじゃないわけでしょ。次に、ドストエフスキーの批判は、「男が女を取られてもいわけがない」と、もしもそんなことがあるとするなら、そんなの「変態にきまっている」という

  • 決めつけ

ですよね。別に、実際にそういった「共同生活」を観察した上で発見した事実というわけでもない。つまり、

  • きっとそうなはずだ

と言っているに過ぎない。人間なんて、絶対に「家族」がら逃れて生きられるわけがない。そう言っている、東浩紀先生と、まったく同じですよねw
つまり、さ。『何をなすべきか』の男ふたりと女ひとりの共同生活の例を出すことによって、東浩紀先生が言いたいのは、

  • 人間にとって、「家族」の関係を逃れて生きられるわけがない。だから、統一教会のみなさん。「家族」を使って、集金して、韓国に送金するテクニックは最高に有効ですよ

って、コンサルとして「アドバイス」しているのと変わらないんだよね...。