八目迷『夏へのトンネル、さよならの出口』

ほとんどなんの情報ももたないで、映画館で、アニメ「夏へのトンネル、さよならの出口」を見たわけだが、これも、そこまで深く考えたわけでもなく、そのまま、2日くらいかけて、原作のラノベを読んだ。その間には、いろいろ情報をしいれていたので、映画と原作がかなり違っていることは知っていたので、それなりの覚悟はして読んでいたわけだが、それにしても、いろいろと読んだ印象が違っていたことは確かだった。
私がアニメを見たときにもった印象は、この「ウラシマトンネル」というのは、

  • 自殺

のアナロジーなんだろう、といった直観だった。もちろん、そうであると映画で断言されているわけではないけど、おそらく、ここまで原作を「縮めて」「改変した」過程で、つまり、説明を省略していく過程で、そういった方向の「示唆」をしていると受け取られても仕方のなかった描写が増えていた、ということなのかもしれない。
映画を見た直後に私が考えていたことを正直に言えば、三十歳で首をつって自殺した俳優の三浦春馬や、まるで、彼の後を追うかのように自殺をした、女優の竹内結子のことを考えていた。三浦の場合が衝撃的だったことは言うまでもないとしても、竹内の場合は、そもそも自分の子どもがまだ幼ないのに、、本当に自殺だったのかが疑われたりもした。その後、昔から深酒の習慣があったことや、生前に、かなり三浦と竹内は「精神的な繋がり」を思わせるような、親交があったことなどが報道をされて、結局は死んだ人たちのことを残された側が、いろいろと想像をしても、なにもはっきりしたことが分かることはないわけで、そこで考えることを止めるわけだ。
この作品では、主人公の塔野カオルという少年は複雑な家庭環境にあることが前半で語られる。まず、自分は父親の実の子どもではない。つまり、母親が別の男と産んだ子どもである。次に、今が18歳の彼は、5年前に、10歳の妹を事故で亡くしている。それまで、ずっと、仲のよい兄妹として育ってきたのに、突然の事故だった。これを彼は、ずっと自分が悪いと考えて育ってきた。そして、この死をきっかけに、母親は失踪し、父は酒癖が悪く、暴力をふるうようになる。
高校生の彼は、線路のそばの脇道を辿って、あるトンネルを発見する。そして、その先の鳥居の先は、つい先日、女子高生の会話を立ち聞きしていた都市伝説と同じく、「欲しいものを手に入れられる代わりに、ここに入っていた時間に比例して、ずっと早く歳をとる」

  • ウラシマトンネル

であることを発見する。
それ以降は、彼が彼の妹である「カレン」を、そのトンネルから「取り戻しに行く」話となっている。
映画では、そこは、かなり省略して描かれているのだが、ここで「歳を取る」ということが、ほとんど「自殺」を意味しているように読み取れる。だから、カオルが、一緒にトンネルに入る約束をしていた花城エレンを残して入る場面が、

  • 一人で自殺をする

というように読めたわけだ。
ところが、である。
原作を読むと、この「自殺」のイメージは、かなり弱い印象がある。というのは、実際にカオルは、カレンを「連れ戻そう」としているからだ。

「......なんのこと? 言ってる意味が分かんないよ」
クマノミは海の魚だから、川の魚じゃ生きられなくて、ずっとイソギンチャクに隠れてる。でも、サケは違うの。海でも川でも、元気に泳いで、滝だって昇っちゃう。おまけに、食べるとおいしい」
「そうだね。サケは美味しいよ。でも、それは今、関係ないよね」
「あるよ。お兄ちゃんは、サケ なんだよ。でも、あたしはクマノミで----」
「バカなこと言うな!」
思わず、大きな声が出た。
「カレンはカレンだろ? クマノミでもサケでもない。どこへだって行ける。だから、そんな悲しいこと言わないでくれよ...」
長い時間をかけてやっとここまで来たのだ。今さら一人で帰るなんてできない。
「大丈夫だよ。あたしはいつでも側にいるから......だから、ね」
カレンの手から力が抜ける。
「お兄ちゃんも、今を生きて」
トン、と軽く背中を押されて、僕は前につんのめった。
「カレン!」
名前を呼ぶと同時に後ろを振り返った。
そこにカレンの姿はなかった。

この原作には、そういった意味で、なんというか、主人公に「自傷性」の衝動が、そこまで直接的に描かれている場面が少ない。そうじゃなく、かなり本気で、妹を

  • 生き返らせる

ことを自らの生きる「目的」としているような、そういった、(変な言い方だけど)「前向き」な存在として描いている、という印象を受ける。
そう考えると、この作品のラストでも、塔野カオルと花城アンズのハッピーエンドは、まあ、納得させられるエンディングだったんじゃないか、という印象に変わるものがあった。
大事なポイントは、カオルがエレンを探すために、トンネルに入るときに、アンズを連れて行かない決断をしたことだろう。映画では、ここはむしろ

を想起させる行為として視聴者に解釈させる描かれ方をしているわけだが、逆に原作の方では、ここから、エレンが

  • 東京に上京することなく、地元に残って、漫画を描き続ける

という展開になるのだが、おそらく、ここが一番に違和感のある個所となる。
つまり、エレンは最初から、カオル以外の男性と関わることを避ける、という決意が、ここに込められている。田舎にいる限り、そんなに人との付き合いなんて増えないからだ。もしも、東京に上京を選んでいたなら、そこには多くの男性もいるわけで、多くの出会いもあったわけだろう。まあ、そういう意味では、ここが童貞臭い、プラトニックラブっぽい印象ということになるのだろうw
ところが、原作を読むと、エレンはかなり考えている存在として描かれている。まず、彼女は、この「トンネル」の中の時間のスピードがどれくらいかを知りすぎるくらいに知っている。
つまり、エレンは5年後の、自分が漫画家として成功した後(連載漫画を完結させた後)に、カオルを連れ戻すために、トンネルに入って、そこで、帰還途中で再開したカオルと二人で、このトンネルを脱出するわけだが、このエレンの連れ戻し劇の間にも、かなりの年月がかかっているわけだ...。