アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」第4話について

前回、紹介した子安宣邦『神と霊魂』は、宣長批判の左翼の本というより、もともとも主題は、宣長の「神」概念や、平田篤胤の「御霊」概念の紹介(現代語訳)が前半の中心になっている。
別に、今さら改まって言うまでもないことだが、1960年代に、小林秀雄などが宣長を再発見したとき、古事記という書物が、戦前の皇國史観と同値のものとして、「つまらない」ものとして受け取られた、ということを意味しない。やはり、それなりに

  • 学問的

に価値のあるものとして読まれた、ということを前提にしている。いずれにしろ、あの時代(飛鳥時代)に、これだけのものが「書かれた」というだけで、驚異的な書物であることは変わらないわけだ。
そして、その「内容」においても、いろいろと興味深い認識があることが言われている。

さて、およそカミという存在は、古代の記紀などの書に見えている、天と地のもろもろの神たちを始めとして、その神たちを祀っている神社の御霊(みたま)をもいうのである。また人だけではなく、鳥や獣(けだもの)、木や草の類い、さらに海や山でも、そのほか何であれ普通ではない特別にすぐれた徳(ちから)をもち、人が恐れうやまうべき存在をカミというのである(「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。」)
【ここで「すぐれた」というのは、その尊さとか善さとか、その功徳のすぐれていることだけをのではない。悪く、奇怪であっても、世にすぐれて恐るべきものを神というのである】

まあ、一言で言えば、「アニミズム」が残っているわけね。世界宗教となった、キリスト教なんかだと、こういった定義はない。もっと「人格神」としての、ゴッドは、厳格な定義がある。
現代人も、日本語でよく「すごい」と言うけど、この感覚に近いわけだ。形容詞だから、比較級なわけだけど、この比較の量として、ある一定を超えると、昔の人は「やおよろずの神」と言ったように、全部それを

  • 多い

と言ったわけだ。こういった、一定の閾値を超えた存在を指示するものとして、神という言葉が日本で使われてきたし、ある意味で、今の方がそれは、悪ふざけとして、人口に膾炙している。
おそらく、日本人が「才能」という言葉を

  • 信仰

したがるのも、これが関係しているのかもしれない。「才能」という言葉は(たとえ、別の言葉としてだったとしても)、一種の「他者支配」の方法として、伝統的に機能してきた側面がある。
では、こういった神概念があったとして、歴史的文脈として、最初の神として古事記で提示されているのが「高御産巣日神タカミムスビノカミ)」である。

それゆえ産巣(むすび)とは、すべての物を生み成す奇(き)しびな神霊(みたま)を申すのである。高御産巣日神神産巣日神の外にも、火産霊(ほむすび)・和久産巣日(わくむすび)・玉留産日(たまうけむすび)・生産日(いくむすび)・足産日(たるむすび)・角凝魂(つぶこりむすび)などという名をもつ神々があるが、その名のムスビの意味はすべて同じである。

神と霊魂

こういった形で、古事記コスモロジーは全て

  • 生成

によって記述されている。まったく何もないところから、「何か」が、まさに「苔」のように、産まれて、むしていくイメージだ。つまり、こういった

  • 自律した生成

を、日本神話は極端に肯定している形式となっている(おそらく、アニミズムの原初的な特徴なのだろう)。
しかし、そうは言っても、私たちは生きていて、普段そんなことは考えない。
しかし、そうはいっても、いろいろなところで、実は、大きな影響を与えているんだと思うわけである。

リョウさん「私、昔は別のバンドにいたんだけど、そのバンドの青くさいけど、まっすぐな歌詞が好きだったんだ。でも売れる為に必死になって、どんどん歌詞を売れ線にして、それが嫌になったから、やめたんだ。」
リョウさん「個性を捨てたバンドなんて、死んだのと一緒だよ。前のバンドも結局、解散しちゃったし。私このバンドには、死んでほしくないな。だから他人の事考えて、つまんない歌詞書かないで、自分の好きなように書いてよ。皆ぼっちがいいと思ったから、頼んでるんだ。バラバラな個性が集まって、それがひとつの音楽になるんだよ。」
ぼっち「リョウ先輩、しっかりした人だったんだ...」

今週のアニメ「ぼっち・ざ・ろっく」の第4話において、ちょうど、原作の上記の引用個所が描かれている。主人公の引きこもりのぼっちちゃん(後藤ひとり)が、バンドの曲の歌詞の作成を担当することになって、でも、バンドの他のメンバーの「陽キャ」なイメージを傷つけたくないとして、無理して前向きな歌詞を書こうとしたことを、先輩に、たしなめられる場面だが、リョウ先輩が怒ったのは、ぼっちが

  • 本当の自分の姿

を表現しようとしなかったことだ。自分が今、こうあることは抗いがたい事実であって、そのように「生成」したのであって(!)、そのことそのものを肯定しよう、という、宣長のカミ概念にも繋がる認識だと言えるのではないか...。