ニコラ・ジザン『量子の不可解な偶然』

今年のノーベル賞は、ベルの不等式に関する実験に関わった人たちがまとめて受賞したわけだが、少し物理学の歴史を知っている人にしてみれば、

に関して、ノーベル賞が与えられるというのは驚きなんじゃないだろうか。というのは、量子力学の歴史は、コペンハーゲン解釈から始まって、

  • 哲学ではなく技術

として、その研究が進んできたからだ。ところが、このベルの不等式は、まさに、量子力学の「哲学」に深く関係した結果に関するものであり、まるで、新たに、

が、ここにきてクローズアップされてきた、そんな時代が到来した、かのような印象を与えるからだ。
しかし、である。
おそらく、そうではない。ここでベルの不等式に関する実験にノーベル賞が与えられることは、ひとえに量子力学の「コンピュータへの応用」が今、さまざまに注目されているから、と考えるべきだろう。
言うまでもなく、ベルの不等式とは

をめぐる議論の中心に位置する不等式なわけだが、掲題の本はこの量子もつれを巡って、かなり深く議論をされている。
そして、この本の、まえがきに、アラン・アスペという、今回ノーベル賞をとった人が書いている、という特徴がある。
量子力学における「量子もつれ」という、

  • 非局所性

という特徴は、私たちの認識の根底を疑わせるに十分な結果であると思われるわけだが、なぜか「文系の人たち」は、この事実に直面しても、まったく、なにも分かっていないかのように、

とかいった、「いかにも文系のおもちゃ」的なアイデアで、きゃっきゃうふふ、するのに忙しいみたいでw、まったく、ぴんと来たような反応をしない。おそらく、量子力学は「ミクロ」の世界の話だから、自分たちの研究の範疇とは関係なく、研究できる、と考えているような、なんとも呑気な人たちだ。
しかし、そんなことでいいんだろうか?
まず、現代の哲学を決定した、フランシス・ベーコンのノルム・オルガヌムが示していたことは、

  • 経験論

であり、つまりは、科学だった。そして、そこで語られたことは、

であった。つまり、

  • 実在の定義 ... なんど確認しても同じ結果になる

であったと言っていい。この延長で、ニュートン物理学が登場し、特殊相対性理論で完成した。ここにおいて、重力の「遠隔力」は、

  • 光の早さを超えない

という形で、一つの「局所性」の解釈の中で安全に閉じられたのだ!
つまり、アインシュタイン特殊相対性理論は、徹底した「局所性」が保たれている。どんな遠隔力も、「光の早さを超えない」という形で、有限の速度で伝播して、影響を与える。

  • これに例外はない。

とされていたわけである。事実、それまでの科学の歴史の中で、これと矛盾した結果が得られたことはなかった。
ところが、である。
ここに、量子力学が登場した。この量子力学は、それまでのフランシス・ベーコンが言っていた「経験論」が通用しない。なんだか変な理論なのだ。
まず、物理量が確定しない。重さを測定すると、位置が確定しないなど、「どれか一つ」しか

  • 理論的に

知ることが「できない」ことが分かっている! ここで、ある疑いが生じるわけである。

  • そもそも、こういったものを「実在する」と言っていいのか?

と。それまで、実在とは、「経験論」と区別できない形で語られてきた。その定義は上記にあるように、

  • 何度測定しても変わらない

としてあった。ところが、量子力学は、その測定が理論上、アプリオリに「条件」が課されている。この「条件」を満たす形でしか、そもそも「実験ができない」と言っている。つまり、「経験論の限界」が示されている。
この「壁」を強引に突破して、経験論を「守ろう」とする人が現れたとしよう。この人はどうするかというと、

  • 観測される<以前>の実在

を主張することになる。アインシュタインが「月を見る前に月が存在しないかもしれないと思ったことはあるか?」と問うたように、観測しなくたって、

  • この世界も、この世界を構成しているモノも「実在する」

ことを疑うこと自体が、どうかしているんだ、と主張する。
しかし、である。
もしもそうだとすると、「経験論」という理論が、その根底が急速に怪しくなっていくわけである。経験論は、あらゆるこの世界の法則は「観測」によって構成できるはずだ、と考えた。ところが、量子力学では、すでに「ある条件の範囲でしか、観測ができない」ことが分かっている。だとすると、観測する「以前」の

を「仮定」するしかない。しかし、<この>仮定の論理的な保障を経験論は与えられるのか、が理論的な不可能性として疑われてくるわけである。
(ちなみに、現代の分析哲学では、この問題を「ノイラートの船」によって説明することが通常だ。ようするに、「それしかない」という考えである。どうせ、経験論しかないんだから、<その中>で、いろいろとトラブルもありつつ、もまれて、もまれて、理論は進歩していく、と考えるしかない。あらゆる理論は自己言及的な構造とならざるをえないのだから、その事実を受け入れた上で、一人一人の努力の可能性に賭けるしない。どうせ悩んだって、いいアイデアが出てくるはずがないんだから、もう、こういった杞憂で悩むことを止めよう、と。つまり、「常識」で考えて、世の中は、単純で、うまくいくようになっているはずだ。なぜなら、今まで、それなりにうまくいっていたんだから、と。一種の、プラグマティズム的な楽観論と言っていいもので、もっと言えば、キリスト教への信仰告白にずっと近づいている、ということなのかもしれない。)
量子もつれ」は、瞬時に地球の裏側で観測した結果が、こっちの観測と「同期をとる」と主張するものであり、これを普通に解釈すれば、完全に、「非局所性」を現している。というか、こんなに分かりやすい「非局所性」の例が、この地球上にあるのに、今だに、文系の人の「常識」は、この事実がまるで存在しないかのように、「振る舞う」ことなのだから、なんなのかな、と思うわけである。
なるほど。
では、ここで少し、たちどまって考えてみよう。
つまり、これは「矛盾」なのだろうか、と。普通、物理学の実験結果は、それに対応する「数学モデル」によって整理されるはずだ。そうでなかったら、それを理論と呼ぶこと自体ができないから。だとするなら、その「数学モデル」は無矛盾である、ということになる。どういうことなのだろう?

この理論体系においては、奇妙な相関は量子もつれから生じ、私たちの住む3次元空間よりもはるかに大きな空間中を伝わる波のようなものとして記述されている。そのような「波」が伝わる空間----物理学者はこれを配位空間と呼ぶ----の次元は、もつれる粒子の数に応じて決まる。正確に言えば、その大きな空間の次元の数は、(各々の粒子に3次元空間が別々に割り当てられることにより)もつれる粒子数を3倍した数と一致する。配位空間における各点は、すべての粒子の位置をまとめて表しており、それは粒子たちが互いに遠く隔たっている情況も含んでいる。そのため配位空間では局所的な事象であっても、まったく遠くに離れた粒子たちに対しても関与することができる。しかし、私たち人間は配位空間をそのまま見ることはできず、実際に起こっていることの影だけを見ているに過ぎない。それぞれの粒子は私たちの住む3次元空間にその影を投影するが、それは私たちの空間の位置に対応する各々の粒子の影である。したがって、1つの事象が生み出す個々の粒子の影たちは----配位空間における1点から生み出される影であったとしても----私たちの空間では互いに遠く離れていることがあり得るのだ(図5.2を見よ)。

ようするに、例えばこの「量子もつれ」を数学モデルで記述したものが6次元で表されるとして、その「状態(=6次元空間の1点)」が、私たちの3次元空間で、距離の離れた2点の「影」として表現することが普通にありうる、という意味で、

  • 数学的には困ることがない(=数学的に矛盾しない)

というわけである。
しかし、そうだとしても、やはり違和感はあるわけである。というのは、上記でも言ったように、特殊相対性理論までは、そういった非局所性の現象が「発見されなかった」わけである。だとするなら、この二つには、なんらかの、本質的な違いがあるんじゃないか?
なにが今までの現象と、量子力学の現象は違っているのか? どういった「からくり」があることが、この二つを「分けて」いるのか?
そういった視点で考えると、そもそも、量子力学には、もう一つ、本質的な「特徴」があることが知られている。それが、

  • ランダム性

である。

「訳者まえがき」で述べたコイン投げは確率現象の典型例だが、出た「表」、「裏」の結果がランダムに見えるのは、コインを投げる際の初期条件(位置や投げ上げ角度、さらに周囲の空気の状態など)を知らないからである。しかし、もしこれらすべての条件を正確に知ることができたら、コイン投げに現れる見かけ上のランダム性を排除でき、結果を完全に予測することができるだろう。
(木村元、筒井泉「訳者解説」)

ここにあるように、そもそも、サイコロやコインの「ランダム性」は、ランダムに見えるだけで、全ての条件を決定できるなら、その動作を予測することができる。そう考えるなら、それまでに知られていた

  • すべて

の「ランダム」とされている現象は、そういう意味では「決定」されている、と理論的には言うしかないものである(例えば、今までにプログラミング言語でよく使われている、ランダム関数も、本当のランダムではないw 比較的に、「性質のいい」繰り返しが、直近で少ない、ランダムに見える数列を使っているにすぎないw)。
ところが、である。
量子力学の理論が本質的に内包している「ランダム」性は、まったく、ベルの不等式と同じような論法で、

  • 本当のランダム性

と考えるしかない、と知られている。つまり、この世界で、唯一、「マジのランダム性」として、この世界に誕生した現象である(つまり、そう考えるなら、プログラミング言語のランダム関数だけじゃなくて、あらゆる「ランダム関数」を、この量子力学のランダム性「から」出力するように、組込むことが真剣に取り組まれるだろう)。
つまり、このことから、

という関係になっているんじゃないか、と言うわけである。つまり、量子力学では、本質的は「ランダム性」が理論の中に含まれている「から」、量子力学が「非局所性」の性質をもつことを可能にしている、トレードオフの関係があるんじゃないか、と推論するわけである。
(逆に言えば、なぜ、特殊相対性理論の理論モデルの中に、「非局所性」をもった対象が一切ないのかは、この理論の中に、「ランダム性」が含まれていないからだ、と...。)