ラブライブの「倫理コード」

正直、アニメ「ラブライブ・スーパースター」2期の脚本は、多くの批判があり、私もかなり書かせてもらったわけだが、そうやって書いている時も、「なぜこれが、さまざまなチェックを経て、合格になったのか」というのが疑問だった。
これを「合格」としたのには、なんらかの「基準」があって、それを満たしたからだろうと考えるしかないわけだが、だとするなら、それはなんなのか、というのが気になったのだ。
見てもらえば分かるように、正直、アニメーションとしての「完成度」ということでは、かなりのレベルにあると思う。ほとんど、手抜きと思えるような場面もなく、かなり早い段階から、制作をしていたんだろうというのが分かるくらいに、絵の丁寧さは、郡を抜いている。
ところで、今、「スクールアイドルミュージカル」が行われている。
今回の、「スクールアイドルミュージカル」は、ネット配信がないということで、東京での公演を、新国立劇場で見た人しか、その全貌が分かっていない(とはいっても、゜前半のかなりの内容は、ユーチューブの動画で公式が公開しているわけだが)。
その中で、実は、当日の物販でパンフレットが売っていて、その中に、今回の脚本・演出・振付の岸本という人の対談が載っている。これを見ると、基本的にこの人が、今回のミュージカルの「企画」を提示したら、合格した、といった経緯が説明されていて、つまりは、

  • ラブライブのファンのミュージカル制作の人が作った「二次創作」

といった色彩が強いものになっている。言わば、

  • まったくの外部

の人が、「ラブライブ」をやらせてください、とやってきて、実際に「ボクが考エタ最強ノ」ラブライブを脚本にしたら、

  • それを公式にします

と言われた、といった流れが経緯だった、というわけであるw だとすると問題は、今回のミュージカルを「ラブライブの公式のコンテンツ」として、どこまで、ファンが認めるか、ということになってくるんだと思っている。
言うまでもないが、今回の内容は、そもそも今までのものと違っている。多く違っている。つまり、

  • この脚本を作った人の「人生観」

のようなものが多分に反映されていて、これを「ラブライブシリーズと呼ぶ」ことに抵抗を感じるわけである。なんか違うな、って。
実際に、日が経つにつれて、その「違和感」は大きくなる。なんか、「異質」なところから作られた、その人の「哲学」を、既存のラブライブというコンテンツ、これまでの「ブランド」に、そういった

  • 異物

が混入された、といった気持ち悪さが、どうしても、ぬぐえない。
ところで、この対談の話し相手として、ラブライブシリーズの企画プロデューサーの若林悠紀という方がされている。

若林:脚本はアニメと同じ方法で制作させてもらいました。みんなで脚本を読み、話し合いながら進めていただきました。

ここから分かるように、ラブライブシリーズのアニメ脚本が、どのように作成されてきたのかがよく分かる一節だと思っている。
まず、ある話数の脚本が完成したとき、こういった形で、企画プロデューサーなどが、一同に集まって、いろいろと意見を言う場をもうける。まあ、ある種の「ブレイン・ストーミング」ですよね。みんなで「ネタ出し」して、それを反映して、と。
しかし、こういった制作方法は、そもそもの、

  • 全体としての矛盾点

などの、作品としての品質を維持するための方法としては、かなり欠点があるやり方という印象を受ける。
こういった方法で指摘される内容とは、この企画プロデューサーが「どういった倫理コードをもってチェックするか?」といった視点に、どうしても偏ってします。つまり、この企画プロデューサーは、こういった場での

  • ある役割

を演じる人として、期待される観点からばかりチェックすることになり、そして、そういった役割をやればやるほど、その人の評価も上がる、という関係になってしまう。
言わば、この企画プロデューサーは「ラブライブとは、どんな優しい世界を描くものなのか?」「ちゃんと、みんながハッピーか?」とか、そういった形で、ある種の

  • 倫理コード

ばかり気にしてしまい、逆に言うと、

  • それ以外のこと

が、おろそかになりがち、なのだ。
ちゃんと「優しい」作品にすれば、ファンは満足なのかもしれない。しかし、作品を作品として見ている、一般の視聴者にとっては、この世界が優しいかどうかじゃなくて、「興味深い作品なのか」といった視点で見ているわけで、ちゃんと、作品としてのエンターテイメント性の高い、興趣をそそるものかが重要になってくる。
そういった視点で、もっとも大事なのが「矛盾がないか?」だろう。ちゃんと、物語をなしているか? しかし、こういった部分こそ、上記のブレイン・ストーミングによって、膨大に出される倫理コードによって、逆に「おろそか」にされがちな部分だと言えるのではないか。
あまりにも指摘が多く、倫理コード的に、直さなければならない点が多くなればなるほど、本来なら余裕があったはずの、さまざまな、脚本テクニック上、さぼることができなかった場面が、適当に省略されることになり、結果として

  • 全体の品質を落とす

ことになる、「パラドックス」が起きがちなわけである...。