京大准教授の宮澤孝幸の正体

新型コロナの流行の初期から、主にツイッターで大騒ぎをしていた、京大准教授の宮澤孝幸先生については、このブログでも何回もとりあげてきたが、彼そのものは、なんというか、そういった「中の人」からは、

  • 名物先生

として有名な人なんだそうだ。つまり、こういった人騒がせな「騒動」を起こす、今はやりの言葉では「炎上」を起こすことを日常的に行う人として。
彼は最初は、スウェーデンのテグネルが行った、ノーガード戦法を礼賛した。なぜなら、もしもそれによって、日本経済が萎縮したら「莫大な自殺者が出る」から、と。
ところが、である。それ以降、彼は、まったく、この「自殺者」の話をしなくなった。そりゃそうだ。そんな「自殺者」は存在しなかったからだ。
いや、それだけじゃない。
おそらく「事情が変わった」のだ。それが、mRNAワクチンの登場だ。
これが、レジームチェンジを起こしてしまった。それ以降、宮澤は、mRNAワクチンのことしか言わない人になってしまった。mRNAワクチンは間違っている。mRNAワクチン反対の人になった。
mRNAワクチンは間違って「いなければならない」。なぜなら、そうでなければ、宮澤が最初に唱えていた、ノーガード戦法を正当化できないから。つまり、ロジックが逆なわけであるw 彼は、自らの今までの自分が発言してきた内容が「一貫して正しい」となるためには、mRNAワクチンが「間違ってなければならない」ということに気付いたから、そう主張しているのであって、そうでなければ、自らの行動の首尾一貫性を貫けないことを十分に理解しているからなのだ。
以下のツイッターでの発言は、以下の画像で医者の方が乳幼児の重症化予防として「新型コロナワクチンの接種」を勧める理由として「万が一、何か起こったときに、保護者の方々に後悔してほしくない」と述べたのに対しての発言である。

私は逆で、コロナが感染したときよりも、ワクチンで万が一何か起こった方が親は後悔すると思うんだよなあ。

twitter.com

この発言に宮澤の本性がよく現れていると思っている。当たり前だが、自分が子どもの親だったとしよう。その場合、

  • コロナ感染による重症化に対する(ワクチンを打たなかったことへの)後悔
  • ワクチンによる副反応による後悔

の二つを比べて、「後者の方が親は後悔する」という発言は、そもそも、ありえないわけでしょう。どっちにしたって、親は後悔する。どっちに対しても、打ちひしがれる。なぜなら、どっちにしろ、子どもが大きな打撃を受けることには変わらないわけだから。
だとすると、である。
ここで、宮澤が「ワクチンで万が一何か起こった方が親は後悔すると思う」と言うことの

  • 傲慢さ

が、よく現れているわけである。
彼は、そもそも、人間の医者ではない。だから、医療倫理に対する、「倫理コード」を内面化していない。人間の患者を診察したことがなく、人間の患者を診察する場合の、義務や権利や、保障関係などもまったく実体験としてもっていない。
彼はただの、「科学者」であって、大学の研究室にひきこもって、実験室で、実験を毎日やっているだけの人だ。
そういう彼が「後者の方が親は後悔する」と言うのは、彼の人生観から本気でそう思っているというより、

  • 学者としての「(安富歩先生が言う)立場主義」

として、自分の学者としての立ち位置であり、学派としての立場として、そうだ、と言っているに過ぎないわけだ。ようするに、「ゲーム」として、そっち側でプレーしているから、そう言っているに過ぎない。
スウェーデンのテグネルの立場ということを言ったが、宮澤はツイッターでも何度も、ウイルスは「人間を進化させる」という意味で、ウイルスは「人間に良いことをしてくれる」といった発言をしている。だから、基本的に人間は、ウイルスを浴びて生きる「べき」という倫理観をもっている(自然主義と言ってもいい)。もちろん、そうすれば、大量の死者が生まれるだろう。しかし、彼の倫理観では、そうやって、次々と倒れていく死者の山は「どうでもいい」わけだ。いや、むしろ、そうやって「自然に死んでいく」人類の人生は輝かしく、誇らしい、立派な生き方に見えている。彼が願ってやまないことは、そうやって、ウイルスに感染する人間たちの中から、

  • 奇跡的に次の「進化」をもたらす

ケースが現れることで、そういう意味で「人間が次の時代の進化をとげる」ことをロマンチックに願っている、というわけである。彼にとっては、そのためなら、莫大な人類のほとんどが死のうと、「どうでもいい」。人間にとって、

  • 次の世代を残せる

ことだけが、唯一、大切なことであって、そこで起こる「進化」という「進歩」が、輝かしい人類の発展であることだけが、大事なことであって、

  • そのため

に「犠牲」になって屍となっていく死者の山は「そのため」に必要であった犠牲という意味で、「どうでもいい」わけである...。