キリスト教とエゴイズム

ジャーナリストの岩上安身さんが行っているネット上の配信サービスで、IWJというのがある。ここで、クリスマスに2014年に放送された番組の再放送が行われた。
ユダヤ学、聖書学が専門の上村静さんの対談だ。
この対談は5時間以上あって、しかも、その後、二回登場している。
話の内容は、イエス史学を中心に行われているわけだけれど、結局、私たちが知っているキリスト教は、キリスト教徒が人々に「そう知ってほしい」と思っている内容を聞かされて知っているわけで、それらは、じゃあ、実際に生きていたイエスがどうだったのかとは関係ないわけだw
キリスト教徒は人々をキリスト教徒になってもらうために、さまざまなことを話すわけだけれど、それらは、彼らが「信じてほしい」と思っている内容を語っている。よって、当然であるが、さまざまな歴史改竄から脚色からがされていて、

  • 美しい話

に変えられているわけだ。
そういった中で、非常に大きなポイントは終末思想なんだと思うわけだ。イエスの時代のユダヤ教にも少しそういったものがあって、イエス自体も少し言及はしているんだけれど、これが本格的に議論されたのは、イエスが亡くなって少し後だったと思う。
いわゆる選民思想で、終末の日を迎えて、ほとんどの人間は死ぬんだけれど、キリスト教徒は復活したイエスによって救われて、天国に行って、

  • 無限の時を過ごし、

それ以外は地獄に落ちる。黙示録だけど、キリスト教というのは、こういう主張の宗教なのだ。
ここまでで、イエスが生きた、1世紀から少し後くらいまでに、ほぼ今のキリスト教の根幹は作られたわけだけれど、この黙示録の部分が、例えば、現代のイスラエル問題などでも、まったく変わらない感じで問題になっている。
キリスト教の歴史としては、その後の中世があって、その後のルネサンスを経ての啓蒙思想。ドイツでのルターの聖書革命が大きい。ここで、聖書の「ドイツ語翻訳」が行われて、そもそも、聖書とは「読むもの」に変わった。
ルターが戦ったのは、当時の聖職者の「堕落」だった。彼ら聖職者が不正を行い、清廉潔白に生きていないことを糾弾する運動の中で、ルターは

  • (ドイツ語に翻訳された)聖書を読む

行為を無条件に正当化し、ここからカトリックに対する、プロテスタントという宗派が登場するわけだが、ちょうどこの「啓蒙思想」は、哲学でのルネサンスであり、聖書学にも対応している。
デカルトは、全てを疑った上で、それでも疑えないものとして、「我おもうゆえに我あり」と言ったわけであり、パスカルスピノザと現れたわけだけど、スピノザの言っていることなんて、まったく現代人が語っていると思っても不思議じゃないくらいに、

  • 論理的・合理的

な思考を述べているわけで、こういった学問的アプローチは、聖書の解釈学でも哲学でも同じなのだ。
聖書がドイツ語に翻訳され、ドイツ国民の誰でもが読むべきものとなった。だれが読んでもいい。ということは、一次的には、どう読んでもいい、ということを言っているのと同じなのだ。
まず、人々はドイツ語に翻訳された聖書を読む。しかし、読めば、必然的に「その人なりの解釈」が生まれる。聖書を読んでいいと言うことは、そういった解釈を行うことを認める、ということを意味する。
しかし、ね。
今の聖書学を考えてもらえばいいけど、それを許すということは、当たり前だけど、聖書にさまざまにある「神話」や「奇跡」など、科学ではありえない話が、批判的に読まれることになるわけだ。
そして、これを徹底していくと、「聖書には嘘ばかりが書いてある」ということになる。
まさにこれが、聖書学であり、それを含んだ、ルネサンス啓蒙思想を「徹底」させるということだったわけだし、そこから引き返せないわけだ。
つまり、プロテスタント運動の徹底は、一方で、それが当時のカトリックの聖職者の堕落を糾弾する運動となりながら、他方で、その実践自体が、キリスト教の「信仰」の基盤が揺がされるような、

  • 理性主義

の徹底を導いてしまう。
ところが、である。
この、カトリックプロテスタントの拮抗に対して、そこから逸脱する形で現れた次の運動が、イギリスから逃げてアメリカに移住した人たちが行ったピューリタニズムだ。
彼らは、

  • 聖書が全部、嘘なわけがない

と考えた。彼らは、プロテスタンティズムを受け継ぎながら、そのまま聖書の権威が失墜することが許せなかった。そのため、彼らは奇妙な立場を選ぶしかなかった:

  • 聖書は嘘を言っていない(言っているはずがない)

ゆえに、

  • 聖書の言っていることは「科学的に証明」されなければならない

とw アメリカの原理主義者、エバンジェリカルズは、科学を認める。というか、科学はもう一つの「聖書」として、重要視する。しかし、それは「そのまま」にそれを受け入れるわけじゃない。

  • 科学は「聖書」に述べられていることが「正しい」ことを「証明する」

というふうに、科学を「解釈」する。まず、進化論が攻撃対象となる。進化論は「間違っている」。それは、

  • 科学は、いずれ「進歩」して、進化論が間違っていることが証明されて、聖書の記述の方が「正確」だった

ということが判明する、と考える。彼らは科学を「聖典化」しながら、他方において、科学を科学のまま受け入れない。常に、

  • 聖書による改変

を行った後の科学しか受け入れないw まさに、近年の「フェイク・ニュース」などと、まったく同型の動きをしている。
キリスト教の問題のもう一つは、黙示録であり終末思想にある。つまり、

なのだ。終末の日を迎えて、ほとんどの人間は死ぬんだけれど、キリスト教徒は復活したイエスによって救われて、天国に行って、

  • 無限の時を過ごし、

それ以外は地獄に落ちる。この天国での「無限の時を過ごす」ことを、

  • 生きる目的

としているのが、キリスト教徒なわけで、彼らは自分が「そこに選ばれる」ためにキリスト教徒になる。
ということは、どういうことか?
彼らにとって、なによりも重要なのは「エゴイズム=自我」なのだ。つまり、個性=パーソナリティ。なぜなら、この「無限の時を過ご」しながら、なお、

  • 自らを失わない

ことが可能なくないの「個性、自我」が飛び抜けていなければならない、と言われているのと変わらないからだ。
ここから、キリスト教においては、

  • 極端に「個性=エゴイズム」が礼賛される

という特徴となる。それは、今のアメリカを見れば分かるだろう。アメリカにおいては、お金持ちは非難される存在じゃない。お金持ちということは、その人の「個性」であって、それだけ、他の人とは違った「その人性」を表していると考えられる。よって、アメリカにおいては、お金持ちはどんどんお金持ちとなり、貧乏人はどんどん貧乏人となりながら、それが社会の課題として、なかなか修正されない。
「わがまま」「自分勝手」「自分のことしか考えていない」といったような特徴は、アメリカにおいては、批判される特徴と考えられない。それだけ「とんがっている」ということは、「個性がある」と考えられ、天国に行ったときの、

  • 無限の時を過ごし

ていく中でも、「自らを失わない」個性をもっている可能性があるがゆえに、礼賛される結果となるw そのアメリカが現代において、世界を支配しているんだから、なにをか言わんや、ですな...。

追記:
こういったキリスト教の特徴はなぜ日本でキリスト教が広がらないのかを、よく説明するのだろう。日本人は自覚していないが、基本的には、仏教徒だ。仏教は「無我」と言うように、本質的には、なにもかもが無だ、という考えであって、極端に人生の意味にこだわる西洋的な思想は、一方で息苦しい気持ちにさせるのに対して、他方で、こういった仏教的な発想は、その息苦しさをまぬがれる救済となっている側面がある...。