柄谷行人『力と交換様式』

太古の時代の人間がどう生活していたか、を考えてみよう。まず、人々は狩猟採集で生活をしていた。つまり、ある土地で食料を食べ尽すと、別の土地に移動して、それを繰り返す。こういった生活において、今と比べて大きな特徴は

  • 食料を貯蓄しない

ことだろう。狩りの獲物は、ほうっておくと腐って食べられなくなるから、必然的に回りのみんなで分けて食べることになる。
こういった社会を想起して、ルソーはそれを「自然人」と呼んで、神経症的な現代人に対して、ある種の「理想的」な存在として礼賛することになった。こういった社会においては、そもそも、日々、移動しているわけだから、現代人のような「所有」についての、病的なこだわりもないし、回りの人間への、「いじめ」に代表されるような、病的な干渉もなかった、と考えた。なぜなら、そんなことをしなくても、当たり前のように、人々は食事を「共有」していたし、そのことに現代人のような、偏執的かつ病的な執着のようなものは、現れようにも、すぐに別の場所に「移動」するわけで、やっている意味も暇もなかったわけだ(こういう「諸関係」になっていたから、当時の人間は長い間、生き残り、今にまで人間は生き残られた)。
ここでそういった太古の人類を考えてみることは、私たちを驚かす。なぜなら、そこに私たち現代人が必死に悩んでも解決できない、「いじめ」や「物欲」などの問題が、ある意味で存在しない世界があった、と言われているように聞こえるからだ。
もしもそういった意味で、太古の社会が「理想社会」だとするなら、何がこの秩序を破壊して、現代社会に至ったのかを考えないわけにはいかない。
一つの分かりやすい理由は「定住」だろう。つまり、ある特定の場所にずっと居続けるようになった。まあ、一番分かりやすい理由が「農業」だろう。ずっと同じ場所にいても食いっぱぐれることがなくなるなら、移動しないのだから、いろいろのモノを持ち続けることができるわけで。
(別に、農業だから移住が不要になる、と言いたいわけじゃない。いや、ほとんどの場合は、焼畑農法なわけで、半遊動生活だったのだろうが。)
ただ、こういった定住生活はそう簡単に広がったわけじゃない。その理由として、感染症が大きかったのだろうと推測されている。
さて。その他に上記で考察した太古の人間と現代人の違いはなんだろう? 掲題の本では、大きく

に分けている。この二つは、どういった点において、それまでの人類の文化と違っているんだろう? まず、国家の原初的な形態と、上記のような遊動部族の違いの大きな特徴として、確かに定住は関係する。まず、ある一人の人間が王とされる。そして、その王に対して、すべての人間がその王の「臣下」として扱われる。

  • 王 −−> 臣民

こういった関係が「仮構」される、ということなのだ。まあ、ホッブズの『リバイアサン』ですよね。これと似た関係が、遊動部族における、「酋長」と「その他のメンバー」がある。しかし、こちらでは、酋長とはほぼ名前だけで、なんの権力もない。というか、基本的にその力関係に上下がないのが、こういった遊動組織の特徴なのだ。よって、こういった社会では、

  • 対等なもの同士の「相互関係」

しかない、わけである。なにか親切なことを行えば、相手はそれに恩を感じて、どこかでその御返しを行う。基本的に、この社会は唯一、それだけを基本方程式として成立している。
対して国家では、

  • 王 −−> 臣民

の「関係」が無条件に「仮構」されている。まず、この関係があることが全ての前提になっている。しかしこれは、私たちが一般に考える「主人 --> 奴隷」とは違っている。
どう違うのかというと、ホッブズが言ったように、この関係は、ある種の「契約」として考えられる。どういうことかというと、臣民は奴隷のように、主人の命令にたんに従属しているのではなく、

  • 自分で主体的に行動する

側面がある。つまり、自ら王に、ご奉仕するために行動する。そして、王の側も、さまざまに臣民にサービスを提供する。つまり、この「関係」は、

  • 生涯を通じて、お互いがさまざまな「サービス」を提供しあっていく形となっている

わけで、それを原初的な「契約」と後から振り返ると見える、と言っているわけである。
注目すべきはその「構造」です。王は一人ですが、それは別に具体的な誰かでなければならないと考えるべきではない。大事なのは、この「関係」であって、つまり、なんでもいい。法人だっていい。
こういう関係であることで、ホッブズが言ったように、

  • 王の側に「武力装置」を集中させる

形とできます。この非対称性は、太古の遊動部族ではできなかった。しかし、この関係はよく考えてみると、自明でもないし、安定的でもない。なぜなら、その「根拠」がないからだ。
根拠はない。しかし、分かりやすい「構造」があり、その「引力」に引かれている、と言えるのかもしれない。
言わば、「無限」の引力。王というポジションは一つしかないが、別にそこが、人間でなければならない理由はない。法人でもいい。いずれにしろ、それが「一つ」として「存在する」と受け入れられていればいい。そうすれば、「そこ」を中心に回りは「それ」が「そこ」にある、という「仮構」において、実際に

  • 「武力装置」をそこだけに構築する

という形にできる。なぜなら、そこ以外にあると、それらが暴発して、この秩序が壊れてしまう可能性があるから、「ここだけ」にすることに全体の同意がとれやすいわけだ。
考えてみてほしい。王のポジションといったが、これは「空想上の存在」だ。なぜなら、具体的な個々の臣民と、王は、別になんらかの問題に対して、具体的な関係行為が行われるわけではないからだ。太古の遊動部族におけるそれぞれの関係の全てが王と臣民で「行えない」し、そこに閉じていない。王の体は一つしかないわけだから、みんなの意見を聞いている暇はない。つまり、

  • できないし、ありえない

関係でありながら、あたかもその関係が「ある」かのように、みんなが振る舞うのが、この国家関係なのだ。
よって、この関係は「擬人的」な比喩としての人間関係と見せながら、実際はそうじゃない。なんらかの「抽象的」な構造だ。おそらくここには、ある

  • 無限構造

が関係している。つまり、

  • 王 −−> 臣民

における右辺は、構造上は「無限」であってもかまわない。しかし、本当ならそんなはずはない。どっかの人数で上限があるはずなんだけど、あたかも、そんな上限はないかのように受け入れられる。しかし、もしも上限があるということは、この王の機能には、期待されるサービスの下限がある、ということを意味してしまうのだから、そこから考えるなら、そもそもこの関係の「不可能性」が導かれるはずなのだが。
同じようなことが貨幣についても言える。

  • 貨幣 --> 商品

貨幣は、誰かが発行する貨幣商品のことと考えられる。この発行主体は国家と同じように、誰でもいだけでなく、法人でもいい。
よって、人々はその貨幣を発行している人がいて、一定の量が発行されて、それを使って人々がきっと「交換してくれるだろう」と考えて、その信用で流通する。
しかし、この構造も「空想的」な構造となっている。なぜなら、貨幣は理論的には「無限」を内包してnしまうからだ。対応する商品が、無限と考えるなら、貨幣は無限と対応せざるをえない。しかし、発行主体には、それを無限に発行できない。
しかし、人々はそれが分かっていながら、それを「それ」と扱うことを止めない。なぜなら、自分はそう思っていないし、回りもそう思っていないかもしれないけど、事実として

  • 回りが「それ」であると振る舞っている

から、ということになる。みんなが、「みんながそう振る舞っている」と思っているから、そう振る舞うという関係は、ひとたびその関係が崩れたときは早いが、それまでは、比較的に「しぶとく」続くのだろう。
貨幣は別に国家が発行する必要はないが、多くの場合、国家に発行権があり、実際に発行されている。そう考えると、ホッブズの『リバイアサン』は重要だ。
学校の国語の授業で、夏目漱石を読んだと、「あれ?」と思ったことがある。というのは、その

  • 文体

が、ほとんど現代語と変わらなかったからだ。このことは、それ以前の江戸時代の文体との比較だけでなく、「当時」の同時代の作家の文体と比べても、段違いなのだ。
このことが意味しているのは、

  • 当時の明治政府が、夏目漱石の小説の文体を「国語=日本語」として採用した

ことを意味している。当時の「言文一致運動」と呼ばれているが、多くの国で、そうやって、

が「作成」されているのだ! ドイツでは、ルターによる聖書のドイツ語訳が大きかった。これによって、「ドイツ語」が

  • 生まれた=「発見」された

だけじゃなく、

  • ドイツ人が「生まれた」=「発見」された

わけだ。つまり、国家による「教育制度」の「発明」である。これによって、日本中のどの地域でも、同じ教科書で、同じ「日本語」が教育されることになった。これで、

  • どこの工場でも、同じ「言葉」が話される

ことによって、飛躍的に共同行動が可能になった。そもそも、私的領域である企業活動は、国家によるこういった「教育活動」に

  • 依存=寄生

する形で発展するようになった。つまり、国家がより私たちの日常に「侵食」するようになった。
国家は幻想である。しかし、明確な実体がないわけではない。つまり、

  • 中心は「幻想」

であるが、その中心を支える形で存在する

  • 官僚機構

は明確な形で、存在し機能している。官僚が、その不在の中心を支える形で「すべてがうまく回る」ように、塩梅している。
ここで、一度、たちどまって考えてみたい。話は、太古の遊動部族から始めた。そこにおいては、人々は「私的所有」にこだわることなく、食料は分けあい、「平和」に暮らしていた。いわゆる「原始共産社会」である。しかし、現代社会は、

  • 貨幣
  • 国家

の登場によって、いいわるいはともかく、さまざまに「神経症」的になってしまっている。「私的所有」に極端にこだわり、お金持ちはどんんどんお金持ちになり、貧乏人はどんどん貧乏人になり、それを誰も正そうとしない。このままでいいのか、と問う運動が始まったわけだ。
まず起こったのは、イギリスの労働運動だった。産業革命時代のイギリスは、悲惨な労働環境だった。よって、この改善を求める運動は大きくなっただけでなく、実体的な意味があった。事実、国家はこれに「対応」した。国家は、

  • 労働運動側の「要求」の、かなりの部分を受け入れた

わけである。つまり、国家は「福祉」を行った。残虐な労働環境の修正を企業に強制した。つまり、こういった過程を経て、

  • 労働運動側は「一定の成果をあげた」

ことによって、ある意味での、労働運動の「消滅」をもたらした。もちろん、それ以降も労働運動は続いたわけだが、それ以前にもっていた「革命的な目的」はもはや、なくなってしまう。
確かに、改善しないより改善した方がいいわけだが、そのことによって、この「構造」が存続してしまうことによって、もともと問題としてあった

的な人々の「構造」が強いてくる病的な情況は逆に、より強く存続されるようになっている、と言ってもいいわけである。
この、現代を常に脅かし悩ます「病気」は、おそらくは、その「貨幣」「国家」がもつ「超越的」な機能に関係して、それに振り回されるようになった人間の存在の様態そのものに根差した、根深い病気として現れているように思われるわけで、

  • そこ

に対して、明確な「有効」な処方が行われない限り、解決しないのではないか、と思われるわけだ。
こういった「抵抗運動」について、掲題の本で、柄谷は幾つかの例を挙げている。
一つの大きな幹として、「普遍宗教」の過去から現在における長い「運動」をあげている。
そもそも、イエス・キリスト自身の運動がそうであったわけだが、古代ギリシアソクラテス、インドの仏陀、中国の諸子百家なども、そういった「対抗運動」としての側面を強調する。
まず、柄谷が注目するのが、アウグスティヌスの『神の国』だ。この本は、私たちが天国に行って、そこで「幸せ」になるのではなく、

  • 現代のこの現世に、「神の国」を作る

ということを主張する。それは「死後」に「幸せ」になる、というキリスト教の黙示録、メシア信仰を批判するもので、この現世で、私たちが「作る」、この社会そのものが「天国」と同等のものをもたらさなければ、なんの意味もない、という意味で、非常に強い、倫理的な主張だった、ということが分かる。
次に柄谷が注目するのが、イギリスの作家の、トマス・モアの『ユートピア』という小説だ。この小説は、当時のイギリスの労働条件を厳しく批判するものだったわけだが、トマス・モアは、もともと、アウグスティヌスの研究者で、『神の国』を学校で教えていた教師であった。かなり、大きく『神の国』に影響された作品であることが分かる。

ルターによる宗教改革(一五一七年)が始まったのは、モアが『ユートピア』を刊行した翌年である。モアはルターを支持しなかった。しかし、それはモアがカトリック教会に忠実だったからではない。モアがカトリック教会に見ていたのは、実行されていないとはいえ、そこに見出しうる教えであったといえるだろう。そしてそれはアウグスティヌスの『神の国』に集約される。
アウグスティヌスによれば、この世には神の国と地の国が混在している。「神の国」は神の愛あるいは隣人愛にもとづいて形成される社会であり、「地の国」は自己愛によって形成される社会である。別の観点からいえば、神の国は共同所有、地の国は私有財産によって成り立っている。ここから見ると、『ユートピア』で描かれるユートピア島は「神の国」であり、アコーラ島は「地の国」であるということができる。つまり、『ユートピア』では、それらは別の世界にあるのではなく、同じイギリスが神の国であると同時に地の国なのだ。この意味で、『ユートピア』は、プラトンではなくアウグスティヌスにもとづいているということができる。
ルターがもたらした新教は、神の国をあの世に見るものであり、また、外的現実よりお内面性を重視するものであった。したがって、ルターは農民戦争のような現実の社会改革を否定した。それに対して、モアは、現状のカトリック教会を批判しつつ、あくまで神の国がこの世において可能であると考えていた。モアがヘンリー八世の進めた改革やルターの進めた改革をともに否定したのは、そのためである。前者はたんに「地の国」を強化することであい、後者は「神の国」を彼岸に追いやることである。しかも、それは結果的に「地の国」を強化することになる。
たとえば、ヘンリー八世はカトリック教会に批判的であった。だが、それは絶対王権を確立するためであった。自らが教会の首長となり、カトリック教会の財産を没収したのである。それはいわば、カトリック教会に対する "囲い込み" なのだ。それは地主・商人階級による農地の "囲い込み" と連動するものであった。それは自己愛によって形成される「地の国」以外のなにものでもない。モアはそれに反対したのである。

だから今日いたる所で繁栄をほしいままにしているあらゆる国家のことを深く考えると時、神に誓ってもよいが、私はそこに、共和国の名のものにただ自分たちの利益だけを追求しようとしている金持の或る種の陰謀のほか、何ものも認めることはできない。金持はまず第一に、どうしたら自分たちが不正な手段でかき集めたものを安全に確保できるか、次にどうしたら出来るだけ安い賃金で貧乏人の労力を自分たちの都合のようように利用することができるか、ということを考え、そのためあらゆる手段と術策を見つけようと汲々としている。そしてそういう方策がみつかると、この金持たちは、国家のために、つまり一般大衆の幸福のためにとかいってこれらの方策が守られるように強制する。するとやがてそれが法律になっているのである。(『ユートピア岩波文庫

「地の国」を動かしている力は、貨幣の力、あるいは、自己増殖する貨幣としての資本の力である。一方、ユートピアでは、「貨幣に対する欲望が貨幣の使用とともに徹底的に追放されている」。つまり、「神の国」では、資本主義が揚棄されている、といってよい。

次に柄谷が注目するのが、エンゲルスの『ドイツ農民戦争』だ。ここで、ドイツの宣教師のトマス・ミュンツァーを礼賛した本であるが、エンゲスルは社会主義運動は「科学」でなければならないと言っていて、そもそもそういった宗教運動に対して批判的だったはずなのだが、彼の経歴では異色の宗教運動を礼賛する内容になっている。ようするに、トマス・ミュンツァーのこの、千年王国運動は、アウグスティヌスの『神の国』につながるような、

として認識して、礼賛したわけだ。そして、エンゲルスはこういった「運動」はキリスト教にとどまらnず、世界の各地で過去から行われ続けてきたことに注目し、それと、社会主義運動のシンクロ性を強調したわけだ。
ところで、トマス・ミュンツァーはこういった宗教運動を行った一方において、ルターの宗教改革に批判的であった。それは、ルターが結局は、黙示録的な、終末思想的な

  • 来世の「幸福」

に「希望」を語り、そこに人々を促す、現世の問題に直接向き合わない性質に対しては戦わなかったからだ。

したがって、ドイツ農民戦争階級闘争であった。しかし、それが一九世紀イギリスやフランスで生じた階級闘争と異なるのは、それが "宗教的な被覆" の下で起こったことである。そして、そこでは、共産主義は、指導者ミュンツァーの下で、「神の国」あるいは千年王国として考えられていた。

[彼の提起した]網領は、教会をその原始状態に戻すこと、およびこのような一見したところ原始クリスト教的な、しかしじつははなはだ近代的な教会と矛盾するあらゆる制度をとりのぞくことによって、神の国、すなわち預言された千年王国をただちに地上に建設することを要求した。しかし、この神の国という言葉でミュンツァーが考えていたのは、階級的差別も、私有財産も、また、社会の成員に対立して独立した外的な国家権力ももはや存しないような社会状態にほかならなかった。それゆえ、彼によれば、現在のあらゆる権力は、それが譲歩して革命に参加しようとしないかぎりくつがえさるべきであり、あらゆる労働とあらゆる財産は共有となり、完全な平等が実現されるべきである。そして、これを実現するためには、たんに全ドイツばかりではなく、全クリスト教国をつうじて一つの同盟が創立されなければならない。(同前)

ミュンツァーは最初、ルターの宗教改革に共感し行動をともにするようになった人だが、そのあと、ルターと決別して彼岸ではなくこの世における天国の到来の必然を説き、聖職者と金持を攻撃し、財産の共有を基礎にした社会秩序の改革を訴えるようになったのである。キリスト教の教義をこのように解したのは、ミュンツァーが初めてではない。彼以前のフス(チェコ)やウィクリフ(イギリス)、のみならず中世・古代の神学者に遡ることができる。というのも、それはそもそも、新約聖書に書かれていることにもとづくからである。

そういう意味で、プロテスタントには、こういった

  • 富裕階層の階級性

について批判的に向きある性質を欠けている欠点があると考えられる(その分、富裕階層がプロテスタンティズムを比較的に受け入れやすい磁場がある、という関係になっているのだろう)...。