上村静『キリスト教の自己批判』

少し前に上村静さんの話を書いたのだが、もう一度、その経緯をまとめておきたい。
去年のクリスマスに、IWJで2014年の対談の再放送をしていたのを聞いたのだが、まあ、とにかく「長い」w 5時間くらいあっただろうか。ただ、なかなか、その内容はおもしろかった。

m.youtube.com

一応、私はIWJのサポート会員なので(月に何千円払えばなれる)、アーカイブが試聴できるんだけど、この対談の後に、二回、さらに対談をやっていたんだったかな。ざっと流して聞いたんだけれど、とにかく長かった。
いずれにしろ、上記の最初の内容が興味深いので、もしも、キリスト教に興味があるなら、こちらの動画をまずは見てもらえばいいんじゃないかな、と思っている。
それで、掲題の本なんですけれど、こちらについては、この対談でも、岩上安身さんが紹介しているんですが、この本がまあ、対談の内容と対応して、おもしろいわけですね。
結局、どういうことかというと、じゃあ、聖書学ってなんなのか、ですよね。それは、せんじつめれば、サイエンスなわけ。文献学は文系だけど、サイエンス。つまり、「方法」は自然科学と同じ、とされている。
中世が終わり、ルネッサンスになってなにが変わったのかだけど、結局はこれだった。つまり、

  • 合理的=論理的

ということの意味は、

にのっとって、あらゆる問題を考える、ということなんですね。つまり、そうやって考えて、過去に遡って、いろいろな人が、いろいろなことを言ってきたけど、

  • 実際に起きたこと

がなんだったのかを推論しようよ、ということ。これについては、デカルトのコギトエルゴスムに始まって、スピノザの本までいくと、もう、民主主義だろうがなんだろうが、一貫して、この原則で考えているわけで、そういう意味でもう、「現代人」なわけだ。
ようするに、聖書学は常に、「キリスト教批判」と離れられない関係にあった。
こういった関係は、いろいろなところでありますよね。キリスト教において、聖書になにが書いてあるかは、別に、一人一人の信者が「聖書を読ん」で考えなくても、すでに、教会が「この場所はこう読むんです」と決めていて、それ以外の読み方なんてしようものなら、

  • 異端

として排除される。この事情は、中国における朱子学でも同じ。
まあ、ある意味で当然だと言えなくもない。教会は、いろいろな真実を知っているのだから権威があるのだから、彼らが言っていることがブレるわけにはいかない。そういうのをドグマと言って、はったりでもいいから、なにが正しいのかを決めないと、言うことがいつもブレるということになるわけで、信頼されないわけ。
確かに、信仰の場ではそれでいいのかもしれないが、学問の場ではそういうわけにいかない。世の中に分からないことなんていくらでもあるわけだから、何百年たっても決定しないことがあろうが、嘘を言うよりましだ、となる。
言いたかったのは、そういった「聖書学」について、一般の人はほとんど知らないんですね。こういう学問があることを知らないし、こういう学問が何を言っているのかを知らない。その上で、この聖書学の側から、今の

となったら、どういった点が直されるべきと考えられるのかを、かなり素直に述べていることが、じゃあ、逆に一般の人がキリスト教にふれることになったときに、意識しておくべきことはなんなのか、について考えさせてくれる、と思ったわけですね。

黙示思想には根本的な問題がある。まず、二元論的歴史観をもつのだが、それはこの世を全否定する思想であり、この世の生を否定するものであるから、実は創造神への不信仰を内包しているのである。また二元論的人間観には、人間をある特定の基準で「義人」と「罪人」に二分し、後者の存在を全否定してしまうという問題がある。つまり、黙示思想には「義人」の現実における不満を神の名のもとに正当化する暴力が内包されているのであり、現実を受け入れられず、他者を否定するとともに、自らの善悪の価値判断を神に押しつけてしまう。

こういった黙示思想がキリスト教で発展したのは、イエスが亡くなった後の数n百年なんだろうけど、そこで、イスラエルが、中東とヨーロッパとアフリカがぶつかる場所として、非常に緊張が高まり、その厭世感の高まりが、そういった黙示思想が広がった原因だというわけだけれど(日本史での終末思想の高まりとも似ている)、だから、分からなくはないんだけれど、だからといって、それをずっと、キリスト教が理論の中に内包してきたことに、一線を置かなかったことに、その問題がある、と考える。
実際、こういった考えを批判したのが、イエス・キリストだと言う。
しかし、である。
問題はパウロだ。上村によれば、パウロの言っていることは「支離滅裂」だと言う。パウロは、もともとは、キリスト派を批判するユダヤ教徒だった。しかし、イエスの教えに感化され、キリスト派に転向する。ところが、彼の言っていることは、イエスの教えに逆らっているように思われる。

しかしながら、パウロは救済を「義とされる」と言う。これは終末時の裁きで無罪宣告されることであり、それによって「永遠の生命」を得るのである。パウロは「何とかして死者の中からの復活に逹したい」(フィリ3・11)と言う。人間には、朽ち果てる死に放置される者と、復活して永遠に生きる者がいる。パウロは後者の側に入りたいのだ。ここには二元論的世界観が前提され人間は「義とされる」信者と「義とされない」非信者に二分される。パウロは他力本願としての救済に気づいて回心したはずなのに、「義」への欲求ゆえにエゴイズムを克服しきれないのである。

エスはそもそもどういった人だったのか?

エスの活動でよく知られているのは、「罪人」との会食と病人の「癒し」である。イエスの「罪人」との交流には、「悔い改め」の要求はない(ルカには「悔い改め」を付加する傾向がある)。なぜなら、「罪人」とは必ずしも犯罪者のことではなく、慢性病者や穢れたと見なされた職に就いている人たちなど被差別者に対する蔑称だったからである。イエスは被差別者と恒常的に交流していたのである。多くの人たちへの供食物語も、元来は「罪人」とされた人たちとの会食であっただろう。「罪人」とされた人たちとの交流は、人間存在の平等性をアピールする象徴行動であった。

上村さんはコヘレトを重要視する。コヘレトは聖書に含まれているが、コヘレトはなんと死後の救済を否定する。その内容は、かなり仏教に近い。というか、仏教の用語がないので、なんとかして、仏教的な内容を伝えようとしている、というふうにも読める。つまり、上村はいずれにしろ、コレヘトが今にいたるまで、聖書に含まれている意味を重要視するわけである...。