天王寺璃奈と「ぼざろ」

アニメ「ぼっち・ざ・ロック」について、いろいろと書いてきたのだけれど、やはり、もう一つ考えておかなければならないとがあるんじゃないのか、と思うわけである。
例えば、以下の方は、アニメ「ぼざろ」を根本的な視点から否定している。

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その理由は、ここで何度も繰り返し出てくる概念の「コミュ障」が理解できないから、と言っている。その理由は、なかなか深いと思っている。
まず、この「コミュ障」という言葉は、非常に最近使われるようになった、ということがある。つまり、

  • ロックの歴史

を基本的に「肯定」してきた評論家たちは、そういった過去になかった概念が、過去の、さまざまなアーティストたちの「価値観」と衝突する可能性を考えることに、危険さを感じているわけだろう。
こういった観点は、例えば、コーネリアスの小山田圭悟が、この業界において、長い間、「黙認」されてきた、ある種の

  • 共犯関係

が業界と、アーティストの間にはあったんじゃないのか、ということを疑わせる。
しかし、他方において、そんなに単純なのかと考えることには意味がある。まず、昔のロックバンドにしても、例えば、不良漫画にしても、そもそもそこには、

  • (日本的な)「いじめ」
  • コミュ障
  • 陰キャ

といった「概念」がなかった。つまり、そういった概念が、彼らが生きている、さまざまな表象に適用されることはなかった。
そこにあったのは、(上記の動画でも説明されているように)新自由主義的な

  • 自己責任論

だったといえる。クラスで、誰とも友達がいないことは「そいつが、ちゃんとしていない」から、と、むしろ、

  • いじめられっ子の方が「責められる」

関係が普通だった。
ようするに、ロック歌手にしても、不良漫画にしても、そういった「マッチョ主義」に一貫して彩られている。つまり、それまでの「世界観」においては、それが普通だと社会的に受けとられていたわけだ。
日本のロックの歴史に「価値」があると語る評論家は、そういった過去のロック歌手が語ってきた「マッチョ主義」に「共感」するがゆえに、これを評価し、引き継がないとならないと考えている。よって、こういった過去のカリスマを「否定」する発言は、どうしてもできないわけだ。
だとするなら、一体、いつから、この「社会関係」は変わったのか、と問うことには意味があるわけだろう。
例えば、70年代の全共闘世代くらいまでは、子どもの社会はもっと「原初的」だったと言えるだろう。そこには、

  • 強い奴が弱い奴を守ってやらなければならない

といったような、カント的な「義務」概念が普通に(アプリオリに)受け入れられていた。
ところが、90年代くらいから、「いじめ」という概念が一般に使われるようになる。ここにおいては、そもそも、学校という場所が、

  • 教師が生徒を「管理する」

場所として、より先鋭化していった、と言えるだろう。子どもはもはや、教師による「管理」なしには存在しない、と考えられていった。つまり、より「教師」の「好み」「恣意性」が極大化していくようになった。教師は、

  • 自分と気が合う

「優等生=いじめっ子」の子どもを、無自覚に「優遇」するようになる。つまり、教師がより「いじめ」に、共犯的に関わるようになる。教師は、自分の「お気に入り」であり、話してても楽しい「陽キャ」の優等生を、感情的に優先するようになる。それと相反的に、彼ら優等生が「いじめ」ている、教室の陰にいて、教師に関わってこようとしてこない「陰キャ」を、

  • 反抗的

と考えて、「感情的に」いじめるようになる。それは、「生理的」な反応だったとも言える。日々のストレスの中に置かれている教師は、他方で、常に、そのストレスの捌け口としての、

  • 暴力の向け先

を「感情的」に求めるようになる。
劣等生とは、「教師が求める規範」に合わせて行動できない子どもたちのことを言う。彼らは、教師から見て、「反抗的」と写る。教師は、そういった生徒が「なぜ自分の言うとおりに振る舞わないのか」というのに、常にイライラするようになる。
しかし、である。
こういった「価値評価」は、そもそも、授業カリキュラムの内容が強いている、と言うこともできる。教師は、たんに、そういった授業カリキュラムの価値を

  • 内面化

しているだけ、と考えることもできるわけだ。
当たり前だが、なんらかの実技の「熟達度」は、さまざまな要因が関係している。まず、早生まれや遅生まれかによっても大きく違っている。
そもそもそれは、「個性」だ、と考えることもできる。なにかであることは、「多様性」の観点からは、それそのものにおいて、肯定されなければならない。こういった多様性の価値観を共有しようとしない教師は、平気で生徒を

  • 序列化

して、自分の「お気に入り」の生徒と、自分の「嫌い」な生徒を分けて、

  • 差別

を行うようになる。
ここで、ぼざろの第1話を考えてみよう。まず、ぼっちちゃんは、中学高校と、

  • 一人も友達がいない

とされている。このことの「異常さ」に注目しない大人は、潜在的に、過去からずっと「いじめ」をしてきた側、と言ってもいいだろう。
昔の日本であるなら、「強い者は弱い者を守ってやらなければならない」という倫理があった。だから、当然、クラスの「人気者=一番強いヒーロー」は、そういった、クラスで除け者になっていた子どもに

  • 積極的

に関わって、そういった「置いてけぼり」ができないように、倫理的に振る舞っていた。
ところが、である。
「いじめ」という概念が当たり前になった90年代以降、そもそも、クラス内の序列関係が変わった。まず、優等生とは「教師に阿(おもね)る」存在のことと同義となった。彼らは、そもそも、クラス内の他の仲間たちに興味がない。というか、彼らは、自分の成績を上にすることにしか興味がないから、教師としか「仲良く」ならない。彼ら優等生は、教師が

  • 嫌い

な「不良」たちを、教師に阿る形で、陰で馬鹿にするようになる。まさに、ここにおいて、

  • 教師と優等生の「共感」関係

は極大化する。
つまり、学校社会自体が、

  • 非倫理的

な場所に変わっていったわけである。
学校とは、自己中心的で、自分の成績にしか興味のない連中が、劣等生を「いじめ」るという

  • 娯楽

で、ストレス発散をしながら、自分「だけ」が東大に入学する、

  • 社会的な差別「再生装置」

になり下がっていった。つまり、学校に行くこと、そのものが「非倫理的」な行為となっていったわけだ...。
ただ、ここでは、ぼざろのストーリーに注目しよう。ぼっちは確かに、友達がいない。しかし、この作品世界では、必ずしも、ぼっちは「いじめ」られていない、とされている。
例えば、ぼっちが、クラスメートが日本のロックの話をしているのを聞いて、彼女たちに話しかけようとする場面が、アニメで登場する。そのとき、それらのクラスメートは、

  • 後藤さんが話しかけてくるなんて、めずらしい

と言って、必ずしも、彼女の名前を知らないわけでもないし、彼女と「壁」を作っているわけでもなさそうなストーリー展開にしている。
つまり、ここだけを見ると、なんというか、ぼっちに話しかけようとしない回りの生徒たちの

  • モラリズム

のようなものが、伺いしれるわけである。まず、

  • 本人が要求してこない限り、相手の内面に介入しない

という、都会人の「倫理」が働いている。つまり、ぼっちは

  • 自己表現

ができない。しかし、回りはそれを「本人が望んでいない」と考えて、相手の内面に入っていこうとしないわけだ。
このことは、アニメ最終話の、学園祭のライブの場面を思い出してもいい。ここで、クラスの子どもたちは何度も何度も写される。そして、彼女たちは、のりのりでバンドの音楽を楽しんでいるように思われる。そこには、ぼっちへの「敵」的な攻撃性は見当たらない。実際、ぼっち(=後藤さん)への、さまざまな声援さえ、聞こえているわけだ。
クラスの子どもたちの、ぼっちに対する「ディスコミュニケーション」は、どこか

  • 現代的

な「モラル」の臭いがする。それを「新自由主義的なモラル」と呼んでもいい。つまり、とにかく「一線」を超えてくる

  • 強者

しか、まっとうな人間として扱わない、という「差別主義」だ。彼らは、それを無意識に内面化している。つまり、こういった規範を内面化している

  • 普通の人

しか現れない、という形で、学校のクラス内は「ノーマライズ」化されている、と言うことができる。
対して、この一線を逸脱してくる

  • 他者

として、虹夏やりょう、廣井きくり、などが登場してくる、と言ってもいいだろう。彼女たちは、まったく違った視座から、ぼっちを

  • 発見

して、積極的に、ぼっちに関わろうとしてくる。ぼっちは、こういった関係の中から、自らの人間性を見つけていくことになる。
第一話で、ぼっちはダンボールの中に入って、バンド演奏をする。そもそも、家の中の押入でしかギターをひいたことがない彼女が、いきなり、ライブハウスで、人前で演奏することが無理だったことは理解できるだろう。
しかし、この話を見たときに、ほとんど反射的に、私は、ラブライブ虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

のことを思い出した。テレビ版1期において、彼女は、ステージでのパフォーマンスが自分には出来ない、ということを、同じ同窓会の仲間に訴える。その理由は、彼女が

  • 人前で、うまく笑えない

という理由だった。つまり、人前で自然に笑える自信がない、という訴えだった。結果として、同窓会のメンバーたちのアドバイスもあって、彼女は

  • 璃奈ちゃんボード

という、顔を隠す、電子ボードをかぶり、そこに、「電子的な笑顔」を写すことで、ステージでのパフォーマンスを行うことになり、これが彼女の、その後のスタンダードなパフォーマンス姿として確立していく。
この二つを比べたとき、ここに「大きな違い」があることが分かるだろう。
まず、虹ガクの場合、この話は、その話数で「完結」している。つまり、この話数は「璃奈ちゃん回」となっていて、次の話数からは、また別のメンバーにフィーチャーされて、この話が蒸し返されることはない。
他方、ぼざろでは、ぼっちがダンボールで演奏したのは第1話だけで、それ以降は、もうダンボールを必要としていない。そういった形で、一方で

  • ぼっちの成長

を描きながら、他方で「なにも変わっていない」ぼっちのコミュ障ぶりが、手を変え品を変え、次々と描かれていく。これを見ていると、視聴者は、そもそも、ぼっちは成長しているのか、成長していないのか、さっぱり分からない感じで困惑させられる。
虹ガクの璃奈は、璃奈ちゃんボードをずっと使い続けている。このことは、ぼっちがずっと、ダンボールの中で演奏していることと同値である。なぜ、璃奈ちゃんはそうなのか? それは、そもそも

  • なぜ、それが駄目だと思うのか?

という、かなりクリティカルな問題と感じられる。彼女は、すぐには変われない。だとするなら、今はこのままでいいじゃないか。それを受け入れるのは、回りの人たちである。私たちが、彼女がそうであることを受け入れればいい。璃奈ちゃんボードは、ある種の「VTuber」を受け入れるファンたちの暖かい視点だと言っていい。
最近、ホロライブの星街すいせいが、THE FIRST TAKEに、VTuberとして始めて登場したが、その回のコメント欄は、かなり荒れていた。その理由は、一部の、こういったアニメやVTuberといったものに、差別感情をもっていた、純粋な音楽ファンが、自分たちの

  • 領域

を汚された、と受け取ったからだ。なぜ、そういった純粋な音楽ファンが、こういったアニメやVTuberを排除するのかは、そもそも、そういった人たちが、

  • 今までの人生で、そういったものと関わってこなかった

ことと大きく関係している。これを「食わず嫌い」と言ってもいいが、そんなに簡単なことじゃない。彼らは彼らなりのプライドがある。つまり、音楽業界は、そういったアニメやVTuber的なものに「こびる」ことなく、独立に価値を訴えられる、素晴しい世界だと思っているから、そういったものに「汚れる」ことへの生理的な嫌悪があるわけだ。
しかし、である。
そもそも、過去から考えたとき、こうやって「アニメおたく」たちは、さまざまに社会から

  • 差別

をされてきた。もちろん、そういった評価には、一定の理由がなかったとまでは言えない。しかし、他方において、「アニメおたく」たちは、璃奈ちゃんを「そのまま」で受け入れてきたように、とても

  • 暖かい

「優しい」コミュニティを作ってきたとも言うことができる。
ここで、もう一度、アニメ「ぼざろ」一期の作品の全体像を考えてみよう。そうしたとき、そもそも、第一話で、ぼっちはすでに

  • 文化祭で自分が演奏する

ことを「夢」として語っている。まだ、一人も友達のいなかった、そんな段階から、この「文化祭での演奏」を「夢」として語っている。この作品は一貫して、この

  • フラグ

に対する「応答」として作られていることが分かる。さまざまないきさつによって、彼女は最終話において、実際に、文化祭でバンド演奏をすることになる。そして、その場には、ほとんどのクラスの子どもたちが見て、応援してくれていて、ある意味でこの姿は彼女がずっと、思い描いていた

だったと言ってもいいだろう。しかし、である。彼女は、本当にそれだけ、では終わらなった。2曲目が終わって、喜多ちゃんにマイクを向けられて、まったく、なにも話せなくなるのは、

  • いつもの「ぼっち」

だった。つまり、彼女はなにも変わっていなかったw それは、この「事件」をどう考えたらいいのかを戸惑わせるものだったと言ってもいい。確かに、彼女の夢は実現した。しかし、それは、彼女が本当はこうありたかった、といったような

  • かっこいい

だけの姿じゃなかった。まったくもって、「いつも」の彼女だったw しかし、たとえそうだったとしても、これ以降、彼女を見る、クラスの子どもたちの視線は変わる。これを成長と言っていいのかどうなのかは分からないけど、一つだけ言えることは、これこそが

  • 青春

だ、ということだ...。