大澤真幸「柄谷行人はすべてを語った」

柄谷行人の最新作である『力と交換様式』をどう読むのかについて、さっそく、文芸雑誌に寄稿したのが、掲題の大澤先生だが、大事なことは、この本が今のアカデミズムにどういった影響を与えうるか、といったことではなく(例えば、社会学の学会への発表ということでは、別に新しい統計的な発表がされているわけでもない)、これが

  • 過去からの柄谷の仕事

の中で、どういった位置づけになるような作品なのか、というところに興味がある。
例えば、交換様式をA(互酬)、B(国家)、C(資本主義)、Dと分けることは確かにスリリングであるが、この議論は普通に考えると、

  • B(国家)とC(資本主義)

の二つの「関係」を考えようとすると、かなり「お腹がいっぱい」になってしまう。つまり、この二つはそんなに簡単じゃない。資本主義は、実際は国家の「保護」を強く受けてきた歴史的な「いきさつ」がある。つまり、この二つは

  • 共犯的な関係

にあり続けてきた、と言うことができる。つまり、網の目のように複雑にからまりあっていて、なかなか、一筋縄では分割できないように思われる。
だとするなら、今回の柄谷の主張の「可能性の中心」はどこにあるのか、と問わざるをえなくなる。柄谷がこう主張することで、逆に、どういった特徴が

  • 照射

されることになっているのか、何が、何の問題が見易くなっているのか、と。

特に興味深いのは、次の問いにはっきりとした回答が与えられていることだ。交換様式CのBに対する優越は、いかにして実現されたのか。CはBとは独立の交換様式だが、二で見たように、普通は、Bの優越の下に置かれる。ところが、ヨーロッパでは関係が逆転し、Cが優位で、BがむしろCに貢献した。ヨーロッパで資本主義が発達したのはそのためである。どうして、ヨーロッパでは、CがBに対して優越したのか。
さて、古典古代的社会(ギリシア・ローマ)から封建制(ゲルマン)への歴史を論ずる中で、ひとつのことが繰り返し強調されている。「未開性」である。普通、「アジア的→古典古代→封建制→近代ブルジョア社会」という生産様式の発展段階があり、古典古代や封建制は、アジア的社会よりも文明的・進歩的だったために近代を生み出す温床となりえた、と考える。しかし、柄谷によれば、まったく逆である。ヨーロッパは未開だったのだ。
たとえばギリシアの「民主主義」。これは今日でも手本となる進歩的な政治制度のように言われることがある。しかしギリシアに民主主義が成立したのは、進んだ文明段階にあったからではなく、氏族社会が濃厚に残っていたからである。氏族社会----つまりAが、である。
どうして、ギリシア・ローマの文明は遅れていたのか。それを、柄谷は、カール・ウィットフォーゲルの「中心/周辺/亜周辺」の図式を使って説明する。「中心」には、アジア的専制国家(帝国)があり、それに隣接した「周辺」には、中心の文明を受け入れ官僚制国家が生まれる。「亜周辺」とは、周辺と違って中心と隣接してはいないが、中心から無縁になるほどには離れていない空間である。亜周辺も中心からの影響を受けるが、それは選択的(部分的)なものになる。文明的な中心の特定の要素だけを選択的に受け入れたのだ。ギリシア・ローマも亜周辺だった。

ゲルマン人が侵入した西ヨーロッパでは、西ローマ帝国が崩壊した後、「帝国」は復活しなかった。諸部族が投合されないという「未開性」が、帝国の発生を阻んだのだ。諸部族をつなぐ機能を果たしたのはローマ教会だが、その権威の基づく神聖ローマ帝国は、本来の世界帝国とは異なる貧弱なものである。封建領主に混じって王が存在し、封建領主よりは格上だということになっていたが、同輩の中の第一人者というレベルを越えなかった。同じことは、領主と農奴の関係にさえ言える。農奴制は、領主と農奴の間の互酬関係にもとづいていて、領主は、Bに典型的な主人ではなあった。

通常は、Aが支配的な社会から、やがて国家が発生する。亜周辺であったギリシア・ローマでも、独自の国家形態(都市国家)が出現した。しかし、ゲルマン社会では、長い間、国家の名に値するものは成立しなかった。ゲルマン社会で国家が、つまりBが確立したのは、絶対王政が出現したときである。だが、どうやって、きわめて強く、容易にBの優位を許さなかったA(封建領主たち)が抑えられたのか。王が、都市ブルジョアと結託して、封建領主たちを抑え込んだのだ。つまり、Cが拡大していたことが、Bの優位を可能にしたのである。これは、まことに逆説的な結果である。Cが拡大していたのは、もともとBが弱くAが強かったからなのだが、まさにそのことが原因となって、BのAに対する「勝利」がもたらされたことになるからだ。
こうして、「法」による国家の支配としての絶対王政が確立する。絶対王政は、それまでの王政や帝国とは----たとえばアジア的専制君主とは----非常に異なった性格をもっていた。王が、その名に反して絶対的ではないのだ。これまでの国家(アジア的専制国家)では、常に、CはBの支配下にあり、いわばBに奉仕していた。しかし、Bの優位がCの力に基づいてもたらされた絶対王政においては、立場が逆転し、BはむしろCの必要に貢献するものとなった。ここから、ブルジョア経済(資本主義)が発達する。
柄谷によれば、絶対王政を通して形成された臣下としての共同性は、王政が打倒された後も残り、それがネーション(国民)となる。つまり、絶対王政を克服する革命の主体subjectとなった市民は、中世都市の市民ではなく、それ自体、王の臣下subjectとして養成されたのだ。この主体=臣下たちの友愛の共同体としてのネーションは、交換様式Aの互助的な関係性を創造的に回復するのもだと見なすことができる。したがってここに、資本C=ネーションA=国家Bという結合が出現した。ここおで交換様式Aが、低次元で回復されている。つまり、Aが、B・Cを克服する契機としてではなく、B・Cの働きを補強する要素として回復されている。

柄谷は、そもそもの西洋ヨーロッパ社会の「フランス革命」以降の、いわゆる

  • 民主主義革命

が、なぜ実現したのかを、このヨーロッパの「先進性」のようなものから説明しない。そうじゃなく、逆で、

  • 未開性

がそこにあったらか、つまり、封建社会的な「未開性」があったから、逆に、中国的な専制国家を経ることなく、一気に、民主主義国家への遷移が可能になった、と考える。つまり、そもそもの西洋民主主義社会の基盤が、

  • 互酬的なAの社会の「封建性」が強く残り続けたこと

に見出す、という逆説的な関係になっている。
(この分析は強く、日本の明治の文明社会化に通じることがあることは言うまでもない。)
そしてこの「未開性」は、なんらかの地理的な要因と関係している。これをここでは「亜周辺」と言っている。
帝国としての中国があるとして、その中国の「周辺」として韓国があり、その中国の「亜周辺」として日本がある、という形になっている。つまり、帝国としての中国に対して、韓国は「隣」という、

  • あまりにも近すぎる

ために、もはや、中国の影響関係から自力で距離をとった社会を築くことが難しくなっている、という関係にある。対して、日本の場合は、間に海まであることもあって、そこまでダイレクトに中国からの圧力を受けない。結果として、日本の支配勢力には、結果としての「フリーハンド」が、一定の割合で生まれていた、ということを意味する。
未開性、つまり、原始性は、形として、

  • 過去からの私たち人間の「本来もっていた」良い性質

を保存しやすい形になっていた、という分析となっている。それを柄谷は「交換様式A」と呼ぶ。柄谷にとって、交換様式Dは、「交換様式Aの高次元での回復」と定義されている。つまり、なんからの形で、私たちのこの「管理社会」に、どうやったら

  • 交換様式A(=原始共産社会の善的属性)

を、復活させられるのか、その「ルート」が必須の課題として私たちが取り組まなければならないものとされている。しかし、ある意味で柄谷はもう「答え」を言っている、と言っても過言ではないだろう。つまり、それは、

  • 未開性(=原始性)

に深く関係している...。