文系が「大好き」な進化論

文系と理系の違いはなんだろう? 一つは、「ある、幾つかの」言葉を使うことが「恥かしい」という感覚なんじゃないだろうか。
その一つが

  • 進化論

だ。なんで、理系なのに、この言葉を使うと恥かしいと思うのかというと、そもそも進化論と呼ばれてきた事象は、ある意味で

  • 当たり前

のことを言っているだけだからだ。当たり前のことを、なにか「特別」なことであるかのように、別の言葉で説明することは、不要なだけでなく、混乱の元だ。
つまり、「進化論」という言葉が端的に言っていることは、

  • 絶滅した系統樹は残っていない。
  • どんな存在(当然、生き物を含む)も、日々、変化している(なんらかの変化には必ず確率論的な意味での「エラー」が発生する)

この二つでしかない。
前者はいいだろう。つまり、ある「性質」の「絶滅=消滅」のことだ。当たり前だけど、無くなれば、継承されない。
次は、「変化」の話だ。こっちは、少し説明がいるかもしれない。例えば、人の体内で行われている

  • 細胞の生成

を考えてみよう。人の細胞は、数日で全部、入れ替わる、と言われている。ということは、次々と、新しい細胞が生成されていることを意味する。そして、その場合の細胞を「作る」ための

  • 設計図

として、(まあ、比喩的に)それが、DNAなんだ、と言われてきた。
まあ、ここまではいいだろう。じゃあ、その「複製」だ。私たち人間は、別に、数日で細胞が全部入れ替わるとしても、そんなに「見た目」も変わらないし、そもそも、私たちはそうやって「変わって」いても、だからといって、

  • 別人

になっていると思っていない。これをどう解釈するのか、という話だ。なるほど、だということは、この「複製」は

  • 完璧

ということを意味しているんじゃないか、と。どんどん細胞が変わっていたとして、それぞれの要素は変わっているけど、この「構造=ストラクチャー」はまったく変わっていないんじゃないか、と。
しかし、である。
ここで「変わらない」と言っても、それが、

  • エラーが起きない

ということを意味しない。まさに「確率論」的に、一定の割合で、あらゆる「制作物」にはエラーが混入する。これを「排除」するのが、

  • 検品

だ。あらゆる製造業で、検品の存在しない業界はない。これは「必ず」混入する。なぜなら、それが「自然」の摂理だからだ。
もちろん、そうだからといって、すぐに「死な」なければならないわけじゃない。多くの場合、そういった「エラー」は、さまざまに「除去」される。つまり、そういった「除去」を行うプロセスさえ、ビルトインされている。
じゃあ、人間は「変わらない」のか? それも違う! 結局、

  • ある条件

を満たしたとき、一定の割合で、そういった「イレギュラー」はシステムから「排除」されることなく、そのまま、システムと

  • 併存

していくことになる。つまり、その「イレギュラー」が、まるで「普通」のものであるかのように、排除されず、そのまま、い続けるわけだ。
こういった「変化」は、まさに、ある個体で起きる変化に過ぎず、いずれその個体は消滅するんだから、次世代にまで影響を与えないだろう、と考えるかもしれない。しかし、ここで考えてみてほしい。ある個体で「起きた」変化を起こした「原因」を、なぜ、他の個体にないと思えるのか、と。
ある個体に起きうる「エラー」が、その個体に起きたということは、この「事実性」において、

  • だったら、その回りの個体の「どれ」にも、「同じ」エラーが起きうる

だろうと考えるのは自然なわけだw つまり、すでに「ある個体に起きたエラー」の時点で、それが、その生態系内の群内で、

  • 同時平行的に

起きうると考えることは、十分に論理的(=合理的)なわけだ。
こうして、それぞれの遺伝子に起きた「変化」は、自然な形で、次の世代に継承されていく。ここでの本質は、

  • 変わらないものはない

ということだ。まあ、「自然科学」を勉強していれば、この鉄則を分かっていない人なんて、一人としているはずがないのだ。
じゃあ、なんで「文系」学者は変なのか?
おそらく、彼らは「聖書」の「信者」だから、と考えるのが自然だろう。
聖書は、「神が万物を作った」と言っている。よって、あらゆる生物は、「神」の「被造物」であることを意味する。しかも、「神」は「聖書」の中で、「人」に向かって、それを「人」として呼びかけている。
神がそう「呼ぶ」ということは、そう「指示」した「対象」が「確定しなければならない」ことを意味する。つまり、万物を知りうる「神」が、そう「呼んだ」ということは、その呼ばれた対象が

  • 別のものに変わってはならない

ことを意味するのだ! なぜなら、もしも別のものに変わっていたなら、神は「間違って」そう呼びかけた(指示した)ということになってしまうから。
ようするに、「文系」学者たちは、

  • 聖書と自然科学の「和解」

を実現しようとして、必死に「文献学的抵抗」をやっている、と考えられる。
彼ら、「文系」学者は、今さら、自然科学を否定できない。さりとて、聖書が「間違いだかけ」だとして、否定できない(聖書を棄てられない)。そこから、彼らは、

  • きっと聖書の「読み方」が間違っていたから、今、自然科学の「結果」と整合性がとれていないように思われているんだ

と考えるわけであるw よって、「文系」学者は、

  • 絶対に間違えない

わけだ! どんな自然科学の「結果」がでても、なんとしてでも、どんな「屁理屈」をひねくりだして、それと聖書の「一言一句」を、

  • こう「対応」している!

として、これを「無矛盾」ということにしてしまうorz
もはや、「文系」学問とは、「このため」だけにある、衒学的ななにかでしかなくなった、と言ってもいいのだろう...。