アニメ「推しの子」恋愛リアリティショー編について

アニメ「推しの子」については、原作がジャンププラスで連載されていたということで、その存在は知っていたが、正直、あまり言及したいとは思わなかった。まあ、そもそも私自身が、ジャンプ系に偏見があるんで。ただ、自分のジャンプ嫌いはおいといたとしても、それなりに、現実の事件を題材にした作品と世間で解釈されている「問題作」として認知されていることは、それはそれとして、一定の距離を置く理由にはなる。
しかし、今回のアニメ化されることになって、第7話で、例の恋愛リアリティショー編が描かれたということで、とりあえず、ここまでで言及しておくことには意味があるのだろうとは思った(ということで、これ以降は、どんどんネタバレしていく)。
つまり、いずれにしろ、このアニメの「問題」は、第1話のアイがファンに殺されることと、第6話で黒川あかねの自殺未遂の場面だろう。しかしこれについては、第1話の方も実際にファンに襲撃された事件が題材にされているんじゃないかと言われているし、第6話は言わずもがな、フジテレビの恋愛リアリティショー「テラスハウス」の出演者だった木村花さんの事件を想起されるものであって、実際にこのことについて、ツイッターで彼女の母親が批判的に言及していることがバズっていたりする。
前者については、これが作品の骨格になっている部分で、つまりは

  • 前日譚

として第1話が使われていることが分かるわけだから、これについて云々することが難しい構造になっている。つまり、これは

  • ミステリー

の構造になっている。結局、アイは誰に殺されたのかが明かされていない。であれば、主人公のアクアはこの問題に取り組まなければならない形になって、作品は続いていくわけで、つまりは、アイがファンに殺された、ということの、(ある種の)「問題性」は後景に退いている印象を受ける。
対して、恋愛リアリティショー編は、全体のテーマとしての「芸能界の闇」を描く文脈で用意された、(避けては通れないテーマだったとしても)、第1話で提起された「ミステリー」のメインの文脈とは離れた話ではある。
今回批判されたのは、第6話直後で、つまり、黒川あかねが自殺未遂を行うまでの過程で、ネット上で彼女を批判する言葉を実際に、画面に列挙したことと、もっと言えば、こういった問題にトラウマのある人たちが、このアニメを見るとトラウマが「フラッシュバック」するような描写になっていることに対して、配慮が必要だったんじゃないか、というものだ。
しかし、いずれにしろ、第7話はすでに放映されている。そして、この7話は、ようするに、この恋愛リアリティショー問題に対する、製作者サイドが「批判的」に考えていることが分かるストーリー展開となっていたことによって、(その描写がナイーブだったとしても)ネット上では、一定のバズりの鎮静化が起きている印象がある。
実は、原作はこの後、2・5次元編にはいるわけだが、ここでは、ほとんど上記の恋愛リアリティショー編の話は想起されない。いや、それだけじゃない。ここでは、黒川あかねが大活躍する。しかし、ここでの彼女はこの自殺未遂のことが、まったく、なかったかのように振る舞っているわけで、どうも作品としての合理的な繋がりを失っている印象を受けるわけだが。
しかし、いずれにしろ、この恋愛リアリティショー編についての考察をしておかないわけにはいかない。この部分の原作は、木村花さんの事件の直後に書かれていて、大きな影響の下に作られたストーリーであることが分かる。しかし、今から振り返ると、一つ、大きな違和感がないわけじゃない。それは、

  • 出演者たちが「番組の継続」を選択する

というストーリーで終わっていることだ。
もちろんこれが変だと思うのは、現在の私たちがこの事件を振り返っているからだ。当時は、まだ、番組の継続が模索されていた。そして、フジテレビを含めて、その「テラスハウス」という番組がどうであれ、恋愛リアリティショーそのものは続いていくだろうと考えられていた。つまり、そういう雰囲気があった。つまり、恋愛リアリティショーという番組が続いていくことは、絶対になくならないだろう、と考えられていたわけだ。
その「皮膚感覚」は、実際に

ということがある。そして、多くの人がこの番組について言及していたわけで、そういった「公共」的なものは、そう簡単になくならないんじゃないか、といった「今までの常識」が、そう思わせたのだろう。
しかし、である。
その後、少なくとも日本では、恋愛リアリティショーは一つもない。それは、端的に、

  • 世界中で多くの自殺者が発生している

ということが分かりながら、この形式の番組を作ったという「事実」が、そもそもの一切の「言い訳」を許さないわけである。つまり、

  • 知っていながら、死者が発生したことを許した

という事実が、その「責任」において、今に至っている。
どんなに大人たちが「これこれこういう理由で論理的に、恋愛リアリティショーをやっていいんです」と言っても、そうやってやると、次々に自殺者が発生する。実際に発生しているということは、それには

  • なんらかの理由

があるわけで、その「原因」が分からないからやっていいとはならない。次々と死者の山ができてるその事実を前にして、「やっていい」という論理はその論理になんらかの欠陥がある可能性、その蓋然性を示している。
次々とうず高く積まれる死者の山を前にして、「論理」は無力だ。
自明性は「運命」と関係して語られる。それは、ハイデッガーの『存在と時間』を思わせるわけで、私たちの「体験」、毎日見ているテレビ、テラスハウスの、あまりにも「実体験」として感じられるものが、そう簡単に否定されないし、できない、という

  • 感覚

を与え、それが、ハイデッガーナチス礼賛、ナチス正当化にも関係していた。
つまり、その「強烈」さは、「論理を超える」と考えたのだ。ヒットラーの「人気」は「本物」だと考えられた。このテレビから流れて、それをドイツ国民全員が見て受ける「自明性」は一つの

  • 運命

と考えられた。しかし、この「自明性」はWW2でナチスドイツが負けて、ヒットラーが自殺することで終焉を迎える。
ハイデッガーを代表として哲学者は、カントのような「思弁」に対して、

  • 実在

を対置してきた。いわゆる「実在論」といいうものだが、これは近代科学を介して「存在論」と同値に扱われて、つまり、「経験論」「近代科学」に、この世界を還元する形で、すべてを

で説明する、という様式が席巻する。しかし、そもそも「実在」という言葉は変だ。なぜなら、カントが言ったように、私たちはこの世界を「そのまま」接することも、「そのまま」受け取ることもできないからだ。つまり、最初から、あらゆることは「嘘」を媒介している。大事なことは「方法」だ。本来、「実在」とは「方法」と切っても切れない関係にあるはずなのに、まるで

  • 無媒介の「実在」(神から人間に「直接」与えられる「経験」)

のような、

  • 経験絶対主義

が無謬的に信じられるようになった。そして、この楽観論が、恋愛リアリティショーにも通じている。上記の意味で、「リアリティ」など

  • ありえない

はずなのに、あたかもそんなものがあるかのように番組は作られる。つまり「リアル」という

  • 言葉

が、人々を縛りつけ、自殺に誘導する。当り前だが、この番組を作製して、これをテレビの電波に流しているのは、大人たちだ。つまり、大人たちの

  • 恣意的な編集

が、世間の番組の「印象」を決定している。つまり、そもそも「リアル」なんてないのだ。すべては、大人によって恣意的にカットを選ばれ、印象を

  • 誘導

されている。このカットの意図的な「選択」によって、世論を煽り、番組の視聴率アップに結果しようという「目的」によって、そもそも番組制作サイドの

  • 大人たち

が、

  • ある特定の子供が「社会悪として世間から非難」されるようにするように編集する

わけだ。つまり、「目的」が、

  • 「その」子供を<社会悪>として世間に非難させることによって、番組の視聴率を上げる

ことなのだから、なにが事実かなんて関係ないわけだ。なんらかの「経験論」的なファクトがあったとき、なぜそれを公共の電波に乗せて、世間にさらすのかには、編集者側の意図に関係する。さまざまな情況がある中で、

  • なぜその場所を切り取り、電波に流すのか?

には、それを電波に流した人間の「解釈」が、必然的に問われなければならない。そう考えるなら、そもそも「事実」などないことが分かるだろうw 一切の事実は「通時的」なもので、ある一場面をカットして、その「意味」が成立することは、ありえない。
早い話、ここでの「リアル」がおかしいのだ。「リアル」なのは、

  • そういう「編集」をしたものをテレビに流した

という大人の意図だろう。なぜ流したのかといえば、そうすれば「お金儲け」ができると考えたから。つまり、そのためなら、出演者の子供が視聴者に悪い印象をもたれて、苦しむことになったってOKと「判断」した大人がそこにいた、というわけだ。昔からある

  • 人身御供

というやつで、子供を生贄として、供物として神に捧げる、という構造が繰り返されている。
さて。これに対して、第7話の主張は、

  • 大人が子供を守れなかった

ことの絶対的な「責任」という形で主題を変えることによって、この恋愛リアリティショー編が終了する形になる(そもそも子供とは、そういう善や悪を教育的に教えられる過程の存在として扱われるわけで、そういった対象に簡単に、そういった価値による解釈を投影することは厳密に注意しなければならないことがこの社会の前提だったはずで、そこにおいても、この

  • リアリティショー

なる「茶番劇」が、なにをしたかったのかをよく示しているw)。このことは、もちろんことの本質を突いているとは思うが、だったらなぜ、第7話内で、彼女たちに恋愛リアリティショーへの出演の拒否という形で終わらせられなかったのか、という点において、

  • この作品の製作者たちが「登場人物の子供を守れ」なかった

という意味において、この作品の限界を示しているのだろう...。