新型コロナの空気感染論争

新型コロナについては、そもそも、今年の夏のデルタ株での「自宅放置」政策の問題と、それまでの、比較的に、感染の規模が小さくおさまっていた日本の状況を、同列に並べて議論することがおかしいと思っている。
その上で、この新型コロナについては、流行の最初から、「空気感染」の問題に対して、以下の二つの「論争」が、まさに、並列して語られてきた。

  • 空気感染「非存在」論
  • マスク「無効」論

概ね、国は前者については「賛成」の立場で、後者については「反対」の立場だった、と言っていいだろう。つまり、国は「空気感染は存在しない」と言ってきた一方で、「マスクは有効だ」と言ってきた。
国が空気感染を否定するとき、しかし、それは実際には何を言っているのかが問題であった。彼らは「飛沫」と言うとき、別にその「飛沫」が空気を介して、人間に伝わって、感染しない、と言っていたわけではない。はて? だとするなら、何が「空気感染」なのだろう?

比較のためにCDCおよびWHOの、現時点での最新情報を確認する。CDCの "How COVID-19 Spreads" (2012年7月14日版)のページには、最初に空気(エアロゾル)感染にフォーカスした長めの説明をしたのちに、主たる感染経路として空気感染、飛沫感染接触感染がこの順番に説明されており、厚労省とは逆に空気感染に最も警戒していることが窺われる。一方、WHOの該当箇所 "How does COVID-19 spread between people?" (2021年4月31日更新)では、ウイルスを含む様々なサイズの粒子(飛沫からエアロゾル)によって感染するとした上で、その中でも短距離の伝播が置こり得る(助動詞は "can")としている。その次に接触感染に触れ、それがありえる("may")とされている。つまり、WHOは飛沫感染をメインに、ついで空気感染、接触感染の順に重視している。
(尾内隆之・調麻佐志「科学はどこへ消えた?」)

まず、こうやって見ると、CDCもWHOも、空気感染をメインに考えていると言っていいだろう。
そう考えると、なぜ日本の対策の中心が、飛沫感染接触感染だったのかは、いぶかしく考えられてくる。アメリカは、最先端のこの分野の専門家が判断しているのに対して、日本は、尾身にしても、そもそも、役人であり、最先端の研究についてこれていない人なわけだ。なんで、CDCやWHOが言っていて、日本の尾身なんかがそれに反したことを言っているとして、どっちを信じるに足るか、だよねw
つまり、どういうことかというと、この話は「根深い」ってことなんだ。どういうことかというと、そもそも

が、今回の新型コロナに先行してあったわけだけど、「こっち」がもともと、おかしかったんだ、ということが分かるわけである。

さらに新しい、新型インフルエンザに関しては最新のガイドライン(「新型インフルエンザ対策ガイドライン新型インフルエンザ及び鳥インフルエンザに関する関係省庁対策会議 平成21年2月17日)」)を確認しよう。なお、内容から判断してこのガイドラインが現在の新型コロナウイルス感染症対策の雛形となっていると考えられる。このガイドラインでは全体に関する用語解説はなくなっているが、「事業者・職場における新型インフルエンザ対策ガイドライン」に、これまでの用語解説と同様の内容の感染経路の説明がある。ただし、そこでは空気感染が「参考扱い」に格下げされている。さらに以下のように新型インフルエンザの感染経路が記載されていて、また職場等での対策の基本的な考え方にも触れている。

(2)インフルエンザウイルスの感染経路
○毎年人の間で流行する通常のインフルエンザの主な感染経路は、飛沫感染接触感染であると考えられている。現段階では、新型インフルエンザが発生していないため、感染経路を特定することはできないが、飛沫感染接触感染が主な感染経路と推測されており、事業所においては基本的にはこの二つの感染経路についての対策を講じることが必要であると考えられる。空気感染の可能性は否定できないものの一般的に起きるとする科学的根拠はないため、事業所等においては空気感染を想定した対策よりもむしろ、飛沫感染接触感染を想定した対策を確実に講じることが必要であると考えられる。

(尾内隆之・調麻佐志「科学はどこへ消えた?」)
科学(岩波) 2021年 12 月号 [雑誌]

まあ、驚くべき発言だよね。あのさ。新型コロナに対しては、空気感染ではないかもしれない、という議論が行われてきたことは百歩譲って分かるとしても、インフルエンザが空気感染じゃないって、もう、何を言ってんのかな、だろう。新型コロナは、インフルエンザほどの感染力がないから、もしかしたら、空気感染はないのかもしれない、という議論があったとしても、なんでインフルエンザが空気感染しない、になるんだろうねw

感染リスクが最も高い危険な行動は、ウイルスを吸い込むことです。吸い込まれたウイルスが上気道に感染するといわゆる風邪に似た症状となり、肺を含む下気道に逹すると重症化します。
同程度の少量のウイルスがいたとして、手を介して粘膜にたどり着くウイルスは極めてわずかな一方、呼吸で吸い込めば多くが鼻の奥や気道へとやすやすと入り込みます。それを媒介するのが大きな意味での飛沫、つまり患者が呼吸や咳、くしゃみなどをした時に出る液滴です。
(西村秀一『もうだまされない新型コロナの大誤解』)

一回の咳や呼吸で出される生きたウイルスはごく少量でも、長時間にわたってそれがくり返されれあ、かなりの数のウイルスが空間を滞留することになります。
それを考えれば、換気がどれだけ重要かが分かるでしょう。二酸化炭素濃度を指標にして、一定以上になったら換気する、という対策を取る施設やイベントもあります。その指標がすべてではありませんが、一つの方法として有効だと思います。
(西村秀一『もうだまされない新型コロナの大誤解』)
もうだまされない 新型コロナの大誤解

新型コロナウイルスが、感染者の唾液中に存在することはよく知られています。若い人ならウイルスが口の中だけでとどまっていて、軽症あるいは無症状で済むことがあっても、高齢者は違います。というのも、高齢者は気づかないうちに、あるいは寝ている時間にも軽い誤嚥を起こしていることがあるからです。
(西村秀一『もうだまされない新型コロナの大誤解』)
もうだまされない 新型コロナの大誤解

つまり、さ。日本の厚労省は、新型コロナだけじゃなく、それ以前のインフルエンザから始まって、

  • 意地でも「空気感染」を認めたくない

で、今の今まで来ちゃっていた、ということなんだ。もう、ここまで来ると、奴らの「意地」なんだよね。海外がなんと言おうと、

  • うちはうち。よそはよそ。

の「理論w」で、CDCやWHOを無視して、「日本ウェイ」をまっしぐらしてきた、ってわけ。なんなんだろうねw 
そこで、最後にマスクについても書いておこう。

6種類とも同一の条件で実験をしたところ、N95マスクと医療用サージカルマスク、そして、不織布マスクでは、大きな飛沫粒子を除去する能力には、あまり差が見られませんでした。
小さな粒子でやや差が見られましたが、それでも、きちんとした不織布マスクであれば、一般の人の日常生活なら十分と思われる性能を持っていることが明らかになりました。
(西村秀一『もうだまされない新型コロナの大誤解』)
もうだまされない 新型コロナの大誤解

上記の引用でも書かれているけど、確かに、不織布マスクをしていても、少しはそこを通り抜けるわけ。でも、その程度では、

  • 感染

までは行かない、または、行きにくい(かかっても症状は軽いし、他人に移しにくいし、移しても軽症)、ということが、どうしても一部の「文系」の人たちには分かりにくかったようで、そういった「文系」の人たちが

  • マスク無意味論

を、さんざん展開していたわけだ。でも、さ。最近では、CDCもWHOも、どこもかしこも、マスクの効果を認めているし、これを理由に、欧米は、日本の

  • マスク文化

を礼賛しているわけなんだよねw
じゃあ、なんで日本人はここまでマスクをするんだろうね。私は明らかに、その理由として

  • 花粉症

があると思っている。日本人なら、だれでも、自分の回りの人で、花粉症で苦しんでいる人を見たことがない人はいないと思っている。しかし、他方において、それは一つの「規範」となりうるんですね。
つまり、自分の友達が「ある条件で、マスクをする」ということを肯定的に受け入れるなら、今度は自分の番だ、ということになるよね。今ここで、マスクをするのかしないのかの問いは、自分が、その自分の友達の、いつも隣で見ていた行為を肯定する限り、今ここで、自分がマスクをしない理由にはならないわけです。
これだけ、日本においては、花粉症が「国民病」となっている国において、もはや、誰も

  • マスクをしない

という行為はありえない。それは、非倫理的な行為と同値になってしまう。
あと、私はもう一つ、日本の特徴を指摘しておきたい。それは、特に、東京における

  • 満員電車文化

が、今回の新型コロナ騒動で、完全に破壊されたことを

  • 多くの東京人は、好意的に受けとめている

ということなんだと思うわけだ。これが、京大の宮沢先生などが勘違いしている決定的な点だと思っている。
つまり、東京の多くの労働者は、今回のこの事態において、多くがリモートワークを強いられたことを、そこまで嫌がっていない、ということなのだ。
このことを京大の宮沢先生は分かっていない。彼は、本気で自分がヒーローだと思っている。自分が、日本中の困っている人のために、戦っているから、みんなが自分を「ヒーロー」として、ちやほやしてくれる、と厨二病よろしく、自分に酔っているわけだw
ところが、大阪はともかく、東京は彼を徹底して無視した。彼は東京では、完全に

扱いをされた。K値がどうのとか、集団免疫がどうのとか、どーんと一万人の死者を受け止めようとか、彼が語れば語るほど

  • どんびき

であった。しまいには、ひろゆきが出演しているネットの番組で、「キレちらかし」て、こいつの本性が、白日の下に、ばれてしまった。彼の「GOTOトラベルで感染は拡大しない」というレトリックが、

  • とても「ひろゆき」を前にして、主張するに耐えられるようなロジックでなかったw

ことが、まさに、

  • 本人の「狼狽ぶり=切れちらかした醜態」

として、白日の下にさらされて、多くの国民に

  • 大学教授って言っても、こういう「チンピラ」と変わらない、適当なことを言って、世の中を渡っている人もいるんだな

ということを「ばらして」しまった、という意味では、これも一種の「御用学者」の特徴なのだろう、と納得をさせた、という意味では、「反面教師」としての意味はあった、とは皮肉として言えるのかもしれないが。
言ってみれば、京大の宮沢先生は、「調子にのってた」ということなのだろう。彼がもしもあれが、関西のテレビ局だったなら、今まで通りに、誰もなにも気にしなかったのかもしれない。しかし、こと東京で、あの醜態は、完全に

  • 放送事故レベル

だった、ということは言っておいた方がいいと思う。彼はそれ以降も、YOUTUBEなどの動画配信で、小声で、物騒なことをつぶやいているんですよねw つまり、本当は、人前に出しちゃいけない系統の人なんだと思うわけ。出せば、確実に放送事故を起こす、という意味で。もう、そういう人生を繰り返してきたから、どこでも、誰とでも、やっちゃうわけです。すぐキレる。そうだとすると、ちょっと東京のテレビには出せないですよね。たしか、ビートたけしの番組に出ていたと思うけど、これって、録画だからね。しかも、かなり編集で短い時間にされていたし。
東京は東京の独自の文化があり、独自の「規範」とか「ルール」がある。この満員電車文化もそうで、あれだけ、小池都知事が解消するって公約で掲げても、まったく解決できなかったものが、新型コロナで完全に消滅したわけ。
たったこれだけの理由で、東京人が新型コロナ対策を「良かった」と思わない理由があります?
つまり、さ。俺が京大の宮沢が嫌いな理由は、こいつが、まるで

  • 俺が世界中の困っている人の気持ちを分かっている

みたいな態度で、正義ずらぶって話しているのが、虫酸が走るわけでしょ。なんなの、偉そうに、って。お前のウイルスの知識がなんだろうが、なんでお前の言うことに、国民が賛成しなきゃなんねえんだ、っていう謙虚さがないわけでしょ。勝手に、他人を代表すんなよ。なにを行うべきかを決めるのは、民主主義なんであって、お前じゃねえんだよ。
しかも、K値とかもってきて、明らかに、人を騙す気満々じゃねえか。多くの人が素人だと思って、どうせ何を言ったって分かりゃしないと思って、ペテンで他人を騙して。だけど、

  • 結果として、自分は人のためになることをしているんだから、嘘を言っても、自分が正義なんです

ていうレトリックなわけでしょ。だから、K値を自分が語ることには「正義」があるんだ、と。まあ、パターナリズムだよね...。

なぜ「萌え」が衰退し、「推し」になったのか?

現代倫理学が、カントの義務論と、ベンサム功利主義に分かれる、と言うけど、実際の分析哲学系において、そもそも、倫理学功利主義を区別していないんだよね。つまり、カントの義務論は実際には相手にされていない。
しかし、そういった場合に、例えば、トロッコ問題のようなものがありますよね。つまり、こういったものは「未解決問題」のように処理されて、だけど、基本的には、功利主義でいいんだ、というった論理の組立になっている。
こういった立て付けになぜなっているのかと考えてみると、例えば、文系を圧倒的に支配しているのが、フロイト精神分析ですよね。つまり、心理学という分野が確立されて、基本的に、このアイデアで、世界を整理していこう、といった学問の方向がある、ということなんだと思うわけだ。
つまり、人間を構成している、最初の要素は

  • 欲望

だ、という説明ですね。これは、確かに心理学的なんだけれど、多分に、唯物論的でもある。つまり、やっぱり、実体として、欲望はあるんだ、と。例えば、食欲とか、性欲とか、ですね。
もしもそういったものが「ある」なら、その「実在論」から、世界を説明していかなければならない、となる。なぜなら、実際にあるのだから、避けては通れない、ということになるのですから。
しかし、もしもそれを認めると、さまざまに難しいことになる、とは言えるわけです。
例えば、「萌え」を考えてみましょう。なぜ、この言葉が、急激に衰退したのかは、例えば

  • オタク

という言葉が、近年では、むしろ、

  • イキりオタク

という表現に変わっていることから分かるように、基本的にネガティブな言葉として整理されてきているわけですね。これと同じで、「萌え」は、どこか、センシティブな臭いがするわけです。なにか、性的な衝動を記述するものとして、より直接的に、オナニーで「いく」、といったような行為とも近いものとしてイメージされるようになっていく。
フロイト精神分析で、より積極的に、性欲や射精を、「記述」することを目指したのに対して、ゼロ年代は、どちらかというと、こういった精神分析的な、

  • 人の心の根底の記述

のようなものが、より「文学的」なものとして評価された傾向があるのに対して、それ以降は、こういったものを、

  • 公共的な場所

で披露することが、よりセンシティブなものとして、BANされていく、という方向に向かった。
こういった方向は、上記の現代哲学の文脈で言うなら、

と考えるとこができると思っている。
例えば、「萌え」に変わって、近年の流行語は「推し」である。「推し」とは何か、というと、

  • 「推し」ている本人の「感情」の記述というよりも、その「推し」の対象へのリスペクトを表現するもので、フォーカスしているポイントが変わっている

という特徴がある。「推し」は、どちらかというと「推されている人」にとって、「どれだけ推しの人がいるか?」といった、定量的な扱いができる形になっており、軸が、「推されている人」の側に移っているわけである。
なぜこういったことが起きるのかというと、つまり、「推し」は、「推す側」が徹底して「推される側」の

  • 尊厳

を認める、という構造になっていることが前提なので、この一線を越えることは恥かしいこととして整理されるからである。
そもそも、功利主義は、その当人の「行動」をどう評価するか、という話だったのに対して、カント主義では、

  • あなたは、あの人の「尊厳」を認めますか?

に変わっているわけです。これがあって始めて、人間社会の秩序は成立する、というのがカントの義務論ですから、明らかに「推し」は、カント主義を前提にしている。
ゼロ年代が主に、東浩紀先生などの、「高学歴の文系の先生」たちが理論的に先導したこともあり、フロイト精神分析をかなり意識したものとして構築しようとした意志が感じられる、かなり「文系的な衒学」の色彩を帯びたのに対して、それ以降のこの「推し」文化の興隆は、言ってみれば、

を意味している、と言ってもいいんじゃないだろうか。また、このことを逆から考えてみると、それだけ、カント主義の主張が根強い、ということなんだろう。
ベンサム功利主義は、「なぜこの世界には道徳が存在するのか」と問うことで、実質的な、「道徳不要論」に到達したんだと思うわけである。つまり、全ては科学で決めればいいんだから、それ以上の「前提」を置くことは、反人間的な態度だ、と嘲笑したわけです。
ところが、実際の私たちの社会を見渡すと、当たり前に、道徳はあるし、まるでそれが、

であるかのように、誰もその自明性に対する懐疑を主張しない。
なぜかといえば、私たちがそれまでこの人間社会で生きてきた「知恵」が関係している、と言うしかないわけだろう。みんな回りもそうしていたし、そうすると、比較的に潤滑に回りが動いてくれて、物事がいい方向に回る。だったら、それを変える必要はないし、それを尊重する、と。
ということはつまりは、「相手を尊重する」ということなわけで、まさに、カント主義なんですね...。