映画「ジョーカー」についての世間の反応

まあ、私もあんまり映画とか、詳しくないんですよね。ましてや、アメコミなんて、まったく興味もないし見てもいない。だから、この映画がバットマンのスピンオフなんだっていうのも、作品を見て、ネットの情報でやっと知ったくらいなんですよね。
ただ、映画館に行って、さすがにこんなシリアスな映画なのになんで

  • 若い人

ばっかりがこんなに、映画館を満員にするほど見に来ているのかっていうので、怪しいとは思った。これ。おそらくは彼らが見ようと思った作品じゃないよねw こんな、まるで、純文学みたいなのを見せられるとは思っていなかったんじゃない?
この作品は世界的な大ヒットだけど、他方では、その暴力描写が物議をかもしている。そして、ネットでは、京アニの青葉を代表例として「無敵の人」の典型として、この映画を受け取ろうとしている、共感的なコメントが多いように思われる。つまり、「私はジョーカーだ」って言いたいのだろう。
ただ、私がこの映画を見ていて思ったことは、少し違った。
この映画は、中盤になると、ある主人公のアパートの近所に住んでいる黒人女性との、まるで「懇意な仲」であったかのような描写が、この映画の中では、あまり違和感なく見えたわけであるが、すべて

  • 妄想

だったということが、その黒人女性とのある場面を描くことによって示される。しかし、である。もしもそうであるなら、

  • 一体、この映画に「真実」はあるのだろうか?

というのが、まったく分からなくなってくる。例えば、これもネットではよく言及されているが、最後の牢獄のような、サナトリウムのような場面の描写は、まるで、この映画の描いたほとんどが、主人公の妄想なんじゃないのか、といった解釈を呼び込んでしまいかねない、そういったものだったように思う。
おそらく、最初の方の描写はまだいいわけである。問題は、国の福祉への援助が中止されて、主人公が

をもらえなくなるところから、ほとんどその先は、妄想と現実の区別がつかない描写なんじゃないのか、という印象が強く感じる。
この映画についての私の印象は、以下でマイケル・ムーアが、この映画は「重要」と言っていることに尽きているんじゃないのか、と思っている。

銃社会を重要視するマイケル・ムーア監督、映画『ジョーカー』を大絶賛! 「この物語が提起する問題は非常に深く、我々に必要」 | tvgroove

つまり、「銃」の問題である。主人公はひょんなことから、銃を手に入れてしまい、また、それを手放すタイミングもなく、ずっと懐に抱えてしまっている。そして、それに上記の公共機関の福祉による、薬の処方が、ある日を境にストップされたことが重なって、

  • 思わず、反射的に拳銃を撃ってしまう

わけである。そして、それ以降、その拳銃を撃つことへの心理的な抵抗が、著しく低下していくわけである。
ようするに、私たちは理性で「拳銃」を管理できない。拳銃を所持している限り、なんらかのタイミングでそれを使ってしまうし、その使ったという実績が、それ以降の再使用のハードルを下げてしまう。ましてや、なんらかの精神障害を抱えていたのにも関わらず、国家の

  • 福祉削減政策

によって、薬を処方してもらえなくなれば、そこから、さまざまな「副作用」が現れるのは、ものの必然なのではないか?
マイケル・ムーアにしてみれば、銃社会の問題を、そういった意味で、かなり直線的に、その因果関係を描いた作品として重要視したのだろう。そして、他方においてこれは

にもなっているわけで、そう考えれば、彼がこの作品を評価するのは当然なんじゃないのかとすら思えてくるわけである...。

ライプニッツの最善説と「観光客の哲学」

東浩紀先生の『観光客の哲学』は、この本全体を通して

を巡って行われている。

最善説とは、「世界は最善であり、悪の事実にもかかわらず合目的的であり、有限な諸事物の価値は、普遍的全体を実現する手段として肯定されるというテーゼ」のことである。要は、世界は全体としてうまくいっているんだから、細かい悪いところには目をつむっておけという考えだ。その起源はプラトンアリストテレスにまで遡る(というより日常的にはあらゆるところに見いだせる)が、最善説の哲学をもっとも体系的に展開したのは、一七世紀から一八世紀にかけて生きた哲学者、ライプニッツである。彼は『弁神論』で、「あらゆる可能的世界の中に最善なるものがないとしたら神はいかなる世界をも産出し得ないであろう」と記している。神は存在する。神は最善である。したがって、神がこの世界をつくったのだとすれば、この世界もまた最善のはずだ。そんな世界に悪があるように見えるのは、ぼくたち人間の知性が制限されているからにすぎない。現実に戦争や災害や事故があり、苦しむひとがいたとしても、それは神の計りしれない配慮において、必ず最善につながり救済につながっている。これがライプニッツの世界観である。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

もちろん、この個所はヴォルテールライプニッツの最善説批判の文脈で紹介されているものに過ぎないわけ、上記の記述から分かるように、東先生自身はこの説に対しては、ニュートラルな態度である。
しかし、である。
私はこの本を読んでいて、それは違うんじゃないのか、と思うようになってきた。つまり、東先生は、このライプニッツの最善説に同意しているんじゃないだろうか? というのは、読んでいると、何度も何度もこの話題がでてきて、しかもそれは、どちらかというと「ライプニッツの最善説を肯定的に解釈する」人たちの文脈においてなのだ。

アナーキー・国家・ユートピア』、四八一頁以下。本論で展開する余裕はなかったが、ここでノージックは、まさに本書の議論が出発点とした最善説に触れている(ライプニッツの名前は出てこない)。ノージックの考えでは、すべての可能世界のなかで最善なもの、すなわちユートピアを探究するために必要な権力論的な枠組み、それこそが最小国家なのである。最小国家のうえで、ぼくたちはみなそれぞれのユートピアを設立し、それぞれの最善世界を生きる。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

東先生は何度も自分はリバタリアンだと語っているし、このノージックの本の重要さを何度も強調している。しかし、そういった存在であるノージックの、この本に言及するにおいて、何よりも優先して、ノージック

と同型な主張の個所に注目している。

その立場はまた、書名に登場するもうひとつの言葉、「偶然性」とも深く関係している。公的なものと私的なものの分裂を受け入れるというのは、言い換えれば、自分の私的な価値観がたんなる偶然の条件の産物でることを認めるということだからである。ぼくは、たまたま日本人だから、たまたま男性だから、たまたま二〇世紀に生まれたからこのような信念を抱いているのであり、別の条件のもとではまた別のことを信じただろう、と想像をめぐらせることだからである。ローティはつぎのように記している。「自分のもっとも高位の希望を語るときの語彙が、すなわち、自分の良心そのものが偶然の産物であることを認めながらも、しなしなおその同じ良心に対して忠実であり続けるような人々を、二〇世紀のリベラルな社会はどんどん生み出しているのである」。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

これは一見すると「最善説」とは関係ないように見えるかもしれない。しかし、最初のライプニッツの最善説を説明したときに語っていたことを思い出してもらいたい。

  • そんな世界に悪があるように見えるのは、ぼくたち人間の知性が制限されているからにすぎない。現実に戦争や災害や事故があり、苦しむひとがいたとしても、それは神の計りしれない配慮において、必ず最善につながり救済につながっている。

つまり、

  • 貧乏人が貧乏なのは「しょうがない」

ということが言いたいわけなのだ。つまり、たとえ今の現実がそのように一見すると、さまざまな偏在した「不幸」に覆われているように見えても、

  • 神の差配

によって、実は「最大多数の最大幸福」が実現されている、っている主張なんだよね。だから、これは

  • 最善

なんだから、そういった貧乏人の貧乏は

  • いろいろな「さらにもっと考えられる」不幸を回避できているという意味では、その中では「最善」なわけであり、神はそういった可能性の中での「ベスト」に導いていたんだ

と言っているわけである。
そう考えると、上記の個所も基本的には同じことを言っていることが分かるのではないか。

  • 貧乏人が貧乏なのは「しょうがない」

なぜなら、それは「偶然」だからだ。いや、それが「偶然」であるということが、神が「最善」を実現したことを証明する。なぜなら、偶然である限り、

  • 誰も優遇していない

ということを意味しているから。ここで

  • 貧乏人が貧乏なのは「しょうがない」

というのは、貧乏であることが苦しくないとか、そういうことが言いたいのではなく、その貧乏になることでさえ

  • お金持ちを含めて、誰もが「平等な確率」で<選択>されたんだから、この選択の地平において「平等」であることは間違いないんだから、だったら、やっぱり神が自分を「平等に扱ってくれた」という意味で、今の自分の境遇を「満足して」受け入れなければならない

というロジックになっているわけである。

ダーウィンが唱えた進化論は、一般には、歴史に特定の目的を見いだす(文系的な?)イデオロギーを一掃した、信仰など入る余地のない、完全に科学的な世界観だと見なされている。けれども、吉川によれば、そこにも最善説が入りこんでいる。なぜならば、進化論とはそもそも、いまぼくたちが目にしているこの生物相、すなわちこの現実こそが、長い淘汰の結果として生まれた「最善」の生物相であるはずだというきわめてライプニッツ的な信念に支えられているからである。形態だけを見れば、生物にはしばしば欠点がある。しかし、それらの「まちがい」も、淘汰の過程ではきちんと理由があって残ってきたものだと捉えるのが、言い換えれば、本質的にはまちがいでは「ない」ものだとして捉えるのが、進化生物学の公理なのだ。吉川によれば、その発想の是非は、いまだに進化生物学で問われ続けている。彼は、スティーヴン・ジェイ・グールドによるリチャード・ドーキンスへの批判(適応主義批判)の本質は、学会では十分に理解されなかったが、まさにその最善説的性格に対する批判にあったと主張している。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

この進化論に言及した文脈も、一見すると、ドーキンスの適応主義を批判しているように読めるわけだが、よく見てみると、むしろ話は逆で

  • これだけ、ドーキンスの適応主義が今のアカデミズムで成功しているのには、その「最善説」的な性格を含めて、適応主義が、かなりの割合において、世界の「真理」の側面をもっているからだ

と言っていることには変わらないわけであろう。
ようするにさ。東浩紀はこの本で、確かに、このライプニッツの最善説の評価において揺れているんだけれど、そうではありながら、彼がこの説に、ちょっと誰にも負けないくらいには

  • 魅かれている

っていうことは間違いないんだよね。

たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産むべきであり、そのためには経済的あるいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。そしてこのふたつの道徳判断は、現代社会では(奇妙なことに!)矛盾しないものと考えられている。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

ここで東先生は、ある一定の条件で

  • 女性への強制

は「認められる」という主張を突然始める。つまり、人間社会は一定の割合において「人間の奴隷化」は認められる場合があるんだ、と言い始めるわけである。
なぜ彼はこんなことを言っているのだろう?
東先生は人間を「強制していい」と言っている。しかし、もしもそうだとするなら、ここでの「強制」は何によって、東先生は正当化される、と考えているのだろう?
よく考えてみてほしい。
上記で言及されている「少子化問題」とは、主に、日本を中心とした、

  • 先進国

で見られる現象である。しかし、地球上で見れば、一貫して人口は増加している。つまり、人類は今だに、一度として「人口減少フェーズ」に移行したことがない。つまり、地球上の人口を、なんらかの食料問題や病気問題などを介すことなく、人間の振る舞いの「コントロール」によって、人口を減らするこに成功した試しがない。
そうだとするなら、ここで「女性は子どもを産め」と命令する場面とは、具体的にどんな人間の状況をイメージして言っているのだろう?
分かるだろうか?
彼は「女性は子どもを産め」と強制することは許される、と言っている。そして、必ず、そういった場面は人類社会であるんだ、と言っている。しかし、じゃあ、その場面って、どういう場面なのかについては語らない。それは、ある、きっと、ある、としか言っていない。
ここで私がこだわっているのは、東先生が

  • たとえ、人間を「奴隷(=動物化)」にしてでも、女性に子どもを産ませなければならない

と言っているから、それはなんなんだ、と聞いているわけである。よく考えてみてほしい。もしこれが「真実」なら、どんな犯罪も正当化されるわけであろう。つまり、もしもこれが正しいなら、この社会は最初から「奴隷」が存在することでさえ許されなければならないことになるだろう。つまり、あらゆる「強制」は、絶対にこの社会からなくせない、と言っているわけである。
このことが何を意味しているのか、について、この傍証として、以下が注目に値する。

「市民は法によって危険に身をさらすことを求められたとき、もはやその危険について損失を判断する立場にはいない。そこで、統治者が市民に向かって、「おまえの死ぬことが国家に役立つのだ」と言うとき、市民は死ななければならない」。作田啓一訳、『ルソー全集』第五巻、白泉社、一九七九年、一四一頁。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

ここでも東先生は、国家や家族が、その家族の一員を

  • 強制<できる>

ということを、その必須の、この世界の「真理」として取りあげる。この議論は一貫して繋がっている。ライプニッツの最善説は、

  • 人間は自分の不幸を「しょうがない」と思わなければならない(なぜなら、「それ」さえもが、神が差配してくれた「最善」であり、それを理解できない、人間の能力の限界こそが問題なのだから)

といった理屈になっていたのと同じように

  • 国民は国家が自殺しろと言ったら「自殺しなければならない」(なぜなら、「それ」が一般意志の計算によって「最善」であり、それを理解できない、人間の能力の限界こそが問題なのだから)

と、まったく同じレトリックであることが分かるだろう。
東先生が一貫して言いたいのは

  • 貧乏人が貧乏であることは「しょうがない」ことだから「あきらめろ」

ということが、言わば、形を変えて、何度も何度も反復されているわけである。今、あなたが貧乏であること、それをお金持ちに責任を押しつけることは

  • 神の意志に反する悪

であるのだから、受け入れなければならない。それは、貧乏という「必然」がもたらす結果なのだから、絶対に誰かのせいにしてはならない(倫理的に許されない)、という理屈になっているわけである。
おもしろいですよね。これを、現在、比較的に「成功」している東先生が、他の人と較べて、人生の「成功者」である彼が、貧乏で苦しんでいる人たちに

  • 説教

をしているわけですw
じゃあ、なぜそうなのでしょう? それは、ライプニッツの「最善説」なわけですが、つまりは

  • 今このようにある(現実性)には、この世界の根源的な「真実」が現れている。

ということになる。つまり、この世界の今の有り様に対する、絶対的な「従順」こそが、この世界を生きるために必要な態度だ、ということになる。
そこから、強烈な

  • 保守思想

が導かれることが分かるだろう。この社会の、「いかなる」側面であろうと変えてはいけない。変えることは、神の「最善」を壊すことを意味し、必然的に、世界の混沌を導く。だとするなら、今の

  • お金持ちは「さらにお金持ち」に
  • 貧乏人は「さらに貧乏人」に

は絶対に変えてはならない、この社会の絶対法則となる。
そして、ここから「家族」に世界の重要なパーツを求めることが必然的に導かれる。

『何をなすべきか』では、男ふたりと女ひとりの共同生活が理想として描かれていた。それに対してドストエフスキーは、たんにそれが非現実的だと言っただけではない。男が女を取られていいわけがない、もしそういうことがあるとすれば、それはおまえが女がほかの男に抱かれるのを見て興奮する変態なだけだからだ、と残酷な観察を突きつけていたのである。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

同時に『何をなすべきか』は恋愛小説でもある。そしてそちらでも先進的な恋愛観を描いている。それもまた若い読者に支持される原因になっただろう。
ヴェーラには最初に恋人がいる。けれども彼とは思想が合わない。そこに新しい男性が現れる。いろいろあったすえに、ヴェーラはそちらとつきあうことに決める。ところが元恋人は嫉妬したり悲しんだりすることがない。彼は、すべてを受け入れ、新しい恋人とも意気投合し、最終的には三人で共同生活を始める。このいっけん奇妙に見える展開は、物語のなかでは「新しい人間」という言葉で描写されている。新しい社会を築くには、人間も新しくならねばならない。それがヴェーラたちが繰り返し言う言葉である。排他的な私的所有を放棄し、物品だけでなく異性すら「共有」しようとする登場人物たちのすがたは、その新しさのモデルになっている。ヴェーラはつぎのように(いささか性的な連想をともないかねない比喩を使って)語っている。「発達した人間には嫉妬などをもつ余地はありません。これはゆがめられた虚偽の感情、いとうべき感情です。これはほかの者にわたしのシャツを着させない。ほかの者がわたしのパイプでたばこを吸うことをゆるさないというのと同じで、人間を自分の所有物と見なすことからそういう考えが生まれるんです」。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

ここは非常に重要な場面だ。私たちは確かに、東先生の言うように

  • 二人の男による、一人の女性の「共有」

に生理的な嫌悪感を抱きがちになる、と思われる。こんなことを言われると、やっぱり、昔からある人類の「慣習」に従うことには、重要な真実がある、と思わされる。
私たちの「人類の昔からのその様態」には、決して変えてはいけない、なんらかの「根源」があるんじゃないのか、と。
しかし、ね。
本当に、そう考えていいのかは、やはり疑うべきなのである。

こうした実験結果を受けて、グリーンは功利主義擁護のための路線を少々切り替えたようである。最新の彼の議論の要旨は以下の通りである(Greene 2013[2015, 2014)。]

  • (前提1'')義務論的判断は、システム1の挙動であり、それは進化的に形成されたものである。
  • (前提2'')義務論的判断は、それが形成された環境と異なる現代社会の道徳的問題の解決には寄与しない。
  • (結論'')義務論的判断は、正当性を欠いている。

(飯島和樹+片岡雅和「トロッコに乗って本当の自分を探しに行こう 「自然化」のあとの倫理学」)
atプラス32(吉川浩満編集協力)

『モラル・トライブズ』を書いた、ジョシュア・グリーンは、功利主義を正当化するための論陣を維持するために、上記のような

  • 進化の「世代間」のズレ

を認めなければならない場所に追いこまれる。つまり、

  • 今の私たちは、「過去の環境」に適応しているに過ぎず、「今」に適応していない

と言っているわけである。このことは一見すると、たいしたことではないように聞こえるかもしれないが、根本的に

  • 進化論の正当性の<危機>

に陥れている。私たちは「最適」じゃない。そこに時間のずれがある。
例えば、小学校、中学校、高校での「全国学力テスト」を考えてみよう。まあ、東大入試でもいい。ここで、東大に受かるということは

  • その人は「優秀」である(そうあるように、神が「最善」に差配した)

ということと解釈される。しかし、この学力テストが何を高得点で計算するのかを決めるのは、

  • 私たちが何を「高得点」だと考える<ようにできているか>

に依存するわけで、つまり、これを決定するのが

  • 過去の環境に「適応」した、私たちの遺伝子

だということになる。しかし、その「最適」は、あくまで「過去」に対して最適になっているだけで、「今」ではないし、ましてや「未来」ではない。そこで、

  • もしかすると「成績劣等生」にこそ、なんらかの形での「未来の優秀さ」が、その萌芽として隠されているんじゃないのか?

という可能性が見え隠れする。しかし、もしもそれを認めてしまったら、今の学力テストでのし上がってきた、高学歴エリートの

  • 正当性

に疑義が発生するということになってしまうので、彼らは絶対にこれを認められないのだ。
例えば、以下の本では、ホモセクシャルな男性二人のカップルが、第三者の女性からの「卵子提供」によって、さらに第三者の女性の母胎による「代理出産」を行うという方法によって、

  • 実子

を産んで育てている、というケースが紹介されている。

・交代で
サロガシーを複数回行うことで、順にそれぞれの精子を利用する人もいるらしい。それぞれに遺伝的につながりのある子どもを授かる方法。これだと、どちらかを選ぶ必要はなくなるが、経済的に体力のあるカップルでなけば成し得ないだろう。
・親類から卵子提供を受ける場合
片方の男性の親類などから卵子提供を受けることができる場合、必然的にその相手側の精子を利用することになるだろう。そうすることにより、ふたりの間の直接の子どもはできないにしても、両方の親がその生まれてくる子と血のつながりをもつことができる。
(みっつん『ふたりぱぱ』)
ふたりぱぱ:ゲイカップル、代理母出産(サロガシー)の旅に出る

この方々の例を紹介することで私が言いたかったのは、ここでの

  • 当たり前・常識

の自明性を揺さぶりたかったからなのだ。もう少し未来になって、さまざな条件が成立していくことによって、私たちのさまざまな常識も変わっていくのかもしれない。そして、こうやって変わっていくことには、上記にあるように

  • 進化論的な整合性

があることが分かる。
ここで、東浩紀先生と、千葉雅也先生との間に最近あった「ケンカ」のいきさつを振り返っておこう。とはいっても、以下の二つの記事が、大変よくまとまっているので、より詳しくは、これらを参考にしてほしい。

私たちが、家族である/になるということ【ゲンロン】 - SUBLIME SUBJECT
男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也 - Togetter

なぜ、この「ケンカ」が重要なのか。それは、千葉先生が東先生と同じ東大の表象文化学科の出身であり、ほとんど唯一と言ってもいいくらいに、東先生を評価しているアカデミズムの人である、というところにある。
だから、東先生はツイッターでも千葉先生をフォローしていた。ところが、ある日、千葉先生はこんなツイートを行った。

男らしさからもう降りようというのも、LGBTの味方ですというのも、いまさら言ってるのであって、リベラル男のそういうのは、昔はそうじゃなかったのの「転向」なんですよ。僕は許さないからな。転向して良い人になりました、なんてぜってー認めてやんねーよ。
@masayachiba 2019/03/06 20:50

これは、ネット上のあるニュース記事に反応してのものだったわけだけれど、ホモセスシャルであることを公言している千葉先生には、こういった「ひらき直り」が、世の中にあまりにも蔓延しているがゆえに、許せなかったわけであろう。
しかし、このツイートを見た東先生は、反射的に、これとまったく「同じ」趣旨の発言をやってしまったわけである。

数年前なら、ぼくはこういうことは言わなかったと思う。むしろ男女比率など気にせず内容で判断すべきだと言ったと思う。態度を変えた原因は多層的で、意識が進んだということもあれば、警戒するようになったというものもあるが、核の核を言えば、僕自身が男性性に「疲れた」というのが大きいと思う。
@hazuma 2019/03/07 05:35

千葉先生にしてみれば、直前で怒った手前、一貫性を保つためには、これについての同様に怒らないわけにはいかなった。

同性愛者には、家族概念の抑圧性をなしにして家族をアップデートしましょうというのは安易に聞こえる。母の顔、父の顔、何を言っていいか言わないか。家族は理解し合わなくていいというドライな家族観もあるだろうが、ならどうしてこんなに同性愛たちは家族へのカムアウトでつらい経験をしているのか。
@masayachiba 2019/03/10 20:37

率直に言いますが、男性的な競争原理プレッシャーを四方八方にかけまくって、対男性でダメージを与えていたのってまさに東さん当人じゃないですか。何をいまさら言っているのか。僕もそれで嫌な思いをしましたよ。自分が男性的攻撃性を向けられて疲れた?それもあるのでしょうが、しかしねえ。
@masayachiba 2019/03/07 06:41

昔はやんちゃだった男が「疲れて」よりリベラルに転向する、女にも男にも慎重になると言っ
たって、じゃあ前のことはどうなるんや、ですよ。
@masayachiba 2019/03/07 06:43

怒っている。
@masayachiba 2019/03/07 06:43

僕はゲイで國分さんはノンケだから対立するはずだ、ちゃんと対立しろとゲンロンカフェのイベントでアウティングしてまさしく男性的に競争を煽ったのは東さんじゃないか。
@masayachiba 2019/03/07 06:49

まあ、分かりますよねw もう一度、上記の文脈を思い出してもらいたい。東先生はようするに

  • 自然

に反することは、異常だ、って本当は言いたいんだね。だから、LGBTも「子どもを産めな」という意味では、本当は認めたくない(というか、「女性を強制して子どもを産ませることができる」と言っているんですから、東先生の言っていることは、普通に解釈すれば、LGBTを否定してますよねw)。
例えば、東先生はこんなことも言っている。

いい年齢して男子校ノリでお恥ずかしいw

昨日のニコ生の都知事選2016タイムシフト視聴で見たけど、面白かったなー。にしてもいかにも男子たちの盛り上がりだよね。ここに出ているひとたちみんな誰も陰険じゃないのがいいね。
@lullymiura 2016/07/14 00:53

@hazuma 2016/07/14 04:09

つまり、彼の「男子校出身のノリ」は、彼にとっては、自然必然なもので、

  • 絶対的に肯定されるべきもの

という延長で、東先生の雑誌や、対談動画の相手が

  • 男ばっかり

だったことが、今まで「意図的に選ばれて」きた、という文脈があるわけでしょう。

功利的に判断したら「生まれないほうがよかった」となるのなんてあたりまえで、たとえば生まれたら絶対に死ぬ危険があるんだから、死ぬリスク回避するんだったら最初から生まれないのがいちばんだよね。しかし、そもそも哲学者はそういう屁理屈を超えるためにあると思うんだけどな。。
@hazuma 2019/03/13 21:59

功利的に判断したら「生まれないほうがよかった」となるのなんてあたりまえで、たとえば生まれたら絶対に死ぬ危険があるんだから、死ぬリスク回避するんだったら最初から生まれないのがいちばんだよね。しかし、そもそも哲学者はそういう屁理屈を超えるためにあると思うんだけどな。。
@hazuma 2019/03/13 21:59

ま、なんとなくの雑感です。ぼくは生きたいね。そして、娘が生まれてきてほんとよかったね。やつももう中学生だけど。
@hazuma 2019/03/13 22:01

これは、反出生主義は「屁理屈」だと馬鹿にしているところだけど、いろいろ言葉を労しているけど、言いたいことは一言

  • 子どもを産まない奴は「反社会的存在」

という、この社会で苦しんでいる人たちを追い込むような「脅し(おどし)」なわけでしょうw

子どもの数は絶対に増やしたほうがいい。むろん、その主張と、目のまえのひとりひとりに子ども作るべきだというかどうかは別。後者はかなり個別事例で異なるからね。でも全体としては子どもは増やしたほうがいい。この前提で社会は動くべき。
@hazuma 2013/04/01 21:28

その区別ができていないと、「いまの時代、家族も多様だし子ども作るのが正しいとはなかなか言えないからね〜」的な話と、「子どもは減るしかないんだ」的な話が混同されてしまう。多様な生のありかたを認めることと、子ども増やすことはぜんぜん両立するはず、というか両立しなければ未来はない。
@hazuma 2013/04/01 21:30

まあ、百歩譲って、人間は未来に生き延びた方が、今の私たちは、そうやって、なんとか未来にも人間が生き残れる社会を残そうと努力している、という意味で子孫が残っていってほしいと思うことは理解できなくはない。
でも、さ。
だったら、以下のようなことを言うなって思いません?

いや、ぼくは子供のころから決定的にひとぎらいです。RT [S:@:S]nakamiya893 ちょっとだけごまかしていませんか?僕も猫町に来るようになる前までそう思っていて気付かなかったけど、実はそこには色々前提や条件あるんじゃないですか?
@hazuma 2013/04/01 20:36

絶対に子どもを産むべきって言ったそばから

  • ひとぎらいです

って言っちゃう、この感覚ってなんだんだろう? これって、まったく、上記のドストエフスキーの『地下室の手記』の反復ですよねw その主人公は、複数の男が一人の女を「共有」することは、自分のマゾヒスティックな性癖を吐露しているだけだっていうわけだけど、絶対に子どもを産むべきって言っているそばから、「ひとぎらい」とわめいちゃうのって、ようするに

  • そうやって産まれてくる「貧乏人」たちに、現世での生活で<地獄>を味わせたい

っていう「サディズム」があるようにしか聞こえないんですけどねw 千葉雅也先生に、ほとんど絶交と変わらないようなヘイトを言われて、それでも「ゆるふわ」でヘラヘラしてって、しまいにはこれですからね。まあ、こんなレトリックじゃあ、反出生主義を真剣に考えている人たちから馬鹿にされても、しょうがないですよね...。